- 鬼和尚の仏教勉強会 悟りの真実 2 [無断転載禁止]©2ch.net
928 :名無しを整える。[sage]:2017/10/24(火) 18:39:27.78 ID:ZejJnVQC - ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、6、サビヤ 510 サビヤがいった、「疑いがあり、惑いがあるので、わたくしは質問しょうと願って、ここに来ました。わたくしのためにそれを解決してください。わたくしが質問したならば、順次に、適切に、明確に答えてください。」 511 師は答えた、「サビヤよ。あなたは質問しようと願って、遠くからやって来ましたね。あなたのために、それを解決してあげましょう。あなたが質問したならば、順次に、適切に、明確に答えましょう。 512 サビヤよ。何でも心の中で思っていることを、わたくしに質問なさい。わたくしは一つ一つ質問を解決してあげましょう。」 そのとき遍歴の行者であるサビヤはこのように考えた、「まことにすばらしいことだ。まことに珍しいことだ、 ──わたくしが他の<道の人>たち、バラモンたちのところでは機会さえも得られなかったのに、道の人ゴータマがこの機会を与えてくれた」と。かれは、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、師に質問した。 513 サビヤがいった、「<修行僧>とは何ものを得た人のことをいうのですか? 何によって<温和な人>となるのですか? どのようにしたならば、<自己を制した人>と呼ばれるのですか? どうして<目ざめた人>(ブッダ)と呼ばれるのですか? 先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」 514 師は答えた、「サビヤよ。みずから道を修して完全な安らぎに達し、疑いを超え、生存と衰滅とを捨て、(清らかな行いに)安立して、迷いの世の再生を滅ぼしつくした人、──かれが<修行僧>である。 515 あらゆることがらに関して平静であり、こころを落ち着け、全世界のうちで何ものをも害うことなく、流れをわたり、濁りなく、情欲の昂まり増すことのない<道の人>、──かれは<温和な人>である。 516 全世界のうちで内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭(いと)い離れ、身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人、──かれは(自己を制した人)である。 517 あらゆる宇宙時期と輪廻と(生ある者の)生と死とを二つながら思惟弁別して、塵を離れ、汚れなく、清らかで、生を滅ぼしつくすに至った人、──彼を(目ざめた人)(ブッダ)という」 そこで、遍歴の行者であるサビヤは、師の説かれたことをよろこび、随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。 518 サビヤがいった、「何を得た人を<バラモン>と呼ぶのですか? 何によって<道の人>と呼ぶのですか? どうして<沐浴をすませた者>と呼ぶのですか? どうして<竜>と呼ぶのですか? 先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」 519 師が答えた、「サビヤよ。一切の悪を斥け、汚れなく、よく心をしずめ持って、みずから安立し、輪廻を超えて完全な者となり、こだわることのない人、──このような人は<バラモン>と呼ばれる。 520 安らぎに帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかの世とを知り、生と死とを超越した人、──このような人がきさにその故に<道の人>と呼ばれる。 521 全世界のうちで内面的にも外面的にも一切の罪悪を洗い落とし、時間に支配される神々と人間とのうちにありながら妄想分別におもむかない人、──かれを(沐浴をすませた者)と呼ぶ。 522 世間のうちにあっていかなる罪悪をもつくらず、一切の結び目・束縛を捨て去り、いかなることにもとらわれることなく解脱している人、──このような人はまさにその故に<竜>とよばける。」 そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。 523 サビヤがいった、「諸々の目ざめた人(ブッダ)は誰を<田の勝者>と呼ぶのですか? 何によって巧みなのですか? どうして<賢者>なのですか? どうして<聖者>と呼ばれるのですか? 先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」 524 師が答えた、「サビヤよ。天の田・梵天の田という一切の田を弁別して、一切の田の根本の束縛から離脱した人、──このような人がまさにその故に<田の勝者>と呼ばれるのである。 (´・(ェ)・`)つ
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929 :名無しを整える。[sage]:2017/10/24(火) 21:04:35.40 ID:ZejJnVQC - >>928
514 何を得た人を出家修行者(比丘)というのですか?」という質問に対するブッダの解答。 あるべき比丘の状態が述べられている。 比丘は阿羅漢であるべきだということになる。 現状に安住せずに精進すべきだということ。 「生存と衰滅とを捨て(虚無(非有:無)も、実体(有:存在)も、〔両者ともに〕捨棄して)」とは、「有・無を超越した」ということ。 有・無の世界は現象の世界。涅槃は現象の世界を超越した世界なのでこのように表現されている。 515 「何によって、『温和な者』と言うのですか?」に対するブッダの答え。 温和なという言葉のパーリ語sorataの訳は「柔和な、同情ある、やさしき、可楽」。しかし、ブッダの説かれるsorataはそれ以上のもの。 「@平静(無関心)」、「A念のある(気づきある)」、「B害さない(殺さない)」、「C(煩悩)を渡った」、「D濁りのない」、「E情欲のたかまりのない(増長がない)」。 @ 冷静で平等であること。無関心のように見えるが、執着がないこと。 A 念があるとは気づきがあること。自分の身口意の行動が自覚的であること。 B 生き物を殺さないこと。生き物に対する慈しみの心があること。 C 激流に例えられる激流を渡ったこと。煩悩を克服したこと。 D 心に煩悩がないので、心には濁りがなく澄み切って透明であること。 E 情欲の高まりがなく、興奮することがないこと。 516 「どのようにしたならば、<自己を制した人>と呼ばれるのですか?」に対するブッダの答え。 自己を制する或は調御するとは、感覚への対応を制御すること。 何故ならば、感覚に対する反応からいろいろな感情が現れるから。 感覚器官で快を感じると欲が生まれ、不快を感じると怒りが現れるから。 また快でも不快でもないと、無関心になり、意識が不明瞭になる。 感覚のこのような感じ方は業によるものであり、不可避。しかし、この感覚は永続しないもの。 この感覚を持続させたり、増大させたりするのは思考(妄想)や習慣など。 感覚から現れる感情を感覚に対する思考を制御することによって、感情を制御できる。感情を制御できれば、自己を制御できる。 「内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し」 内面的とは感覚の楽、苦、不楽不苦。外面的には感覚の対象。 眼耳鼻舌身意において内面にも外面(色声香味触法)にも執着しないこと。 「この世とかの世とを厭(いと)い離れ、 身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人」 感覚を制御した人は、死に対する感情も制御している。逆に死に対する感情も制御できる人が感覚を制御した人というのでしょう。 517 「どうして<目ざめた人>(ブッダ)と呼ばれるのですか?」に対するブッダの解答。 「あらゆる宇宙時期」 「Kappniを完全に考察して」と答えた。 Kappaの意味 @ 時、時間、劫(コウ)、長時、周期的な時間の長さを言う→輪廻の一時期をいうことがある A 教令、法則 B 分別、妄想、はからい、想念、概念 C カッパ樹、如意樹 ブッダは、Kappaを完全に考察して、特に死と再生の輪廻の意味をすべて考察し尽くして、世間の塵から離れ、汚れなく、清浄な人となり、生の滅尽に至った人を「覚者(悟った人)だと言う」と述べたす。 「生の滅尽に至った人」汚れをなく、清浄な人、すべての煩悩をなくした人。 「どうしても生きたい」という渇愛をなくしているの。それで生存の要因がなくなっているので、生が滅尽している。輪廻はしない解脱した人。 (´・(ェ)・`)つ つづく
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930 :名無しを整える。[sage]:2017/10/24(火) 21:05:13.86 ID:ZejJnVQC - >>928
519 「何を得た人を<バラモン>と呼ぶのですか?」のブッダの解答です。 バラモンとは、一切の悪をしりぞけて、自己を確立している人。 一切の悪をしりぞけているので、世間の塵、煩悩の垢から離れている。 煩悩の垢(五蓋)から離れて、心の統一(禅定)によって、智慧を得て、輪廻の原因を越えた人。 渇愛や偏見に執着しないので、とらわれのない人。 そのような人が崇高な人(バラモン)。 520 「何によって<道の人>と呼ぶのですか?」に対するブッダの解答。 「安らぎに帰して(静まった者となり)」samao(沙門)は静まった人ということ。 沙門は出家修行を意味するときがあるが、そうすると比丘と同じような意味になる。しかし、出家修行者の内面に注目すると、心が静まっているということが重要。 ものごとを良い悪いとこだわると心が静まらない。世間の塵とは欲や怒りのこと。これらの煩悩から離れると心は静まる。 善悪を捨てること。 善と判断しても、悪と判断しても単純には決められないということがある。 善悪を言って騒がずに、冷静に必要な対応・対策をするべき。 この世のこと、あの世のことを知って、生死を超越すれば、心は動揺することなく、心は静かな状態。 人間の最大の関心事は生と死。この問題に決着をつけるためには、この世あの世についてよく知る必要がある。心を静まった沙門はこの問題に決着をつけた人。 521 「どうして<沐浴をすませた者>と呼ぶのですか?」に対するブッダの解答 あらゆる悪をなくした人、悪を洗い清めた人を「沐浴者」と呼ぶ。 その際、罪や悪である心の汚れは、感覚や認識の領域(十二処)で生じるので、「全世界のうちで内面的にも外面的にも(内に、さらには、外に、一切の世において)」と表現されている。 眼耳鼻舌身意と色声香味触法において心が汚れる。これらの十二処で汚れたらすぐ汚れをなくす人を沐浴者というと述べた。 仏教では時間というものはないと考えている。あるのは存在の変化だけ。その変化を見て、時間があると妄想分別しているのだと言う。 十二処で心の汚れが生じるとは、そこから時間や妄想分別が現れること。「時間に支配されている」とは妄想分別していること。悪を洗い清めた人とは妄想分別をしない人。その人が「沐浴者」 522 「どうして<竜>と呼ぶのですか?)」に対するブッダの解答。 訳語の竜(竜)のパーリ語はngoですが、その意味は「@象、A龍、Bすぐれた聖者(行者、とくに仏をさす)」。 「何故すぐれた聖者を龍(象)と呼ぶのですか?ということ。 すぐれた聖者は、この世において如何なる罪も作らず、悪も為さない。 世間のしがらみ(束縛)の中にいても、それに決して拘束されることはない。 あらゆることに対して執着することがない。解脱している。それは完全に自由であるということ。 そのような人がすぐれた聖者であり、龍(象)と呼ばれるのにふさわしい人。 523 @ 田(Khetta)の意味は、耕地、田、田畑(身心または業を示すことがあります。 福田(布施や供養を捧げる対象となる仏、僧団など、ここに種をまくと、功徳・福徳という果が得られるというので田に例えられる。) 「田の勝者」とは、「心身に打ち勝った者」と理解して、質問の意味は「ブッダは誰が身心に打ち勝った者というのですか?」ということ。 524 「諸々の目ざめた人(ブッダ)は誰を<田の勝者>と呼ぶのですか?に対するブッダの解答。 身心とは五蘊(色受想行識)。五蘊を考察すれば、それらは無常であり、苦であり、無我であることが知られる。これらを知れば、これらに対する執着がなくなる。執着がなくなれば、これらから解脱する。 更に、人間のみならず神々や梵天の身心も考察して、それらに対する束縛を根本から断ち切って、解脱し、自由になっている人。 (´・(ェ)・`)つ
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931 :名無しを整える。[sage]:2017/10/24(火) 21:09:27.45 ID:ZejJnVQC - >>927
ブッダのことば(スッタニパータ) がおわったら、ヴェーダの講読ゼミをやりたいと思ったのでありますが、全文は見つからなかったであります。 (´・(ェ)・`)つ
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933 :名無しを整える。[sage]:2017/10/24(火) 22:48:29.93 ID:ZejJnVQC - >>932
鬼和尚ありがとうであります。 コピペできるガラ携サイトで探してみるであります。 『バガヴァッド=ギーター』とかでも良いのでありましょうか? (´・(ェ)・`)つ
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