- 【議論】日本びいきの外人を見るとなんか和むスレ
384 :おさかなくわえた名無しさん[sage]:2012/09/03(月) 06:48:15.57 ID:F4ywqFQb - >>381 ストーカーって名乗りなよ。
>>383もタトエバ認定かよ。自分らキモイと思わんの?
|
- 日本びいきの外人を見るとなんか和むPart199
237 :鮭[sage]:2012/09/03(月) 06:57:52.77 ID:F4ywqFQb - 【ペルーが泣いている】
ペルーで一番有名な「日本人」といえば、アルベルト・フジモリ元大統領で 間違いないでしょう。(彼は日本人ではないのかもしれませんが) では、フジモリ大統領が、ペルーの政治の表舞台に登場する以前、 最も有名だった日本人をご存知でしょうか? その人の名は加藤明。 ペルーの女子バレーボールを世界トップレベルにまで引き上げた人物です。 加藤氏は1933年(昭和7年)神奈川県生まれ。 八歳の頃、ローラースケートで遊んでいる最中に腕を骨折。 リハビリではじめたバレーボールにのめりこみ、中学・高校と バレーの練習に明け暮れます。慶応大学での活躍で、全国区に名を知らしめ、 1955年八幡製鉄に入社。1960年から八幡製鉄チームの主将。 その年、世界選手権に出場。 選手を引退し後、61年、母校の慶応大学の監督に就任。 八幡製鉄での仕事をしながら、2部リーグで低迷していた同校を短期間で強化、 64年の全日本大学選手権での優勝にまで導きます。 ペルーの女子バレーボールは、64年の南米選手権に優勝しているものの、 世界規模での大会では泣かず飛ばず、オリンピックには出場すらできていませんでした。 世界を舞台に戦うため、厳しい練習を課す加藤氏でしたが、ペルーの女子選手たちは、 それに全くついていけません。練習に音をあげ、逃げ出す選手が続出。 それを連れ戻す日々が続きます。 新聞には、「非人道的な練習」「野蛮な国から来た野蛮な監督」との 批判記事が掲載される始末。
|
- 日本びいきの外人を見るとなんか和むPart199
238 :鮭[sage]:2012/09/03(月) 06:59:05.79 ID:F4ywqFQb - それでも加藤氏は諦めませんでした。
ペルー全土を歩き回り、才能のある少女を発掘してまわります。 指導はバレーだけではなく、精神面や生活に関しても行われました。 一体感を醸成するためか、練習後は、たびたびスキヤキを作って 選手たちに振舞いました。そうした食事の席で、ギターを弾きながら加藤氏が 歌ったのが「スキヤキ」こと「上を向いて歩こう」だったといいます。 加藤氏の熱意は、やがて選手たちに伝わっていきます。 実力は、格段に向上。ペルーチームは第五回世界選手権の出場を勝ち取ります。 しかしながら、2年間の休職期間に終わりが近づいていました。 加藤氏は期間の延長を求めましたが、会社はそれを却下します。 1967年(昭和42年)東京で行われた世界女子バレー選手権が、 加藤氏にとって、ペルーの代表監督としての最後の仕事となるはずでした。 選手権では、出場国中最下位。 「せめてもう少し指導ができたなら……」 空港で、苦い思いを噛みしめる加藤氏。彼との別れを惜しむペルー選手団の姿が 新聞の紙面を飾りました。 これが幸運を呼び込みます。記事を見て、会社側が加藤氏に理解を示したのです。 さらに一年間、休職を延長することを認められました。 翌68年、ペルーチームは飛躍します。 初出場となるメキシコオリンピックで、主催国メキシコ、韓国、さらにアメリカを 次々に撃破。四位に入賞。メダルまでもう一息の実力をつけたのです。 当時、ペルーでは子供にAKIRAと名づける親も多かったといいます。 彼は3年で「野蛮な監督」から一転、「ペルーの英雄」となったのでした。 その後、加藤氏は、監督業に専念することを決意。 会社をやめ、代表監督としての指導を続け、ペルーに永住するつもりだったようです。 本人の固い決意と周囲の期待。加藤監督の元、ペルーの女子バレーボールに更なる 躍進があるかに思われました
|
- 日本びいきの外人を見るとなんか和むPart199
239 :鮭[sage]:2012/09/03(月) 07:00:03.08 ID:F4ywqFQb - しかし、加藤氏は突然倒れます。
ウィルス性急性肝炎。多くのペルー国民の回復への祈りもむなしく、 1982年、加藤明氏は、49歳の生涯を終えたのでした。 死の翌日、新聞各紙は「ペルーは泣いている」などの見出しで、その 悲しいニュースを伝えました。その日、首都のリマでは、協会の鐘が打ち鳴らされ、 弔意を表す車のクラクションが、一晩中鳴り止まなかったといいます。 加藤氏の葬儀には5万人のリマ市民が参加。 ベラウンデ大統領が弔辞をよせ、参列した加藤氏の教え子たちは、 かつて監督とともに歌った、「上を向いて歩こう」を、 涙ながらに合唱したのでした。 半年後の秋、地元ペルーで初めて開催された世界選手権。 選手たちは一丸となって戦いました。予選、第一ラウンドをグループ一位で通過。 そして、予選第二ラウンド。 これまで一度も勝てず、選手たちの長年の目標であった日本チームを撃破。 勝利の瞬間、会場には紙吹雪が舞い、観客席から「アキラ・カトー」の 名前が終わることなく連呼されました。 その後、ペルーチームは、準決勝でアメリカを破り決勝戦進出。 惜しくも、決勝で中国に敗れたものの堂々の銀メダル。それまでの国際大会で 最高の成績を収めたのです。 80年代、ペルー女子バレーボールチームは全盛期を迎えます。 南米選手権では、83年から四大会連続で優勝。84年ロス五輪、4位。 86年世界選手権、銅メダル。そして、88年ソウル五輪では、銀メダル。 多くのペルーの国民が、これを加藤氏の業績と考えています。
|
- 日本びいきの外人を見るとなんか和むPart199
240 :鮭[sage]:2012/09/03(月) 07:02:18.23 ID:F4ywqFQb - 加藤氏の偉業を伝える記念碑が、ペルーの日本大使館の敷地内にあるとのこと。
現在でも、献花に訪れる方がいるそうです。 http://tatoeba1.seesaa.net/ http://tatoeba2.seesaa.net/article/276914654.html#more
|
- 【議論】日本びいきの外人を見るとなんか和むスレ
386 :おさかなくわえた名無しさん[sage]:2012/09/03(月) 07:48:49.35 ID:F4ywqFQb - >>385 自分のキモさを悟ったか?
|
- 日本びいきの外人を見るとなんか和むPart199
273 :おさかなくわえた名無しさん[sage]:2012/09/03(月) 20:49:57.78 ID:F4ywqFQb -
http://tatoeba2.seesaa.net/article/286626997.html 【中国皇帝に愛された日本人三蔵法師】 「三蔵法師が日本人」などと書くと、「歴史捏造するな」とお叱りを 受けそうです。中国のネット掲示板などに書き込めば、「日本人がわが国の 偉人を盗もうとしている」などの書き込みで、炎上してしまうかもしれません。 でも、これは必ずしも嘘ではないのです。 三蔵法師といって思い浮かべるのは、普通、玄奘三蔵ですよね。 インドから唐に経典を持ち帰り、西遊記のキャラクターのモデルとなった人物です。 しかし、三蔵とは本来、経蔵・律蔵・論蔵の三つの仏教経典のこと。 また、唐代において、その三つの経典に精通したとされる僧侶のことです。 具体的にいえば、インドや西域から送られてきた経典の翻訳に実績をあげた 僧侶の尊称なのです。 つまり、三蔵法師は玄奘以外にも複数存在します。 そして、その一人が、日本の興福寺の僧侶、霊仙(りょうせん)なのです。 霊仙は天平宝字3年(759年)の生まれとされています。 延暦23年(804年)遣唐使の一人として空海・最澄・橘逸勢などと ともに唐の都・長安に渡ります。 空海とともに、インド・カシミール出身の僧、「般若」に師事し、 梵語(サンスクリット語)を学習。(この般若も三蔵法師です) 語学の天才・空海は三ヶ月ほどで、般若より経典を与えられ、 今度は、青龍寺の恵果和尚の元に向かい密教を修行。これも短期間で修め、 滞在僅か2年ほどで日本に戻ります。
|
- 日本びいきの外人を見るとなんか和むPart199
274 :おさかなくわえた名無しさん[sage]:2012/09/03(月) 20:50:41.13 ID:F4ywqFQb - 霊仙はというと、引き続き、般若の元で梵語の経典を当時の中国語への
翻訳作業に従事。作業の中心となる役割を果たし「三蔵」の尊称を得るのです。 当時の留学生・留学僧は、朝廷より国の将来を背負うと見込まれたエリート。 ネイティブスピーカーである唐の僧が、他に多数のいるにもかかわらず、 日本人の霊仙が翻訳のリーダーとなったのですから、彼の才能も驚異的です。 彼が日本に帰国できていれば、空海の真言宗、最澄の天台宗に匹敵する仏教の 一大宗派が生まれていたことでしょう。 時の唐の皇帝、憲宗は、仏教の熱心な保護者であり、才能豊かな僧である 霊仙にも目をかけ、その修行を後押し。 しかし、それが仇となりました。 皇帝のお気に入りとなり、中国仏教の秘法を授けられた霊仙は、 帰国を禁じられてしまうのです。 その後、反仏教勢力に憲宗が殺害され、身の危険を感じた霊仙は長安を離れます。 没年はハッキリしません。一説には毒殺されたとも言われています。 しかし、霊仙の門人たちは、後の日本からの留学僧を手厚く遇し、 霊仙が伝えられなかった秘法・大元帥法は、門人たちの協力のおかげで、 円行・常暁によって日本に伝えました。 (ちなみに日本の軍隊における最高位、「元帥」はこれに由来するともいいます) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%94%B5%E6%B3%95%E5%B8%AB http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E4%BB%99 ちょっといい話があります。 朝廷は、霊仙に帰国の見込みがなくなった後も、留学の費用である金を 人づてに送り続けたそうです。また、日本にいる、霊仙の家族にも、稲千束を 支給するように定めたとのこと。 こういうのは、日本人らしくて、私が個人的に好きなエピソード。
|
- 【議論】日本びいきの外人を見るとなんか和むスレ
389 :鮭[sage]:2012/09/03(月) 20:54:27.16 ID:F4ywqFQb -
みんな、粘着には必死だけど。 本気でスレを立て直そうとしている人って、誰もいないよね。 卑怯だねえ。
|