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おさかなくわえた名無しさん
【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】16

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【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】16
557 :おさかなくわえた名無しさん[]:2012/03/22(木) 19:27:23.26 ID:criyggfz
>>556
つまりあなたは「知識」を低レベルなもの、低次元なものと位置づけたいだけだ。
そう思う込みたいからそう考えている、ということ以外内容は何もない。
【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】16
559 :おさかなくわえた名無しさん[]:2012/03/22(木) 19:50:27.99 ID:criyggfz
>>558
> これも最初から言っている通り、(知識は)「それに拘りやすいから良くない(傾向がある)」
> これ以上でも以下でもありません。

「よくない傾向がある」と見ているのは、低く見ているということだよ。

あなたは、知識を真理とは認めないのだろう?

> しかし巧く使えないなら、たとえば全体を著しく見渡せなくなったりしたなら、
> それは「巧い使い方をしなかった」、という事です。

それは「知識であるかないか」という問題とは全く無関係ではないか。
「知識」を「巧い使い方をしなかった」ことが悪いだけで。
【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】16
562 :おさかなくわえた名無しさん[]:2012/03/22(木) 20:30:42.28 ID:criyggfz
>>561
> 低い、低くないなどというのは、存在しないんですよ。

それじゃなぜ、断片的なものだけを知識と呼び、全体を知識と呼ぶことを頑なに拒否する?
あなたが「低い、低くないなどというのは、存在しない」と言うのとは裏腹に、知識を低いものと
見ている証拠だ。

> ジグソーパズル(の完成)には、ピースが必要なのであり、ピースを「低い」「低くない」と論じるのは、ピントの外れた行為と言えるでしょう。

ピースが知識なのではなく、ジグソーパズルの完成形が知識なのだよ。

あなたはジグソーパズルの完成形を知識とは認めず、ピースだけを知識と言い張るのだから、
知識を未完成なもの、下等なもの、と見なしたいという願望が見て取れる。

> 「知識の用い方」の話をしています。

なら完成形=知識、でいいだろ?
【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】16
564 :おさかなくわえた名無しさん[]:2012/03/22(木) 20:38:39.67 ID:criyggfz
>>563
完全に解脱した人には、死の恐怖もない。
【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】16
568 :おさかなくわえた名無しさん[]:2012/03/22(木) 21:06:41.82 ID:criyggfz
>>566
> ……その感覚が分からないと言いますか、分かりようがないんですけどね。

そりゃ完全に同じ感覚は解脱しなければ分からないでしょう。
しかし、想像し理解することができないわけではありません。

あなたはなぜ死を恐れますか?おそらく、現世の生への執着があるからでしょう。

しかしそうではない人もいます。
たとえば死後の世界の実在を信じて確信しているイスラム過激派は、平気で
自爆テロをやります。現世より来世の幸福を確信していれば、死の恐怖はないわけです。

あなたは、今日が終わったら明日がやってこないかもしれないという恐怖がありますか?
普通はないでしょう(しかしそういう病気の人もいます)。
今日の次に明日が来ると確信しているように、死の次にすぐ幸福な来世が来ると確信
している人は、死に対して恐怖を感じません。

仏教における解脱では、イスラム教のような来世を信じるわけではありませんから、
理屈は違いますが、現世への執着が無くなるために、死の恐怖を感じなくなるのは同じです。

> 「危険を察知しなくなる」ということであれば、
> 例えば階段を下りるというよりは落ちるような状態になってしまうのではないかなと。

危険を察知しなくなるわけではありません。解脱した人も、身の安全は守ります。
死を恐れないからと言って、イスラム過激派のように命を粗末にしたり、自殺したり
はしません。寿命が尽きるまでは、やるべきことがたくさんあり、命を粗末にはできないからです。
【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】16
570 :おさかなくわえた名無しさん[]:2012/03/22(木) 21:34:32.16 ID:criyggfz
>>569
> 確実に幸福な来世が来ると信じられるのなら、
> たしかに「いつ死んでもいい」にはなりますね。

そうなのですが、それは輪廻転生を信じるヒンドゥー教や極楽浄土などを
信じる大乗仏教、天国を信じるキリスト教やイスラム教などの諸宗教に
おいての話です。本来の仏教では、そのようなものを信じることなしに、
死の恐怖を乗り越えることがミソです。

死に関する仏典の言葉をいくつか引用します。


「物質的領域を熟知し、非物質的領域に安住し、消滅において解脱する人々は、死を捨て去ったのである。」
「この世の人々が、諸々の生存に対する妄執にとらわれ、ふるえたいるのを、わたしは見る。下劣な人々は、種々の生存に対する妄執を離れないで、死に直面して泣く。」
「ねがい求める者は欲念がある。また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も存しない者、──かれは何を怖れよう、何を欲しよう。」
「 いかなる所有もなく、執著して取ることがないこと、──これが洲(避難所)にほかならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死との消滅である。」
「バラモンよ。名称と形態とに対する貪りを全く離れた人には、諸々の煩悩は存在しない。だから、かれは死に支配されるおそれがない。」
「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界が空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、<死の王>は、見ることがない。」
【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】16
572 :おさかなくわえた名無しさん[]:2012/03/22(木) 21:49:00.39 ID:criyggfz
>>571
そうではない。強い思い込みによって抑えるならば、自分を騙しているだけなので、安定したものではなく、
ちょっとした拍子に解けてしまい、また恐怖にとらわれてしまう。
来世を信じる宗教にすがって信仰した場合などは、最後まで信じ続けられる人もいるかもしれないが。
しかしそれは悟っているとは言えない。
【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】16
575 :おさかなくわえた名無しさん[]:2012/03/22(木) 22:18:11.47 ID:criyggfz
修行は納得と理解の上で進んでいきますから、そんな恐怖はありません。
無理やり自分の感覚を矯正したり、自分を騙したりするわけでもありません。

簡単にいえば、何者にも動じない強い心を作ることです。


諸々の愚者に親しまないで、諸々の賢者に親しみ、尊敬すべき人々を尊敬すること、──これがこよなき幸せである。
適当な場所に住み、あらかじめ功徳を積んでいて、みずからは正しい誓願を起こしていること、──これがこよなき幸せである。
深い学識あり、技術を身につけ、身をつつしむことをよく学び、ことばがみごとであること、──これがこよなき幸せである。
父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、──これがこよなき幸せである。
施与と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ることと、非難を受けない行為、──これがこよなき幸せである。
悪をやめ、悪を離れ、飲酒をつつしみ、徳行をゆるがせにしないこと、──これがこよなき幸せである。
尊敬と謙遜と満足と感謝と(適当な)時に教えを聞くこと、──これがこよなき幸せである。
耐え忍ぶこと、ことばのやさしいこと、諸々の(道の人)に会うこと、適当な時に理法について聞くこと──これがこよなき幸せである。
修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎ(ニルヴァーナ)を体得すること、──これがこよなき幸せである。
世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること、──これがこよなき幸せである。
これらのことを行うならば、いかなることに関しても敗れることがない。あらゆることについて幸福に達する。──これがこよなき幸せである。」

内容は簡単なことばかりです。簡単ですが、真剣にブレずに実践を続けるのは難しいことです。
「世界を空なりと観ずる」というのも、大乗仏教の「空」の観念に引きずられて訳されていますが、「虚しい、空虚である」という意味です。世界には
執着すべきものは何もない、と認識する、ということです。そして動じない心になった結果として、死の恐怖も自然に消滅します。いずれ死ぬことは当たり前のことと受け止められ、どうでもよくなるのです。
【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】16
577 :おさかなくわえた名無しさん[]:2012/03/22(木) 23:14:47.77 ID:criyggfz
>>576
> >>内容は簡単なことばかりです。
> これで簡単なのですか(いや私は少々汚れた人なので)……orz

理屈は簡単って意味ね。簡単なことほど、実践は難しい。

> もし途中で元に戻った場合、「執着しないようにしていた期間」が
> 空白期間になるという「後悔」に繋がる恐れもありますね……。

別にその期間ただじっとしているわけではありませんから、そんな心配には及びません。
むしろ在家は、普通に仕事もしますし、余計な執着が無ければ、人間関係も仕事もうまく
いくことが多いです。社会的成功と、仏道修行は矛盾しません。
釈尊の在家の弟子の中にも、大富豪はたくさんいます。教えを実践して、ますます成功
している人がたくさんいるのです。(もちろん、そういう人は貧しい人や教団に布施をしたりして、
社会に還元もしますが。)

そして、あなたの仰る通り、行ったり来たりしながら人は成長します。
悟りには色々な段階があり、預流果や一来果の段階では、まだ後戻りします。
不還果に達して始めて、もう後戻りしないと言われています(不還果ではまだ死の恐怖は
残っています)。

しかし元に戻ってしまった場合も、執着を離れていた期間は心に嬉しい経験しかしていませんので、
「「執着しないようにしていた期間」が 空白期間になるという「後悔」」なんて起きませんし、
むしろ逆で、一度経験すれば忘れられないので、元に戻ってしまった人でも、何度でもまた
仏の教えを思い出して、挑戦しよう、ということになるのです。


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