- 【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】16
305 :おさかなくわえた名無しさん[]:2012/03/12(月) 00:56:30.49 ID:O2h3mIyy - >>304
「正しい瞑想法」などというものはないのだ。 しかし「正しい道」と「誤った道」はあり、気をつけなければならない。 たとえば、学問や受験勉強を想像すれば分かりやすいだろう。やたらと「正しい勉強法」を探すことにこだわる人がいる。 一日何時間勉強すべきか、どの参考書や問題集をやるべきか、 英単語をいくつ覚えるべきか、そしてやれ「一冊の網羅的な問題集をじっくり繰り返しやるべき」だの 逆に「薄い問題集をたくさんやるべき」だの、いい加減なことを言って結論の出ない議論をしている。 そんな議論する暇があったら問題の一つも解けば良いのに。 瞑想法に関する混乱やこだわりも、これと似たようなものだ。 確かに手法によって良し悪しはあるものが、それは人それぞれ違うのだ。人によって 向き不向きがあるのだ。良き師ならば、対機説法によってそれぞれにぴったりの 指導をしてくれる。良き学校の先生が、それぞれの学生の能力や性質にあった 指導をしてくれるように。しかし、もし良き師に巡り合えていないならば、自ら自分に 合った手法を見つけ出すしかないのだ。ただし手法にこだわる必要はない。正しい 道さえ歩んでいれば、必要な時に必要なことが自ずと分かるからだ。正しい道とは、 心身が落ち着き、明朗でいて、知恵を働かせることを心がける生き方だ。 人に親切で、心清らかにあれ。 >一つでいいので具体的なやり方を説明してほしい。 以上書いたように、人それぞれ相応しい瞑想法が違うのだが、一つ具体的に 挙げるとすれば、万人に応用が効き、害の心配のない安般念だ。これも細かい ことを言い出せばきりがないのだが、基本はこうだ。ゆったりと安定して背筋を 伸ばして座り、呼吸を見ながら、心身をよく見て鎮めていくのだ。この時、頭の中を無に するべきかとか、呼吸を数えるとか、そんなつまらないことにこだわる人が多いが、 ただ鎮めようという意識を向けるだけでよい。無理やり鎮めようとするのでもない。 落ち着こう、静まるまで待とう、という念を持って、静まるのを待てばよいのだ。 この「意思」が重要なのだ。頭を空っぽにしたり、数を数えているだけでは、意思の力が 働かないので意味がない。いくら瞑想しても進歩がないという人は、自分の意思や志を再確認するとよい。
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316 :おさかなくわえた名無しさん[]:2012/03/12(月) 16:09:58.20 ID:O2h3mIyy - >>307
> 現時点ではオニ氏の定義がややハッキリしないため 鬼和尚に限らず、「我(Atman)」を「自己の根源、永遠不滅の実体(以下、真我と記す)」という 意味だと思い込んでいる人が多いのだ。 しかしそれはバラモン教の特殊な思想なのだ。 経典における「我(Atman)」の使用はそれだけではない。単に「一人称(われ、私)」としても使われるし、 現代の哲学や精神分析学で使われるような「自我(自己意識、自己認識)」という意味でも 使われる。 それは当たり前で、Atmanはもともとサンスクリット語で「自分」というだけの意味であって、 それにバラモン教が特殊な意味を付加したのだから。 丁度、日本人が、単なる一人称の漢字である「我(ワレ)」を「我(ガ)」と読んで、特殊な意味を 無意識に付加しているように。大和言葉の「ワレ」と漢字音読の「ガ」を使い分けていること からしても、違いは明白だろう。漢字で「我」と表記すると見分けがつかなくなる。 つまり、「我」には、「私、自己、自我」(ワレ)という用法と、「真我」(ガ)という用法の2通りがあるのだ。 ところで、経典の中でどの意味で使用されているかは、その都度、文脈や状況、誰が話しているのか、という ことから総合的に判断するしかない。バラモンが「我と梵は同一なのじゃ」「己を世界と一体にするのじゃ」 などと言っていれば、その「我」は当然「真我」のことだ。 そして、そのような「真我」なるものは妄想に過ぎない、というのが釈尊の教えなのだ。 「非我なるものを我と思いなし、名称と形態(個体)に執著している。「これこそ真実である」と考えている。」 「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界が空なりと観ぜよ。」 この場合の「我」は、バラモン教における「真我」の意であって、そのような思想に執着するな、と言っているのだ。 一般に現代人が「自我」からイメージするような、「自己意識」を捨てろ、などというようなことではない。(続く)
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317 :おさかなくわえた名無しさん[]:2012/03/12(月) 16:27:20.84 ID:O2h3mIyy - >>316
(続き) ところで、一般の現代日本人は、2500年前のインド人とは違い、 「真我」や「梵我一如」などという思想を最初から持っていない。「真我」がある などと誰も思っていないのだ。最初から無我なのだ。 だから、現代日本人に対してドヤ顔で「我」があるとかないとか説いても 意味ないのだ。「我(真我)を捨てよ」などと言ったところで、最初から無いものを、 捨てることはできない。 そういう意味で、現代日本人は、当時のバラモンやその教えを 信じて「真我」に固執していた民衆よりも、幸運にも、生まれつき悟りに一歩 近づいている存在なのだ。 しかしおかしなことに、日本の大乗の坊主の多くは(特に禅では)、バラモン教の思想に毒されていて、 「自他の区別を無くして無二になれ」とか「世界は一つであることを体験することが悟り」(梵我一如)とか、 バラモン教の教えをまき散らしているw 挙句に、「我(真我)」など誰も持っていないし、そんなものに誰も執着していないのに、 「我(真我)を捨てよ」などと言うw 「我(真我)を捨てよ」はバラモン教そのものではなく、「我(真我)は実在する」という バラモン教の教えに対するアンチテーゼではあるのだが、あくまでバラモン教の教えを信じている ことを前提にして成立するアンチテーザなのだ。現代日本人には関係ないことなのだ。 「我(真我)」の思想に執着しているのはむしろ大乗の坊主自身なのだ。
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318 :おさかなくわえた名無しさん[]:2012/03/12(月) 18:01:53.81 ID:O2h3mIyy - >>314
その通り。 「空」も中国大乗の漢語に引きずられて、変な意味に誤解されているが、 本来「空虚、虚しいもの」という程度の意味なのです。 しかも、何もかもが「空」なのではない。「空」でないものもある。 大乗は全ては空(一切皆空)などと言っているが、それは間違い。 たとえば、マッジマ・ニカーヤにはこうある。 「空であるものは、この想いにあるものであって、(それは)村についての想いに向かうものである」と知る。 「空であるのは、この想いにあるものであって、(それは、)人についての想いに向かうものである」と知る。 「あるのは、この、森についての想いによる独住であって、それだけが、空でないものである」と(知る。) 」 つまり「空」(むなしいもの、空虚なもの)なのは、村(享楽の場)や人(大衆)に執着する「想い」 であって、「森についての想いによる独住」、つまり執着を離れた修行は空しいものではないから「空」ではないのだ。 また、こういう言葉もある。 「空であるものは、この想いにあるもので、欲の煩悩としてあるものである」と知る。 「空であるものは、この想いにあるもので、生存の煩悩としてあるものである」と知る。 「空であるものは、この想いにあるもので、無明の煩悩としてあるものである」と知る。 「あるのは、この身体だけによって六処をもつものであって、(それは)命を縁とすることによっている、これだけが、空ではないものである」と(知る)。 欲や生存や無明の煩悩としてある「想い」が「空」なのであって、「この身体だけによって六処をもつもの」は「空」ではなく、「ある」 と言っているのだ。 だから「世界が空なりと観ぜよ」という言葉も、 世間は虚しいもの、空虚なもの、執着すべきでないもの、と観て、諸々の執着を捨てよ、 という意味なのだ。 物質や魂の存在論のような話では全くないのだ。
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326 :おさかなくわえた名無しさん[]:2012/03/12(月) 20:45:37.41 ID:O2h3mIyy - >>321
> もはや錯乱しているようじゃのう。 聞いているわしがなぜ言っている事になるのじゃ? 「我と言うと自我はある」はあなたが書いた言葉だよ。私が書いた言葉ではない。 > 誰もと言うからにはわしも入っておるはずであるが、今度はわしが言ったなどと言っておる。 「『我と言うと自我はある」』と誰が言っているのか?」と聞かれて「誰もそんなことは言っていない」、というのは 「私も貴方以外の誰もそんなことは言っていない」という意味だよ。『我と言うと自我はある』はあなたの書いた言葉でしょう。 私は『我と言うと自我はある』などとは書いていないのだから、「『我と言うと自我はある』と誰が言っているのか?」 などと聞かれても、「私も(貴方以外の)誰もそんなことは言っていない」、としか答えようがない。 「貴方以外の」を明示しなかったことで混乱したのであれば、言葉足らずであったかも しれないが、普通の国語力を持った人なら当然理解できるものと思った。 > 誰も言っていないのか、わしが言っているのか、どちらかが嘘か両方とも嘘と言うことじゃのう。 どちらも嘘ではなく、(貴方以外の)誰も言っていない、すなわち貴方が言っただけ、ということなのだ。 > わし自身がそのような事は言っておらんと明言しておるからには、わしが言ったなどという事は完全に嘘であるがのう。 ん?「我と言うと自我はある」というのは、貴方が書いた言葉でしょうw もう忘れたのか? 初出は223で、「我と言うと自我はあると、誰が言っているのじゃ?」という問の中で貴方が言っているのだ。
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327 :おさかなくわえた名無しさん[]:2012/03/12(月) 20:56:55.21 ID:O2h3mIyy - > 更には>>248で「釈尊の教えは、「自我がある」とか「自我がない」とかの主張ではないのだ」
> と、書いて居るが、おぬし自身が認めた通り「「我はシッダールタだ」「我は解脱した」などと度々言っているのだから、当然自我がある。」などというおぬしの主張はお釈迦様の教えではなく、勝手な解釈でありいつわりである事になるがそれでいいのかのう。 前者の「自我」は、永遠不滅の常住を意味するバラモンの特殊思想であるところの「我」(アートマン)なのだ。 後者の「自我」は一般に人々が用いている「私自身」「自己認識」という意味の「自我」なのだ。 それらの違い、使い分けについては316-317に詳しく書いた。 >お迦様もわしも、悟りを得た者でさえ間違いを犯すものじゃ。 違うなw 貴方が間違いを犯しているのは、悟りには程遠いばかりか、釈尊の教えの基本を全く理解していないからだ。お釈迦様も間違いは犯すかもしれないが(弟子を集団自殺させてしまったり、教団の分裂を 避けられなかったり)、自らの教えの基本を間違うなどということはない。 「お迦様もわしも、悟りを得た者」などと自らを並列に記すなど、不遜が過ぎるぞ。 貴方は、「悟った者は自我を滅し」などと主張(間違っているが)するわりには、自己執着が強すぎるw >>322 > >>307 わしは地獄へ堕ちるなどと言ってはおらんのじゃ。 > お釈迦様が言っておるのじゃ。 それを詭弁と言うw 「嘘をついてはいかんのじゃ。」と言って、補強するつもりで(虎の威を借りて?)お釈迦様の言葉を引用することは、 貴方自身が「地獄へ堕ちるぞ」と言っているのと同じことだ。 それとも、「嘘をつくと地獄へ堕ちる」という言葉を、「正しくない、支持しない」というつもりで 引用したのかな?そうではあるまい。 口意を整えよ。口を慎め。いい加減なこと、妄語を語るな。
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328 :おさかなくわえた名無しさん[]:2012/03/12(月) 21:11:59.21 ID:O2h3mIyy - >>322
> 記憶に依存した認識は自我を起こす因となるだけなのじゃ。 > 自我が無く、記憶に依存した認識のある状態もあるのじゃ。 ほらまた適当なことを書く。 あなたの言う自我(バラモン教のアートマン)など誰も最初から持ち合わせていないんだよ。 最初から無いのだ。「記憶に依存した認識のある状態もあるのじゃ」ではなく、記憶と認識 しかはじめからないのだよ。 > 記憶に依存した認識のが滅すれば悟りに至るのじゃ。 違うのだ。認識作用を滅すれば死んでしまう。 「寿命と熱と識別作用が身体を離れたとき、(身体は)うち捨てられて横たわり、意識なきものとして、他のものの食べ物となるのである。」 釈尊の悟りは、識別作用を滅するのではなく、識別作用に対する執着から離れることなのだ。 「色形に関して離れ、感受作用についても離れ、表象作用についても離れ、志向作用についても離れ、識別作用についても離れる。離れたものは、貪欲を離れて解脱する。」
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329 :おさかなくわえた名無しさん[]:2012/03/12(月) 21:17:39.11 ID:O2h3mIyy - >>328
認識作用と識別作用が混在してしまったが、ここでは感受作用、表象作用、志向作用、識別作用などの 心の働き(受想行識)をまとめて認識作用と呼んでいる。
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335 :おさかなくわえた名無しさん[]:2012/03/12(月) 22:58:25.67 ID:O2h3mIyy - >>332
言わなくても普通は分かるであろう。 鬼和尚は我(アートマン)にとらわれておるから分からなかったのだ。 鬼和尚は、「悟った者は自我を滅し、記憶に依存した認識をも滅しておる。」などと言っているが、 バラモン教の我(アートマン)なら、「ある」と思ってる常住論者にとっては、永遠不滅 の実在だから「滅する」ことはできない。また、「ない」と思っているものにとっても、 ないものはないのだから「滅する」ことができない。そしてまた、単なる自己認識、意識作用として の自我は、「自我に固執する見解をうち破る」べき対象ではあるが、「滅する」対象ではないのだ。 「自我を滅しなさい」というのは「自殺しろ」と言っているに等しいのだ。
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336 :おさかなくわえた名無しさん[]:2012/03/12(月) 23:02:26.06 ID:O2h3mIyy - >>333
「崇める」の定義は? 私は釈尊を少なくとも「尊敬」はしている。 >>334 簡単に言えばそういうことだな。どんだけー、だよ。 自我を滅したと言いながら、「鬼和尚」と名乗り、妄言を書き連ねているのだから、 滅茶苦茶な話だ。自我を滅したらそもそも生きてはいない。 自我を滅した存在は、死者だけだ。
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