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名無しさん@お腹いっぱい。
園田隆二総合スレッド
【ジャイアント篠原信一】

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園田隆二総合スレッド
454 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2019/03/21(木) 11:50:15.22 ID:9Ak2Njcx
3月21日 あの松井秀喜さんが「侍ジャパン」に対抗する新たな野球チームでも作ったのか、とびっくりした。その名も「ゴジラジャパン」。なんと全日本柔道連盟(全柔連)が
発表した、日本代表選手団の男女共通の愛称と聞いて2度びっくりだ。柔道も、ゴジラも日本発祥で力強いイメージが共通しているとか。
全柔連では、以前から国内外の選手の試合映像を分析するシステムを「ゴジラ」と呼んでいた。ゴジラの商標をもつ東宝がそのことを知り昨夏、コラボを提案し実現した
という。19日の会見では男子代表の井上康生監督が、着ぐるみのゴジラと組み合って写真に納まるなどPRにつとめた。
愛称の草分けとして広く浸透した「なでしこジャパン」(サッカー)はじめ「おりひめ…」(ハンドボール)、「さくら…」(ホッケー)など、女子の団体球技を中心に代表チームは
愛称花盛り。認知度アップに柔道も愛称をという気持ちもわからなくもないが、個人競技の柔道につける必要などあるのだろうか。
愛称を決めた先日の全柔連理事会でも「ゴジラは礼儀正しいのか」「破壊のイメージは柔道が目指すものと違う」などと異論が続出。いまや国民的アイドルになった
ゴジラだが、採決では22人の理事のうち8人が反対したというのもわかる。女子代表に「ゴジラジャパン頑張れ!」では笑ってしまう。
小欄の素人考えでは怪獣よりランクは下でも金メダルの松本薫にあやかって「野獣ジャパン」、柔道の父嘉納治五郎から「ジゴロージャパン」…。いや、日本発祥の
柔道には重みのある「柔道日本代表」しかない。美しく一本で決める日本柔道の精神からも、素のままで勝負してもらいたい。

【甘口辛口】「ゴジラは礼儀正しいのか」柔道日本代表の愛称に異論続出 素のままで勝負してもらいたい
https://www.sanspo.com/etc/news/20190321/amk19032105000001-n1.html

男女計10階級で個人戦が行われた。女子無差別級で前回準優勝の米川明穂(藤枝順心2年)が無念の3位。延長戦に持ち込んだ準決勝で昨夏の全国高校総体
70キロ級覇者・桑形萌花(兵庫・夙川学院1年)に払い腰で一本負けした。前回57キロ級3位の袴田佳名瑚(藤枝順心2年)は3回戦で敗れた。21日は男女の団体戦が
行われる。
巻き込むように背中から畳にたたきつけられ、しばらく立ち上がれなかった。米川は天井を見上げ「この大会に向けて、いろんな方にサポートしてもらってきたのに。申し訳ない。
悔しいという思いでした」と話した。
2度目の選手権にかけていた。初出場の昨年は2位。夏の全国高校総体でも銀メダルをつかんだ。うれしさもあったが、「パワー不足」など課題も多かった。それを補うため、
静岡学園に出掛けて男子選手相手に乱取りするなど、努力を重ねてきた。
身長166センチと、無差別級では上背がない分、担ぎ技も練習してきた。この日の初戦では一本背負いも決めてみせた。「この大会でタイトルを取りたい」という思いは
強かった。続く3、4回戦も大柄な相手を危なげなく攻め続け、「指導」を取って勝ち進んだ。
それでも、届かなかった。準決勝の相手・桑形は1学年下だが、黒潮旗大会など過去の対戦で「勝ったことがなかった」という。162センチと自分より小柄な相手に懐に
潜り込まれ、最後まで自分のペースに持ち込めなかった。「力不足だった。なにかが欠けていた」と悔しそうに声を振り絞った。
しかし落ち込んでいる暇はない。21日は団体戦が控えている。昨夏の全国総体はオール2年生メンバーで臨み、県勢23年ぶりとなる銅メダルに輝いている。もちろん
目標は優勝だ。勝ち進めば、夙川学院とは準決勝でぶつかる。「引きずっていても仕方がない。切り替えます」。気持ちをリセットして、今まで蓄えてきた力を武道館で出し切る。

藤枝順心・米川明穂、女子無差別級「悔しい」3位 団体戦へ「切り替えます」
https://www.hochi.co.jp/sports/etc/20190320-OHT1T50265.html
【ジャイアント篠原信一】
375 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2019/03/21(木) 11:54:04.27 ID:9Ak2Njcx
2000年シドニー五輪で銀メダルに終わった後、現役を引退した篠原信一(46)。母校の天理大で指導者の道を歩み始めて間もなく、日本代表監督に任じられる。
海外勢の猛烈な追い上げにさらされるなか、選手たちに厳しい稽古を求めるが、「心こそ大切」という篠原の思いは届かない。迎えた12年ロンドン大会で、篠原率いる
男子柔道は初の金メダルゼロとなった。(前回は「心技体『心が足りなかった』 篠原さん五輪決勝の悔恨」)
00年シドニー五輪柔道男子100キロ超級で起きた「世紀の誤審」で銀メダルとなった篠原信一は当時、「弱いから負けた」と短くコメントした。誤審は今なお、柔道界の
みならず日本の五輪史、スポーツ界に残る悔恨である。
しかし、勝負の極限で繰り出した「内また透かし」を見逃した審判への不服も、金メダルを争ったダビド・ドイエへの恨みがましい言葉も一切口にしなかった勝負師の潔さは、
誤審と同じ重みで語り継がれてきた。
19年がたち、その姿勢に変化はないが、心の澱(おり)を一滴一滴ろ過するかのような作業を経て、当時のコメントにようやく、しかしまたも短い言葉を付け加えた。
「あのときの自分には技も体もあった。けれど心が足りなかった。弱いから負けたと確かにそう言いました。でも、心が弱かったから負けた、それが正確なコメントでしたね」
野村忠宏が感じた「人間力」
忘れられない光景があるという。
表彰式が終わり、ロッカーに戻るとタオルをかぶって「何のためにキツイ練習に耐えて来た? あそこでもう一回(ドイエを)投げにいくためだったんじゃないのか」と
自問自答しながら、涙が止まらなかった。長引いたドーピング検査を終え、ようやくロッカーを出ると、柔道競技最終日のため早くも会場内の撤収作業が始まっていた。
騒然とする通路で、荷物を持ちポツンと立っていた後輩を見付ける。チーム関係者も、役員も去った会場で、何時間も1人で待っていたのは、天理大後輩で、60キロ級
金メダリストの野村忠宏(44)だった。頭を深く下げた後輩に「先輩、お疲れさまでした」そう言われた。
「ヒロ(野村)が1人で待っとってくれたんです。自分にどう声かければいいんだって、あんな試合の後ですから、そりゃあアイツも困っとったでしょうね。でもあのとき、ヒロの
顔見てハッと我に返った感覚になれましたね。そうだ、もう切り替えよう、って」
軽量級初の連覇を果たした後輩に、悲運の銀メダリストはすぐ声をかけた。
「ヒロ、待っとってくれてありがとな。腹も減ったし、じゃメシ、行こか!」
会場の外で待っていた篠原の友人たちと、焼肉店に出掛けた。野村はこのシーンについて、以前にこう話している。
「食事中も誤審の話は一切しなかったし、誰にも気を使わせないように振る舞ってくれた。金メダルに一番近いといわれた先輩ですが、負けたときこそ人として、柔道家
としての人間力が分かると教えられた」
誤審という不条理のなかで、篠原は周囲ではなく「自分」に目を向けた。
ビデオ判定導入のきっかけに
勝負師のこうした振る舞いが歴史に刻まれるとともに、誤審を機にある制度も残された。
国際柔道連盟(IJF)は後に「ケアシステム」と呼ぶビデオ判定制度を導入する。2台のビデオカメラを用いて、2方向から撮影し判定をサポートする。画像はコンピューターに
入り、状況判断の正確性を高めるものとして、07年ごろから各大会で使用され、10年には審判規定として改正された。
五輪で起きたミスは、そもそも篠原がかけた独特の「内また透かし」を実際に見た経験のある審判は少なかったからではないか、ともいわれた。柔道界が目指す国際化と
引き換えに、審判レベルの格差も誤審の一因とされた。シドニー五輪後、審判技術に関する研修会の回数は各大陸、国際連盟で格段に増えた。
「何でもかんでもビデオが解決してくれるわけではない」と、篠原は言う。
「柔道の技には流れがあります。例えば日本では、ただ相手を背中から寝かせればいい、などとは指導していない。技の切れ味や勢いも完璧な形を目指し、ビシッと投げろ
と指導する。だから、時には投げた方が勢いあまって先に倒れる場合もあるかもしれない。ビデオを見直すだけでは、それが見逃される危険もある」
そう言うと、少し厳しい表情を浮かべる。
【ジャイアント篠原信一】
376 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2019/03/21(木) 11:55:32.07 ID:9Ak2Njcx
たとえビデオ判定の導入によってミスを減らすためのシステムが確立されてもそれは外因でしかない。そうではなく自らの弱さ、内に目を向け誤審と葛藤してきたからだ。
やがてその思いは、後輩に、五輪をはじめ世界で頂点を目指す若手に、どうしても伝えたい教訓に変わっていく。
シドニーに続くアテネ五輪では、男子柔道は3つの金メダルを獲得したが、世界的な潮流も、「組んで投げる」といった日本の正統にも変化は生まれていた。北京五輪で
日本男子が獲得した金メダルは2つと減った。斉藤仁(15年に54歳で死去)は北京を最後に監督を辞して篠原に後任を託した。
「もう一本」の心届かず 篠原さん、五輪監督で金ゼロ
代表監督になってからも心の大切さを訴え続けた(08年12月の嘉納治五郎杯、東京都渋谷区)
負けてもいいから自分から技かけろ
ロンドン五輪を目指す日本男子監督に就任した後の稽古では、伝えたい何かがあるはずなのに、「コラ」「アホ」「ボケ」が飛び出す。不器用な男のスタイルは、若手には
響いていないようにも映った。科学的なトレーニングも、データを基にしたコンディショニングも、選手のモチベーションを上げるメンタルマネジメントもない。ひたすら武骨に、
限界まで追い込めと求める厳しい稽古だ。しかしそれでも、選手を叱責しているだけには聞こえなかった。
心技体は最初にくる「心」で引っ張れ。
負けてもいいから自分から技をかけろ。
シドニーから8年が経過していたが、それでも監督の心は現役にあったのかもしれない。コラ、アホ、ボケ、とは目の前の選手に後悔させたくない一心でかけている愛情であり、
本当は自らにも浴びせた言葉なのだと聞こえた。
ロンドンを前に「ランキング制」が導入されたが、日本の対応は遅れた。試合、大会が増え続けるなか、月1回の代表合宿を行い、厳しい稽古を続けたが成果は出なかった。
就任翌年の世界選手権はついに金メダルゼロ。特に最重量級における大不振は、文字通り、その重みの分だけ不振にのしかかった。12年のロンドン五輪、日本男子柔道は、
史上初めて金メダルを獲得できないまま終わった。
今、仕事で代表合宿を訪ね、自分とともに一時代を築き、ロンドンではコーチでもあった井上康生代表監督(40)の指導法の取材もする。距離を置いて現場を見直すと、
選手の指導とは、時代と、それも短いスパンで変化する時代の流れと選手の気質を敏感に悟って、対応していかなければならないのだと実感するという。井上の指導には、
それがあるが、自分にはなかった、と。
「ただ根性論を説いただけでしたね。でもオリンピックのような舞台で金メダルを競う相手は、技術、体力、すべてがそろっている。そこまでいったら、もう何ひとつ差なんて
ないんです。だったら何で相手に差をつけてメダルの色を分けるの? 気持ちしかない。自分は、馬なら道産子でした。でもああいう馬が、厳しい先生方の指導と稽古で
目覚め、とことん磨いてもらって、サラブレッドにはなれなくても芝を走るレースには出られたんですから。反骨心を持ってほしかったけれど、十分に伝えられなかった」
初めて立った五輪の舞台では、世紀の誤審に泣き、指導者となって戻った唯一の五輪で今度は史上初めて金メダルを獲得できなかった監督となる。
「駄馬がレースに出るまで鍛えてくださった先生方、選手、周囲に恵まれる運はありました。でも結局オリンピックに縁はなかったんでしょうね」
喜ばしい答えではなくても、長い時間自分と向き合い得た答えを、篠原は大切そうにそう表現した。

「もう一本」の心届かず 篠原さん、五輪監督で金ゼロ
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO42458120U9A310C1000000/


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