- 津金恵ちゃん選手
207 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2018/05/15(火) 20:48:47.55 ID:4EOptNrB - ls
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- 津金恵ちゃん選手
208 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2018/05/15(火) 20:50:07.95 ID:4EOptNrB - 柔道五輪金メダリストの古賀稔彦氏に、自身の柔道人生に平成の時代を重ねて語ってもらった。
「平成の三四郎」という異名で期待された。 当時は本当に怖いもの知らずだった。何が何でも得意技の一本背負いで投げるんだという、若気の自信に満ちていた。でも、だんだんとニックネームに ふさわしい勝ち方をしなければいけないという重圧を感じた。(1989年に)世界選手権で優勝してから、常に不安や迷いがあった。翌年のアジア大会で負けて(銅メダル)、 重圧から解放された。 当時は吉田秀彦選手や小川直也選手、谷(旧姓田村)亮子選手ら、個性的な選手が多かった。 今思えば、自分が活躍することが好きなタイプがいたので、おのずと日本柔道が盛り上がっていく状況がつくれていた。活躍して結果を出すということは、 表彰台の一番高いところ、誰よりも目立つ場所に立つということ。「誰よりも目立つところに俺は立ちたいんだ」「俺を見てくれ」と、自分の柔道に酔えて、 それをみんなに見せるのも好きだという人が、結果を出す選手だと思う。 92年のバルセロナ五輪を振り返って。 (4年前の)ソウル五輪では大会までに頑張り過ぎて、心身とも全てのエネルギーを使い果たしていた(結果は3回戦敗退)。スポーツの最高の舞台での経験は、 勝っても負けても、自分の人生の教訓になった。ソウル五輪は特に私にとっては、自分の柔道に対する思い、考え方を大きく変えくれた大会だった。それからは 「自分にうそのない努力をし、自主性を取り戻そう」と考えた。休む時は休むと指導者に伝え、お互いが理解し合って練習し、休む状況をつくれた。 バルセロナ入り後、後輩の吉田選手との乱取り中に左膝を負傷した。 その時は「なぜここで」と思ったが、痛みが治まると「俺は絶対に優勝できる」と思った。なぜなら、自分にうそのない努力をしてきたから。柔道は心技体トータルの戦い。 今まで培ってきた自分を信じる力があり、カバーできた。監督、コーチは「いつ古賀は出場できませんと言いにくるか。言ってきたら、受け入れよう」と思っていたらしい。 でも私の中では、けがをしてからは本当に何の焦りもなかった。減量だけは計画的にしなければならず、そこが一番きつかった。だけど何の焦りも不安もなく、吉田にも 「俺は優勝するから大丈夫だよ」と言っていた。 僕の試合の前日は吉田の試合を選手村で(田村)亮子と一緒に見ていて「(吉田は)優勝した。俺は膝が痛いが我慢して、あしたは優勝する。試合場を出た後に、 多分倒れるから」と、既に優勝した後のことまでイメージしながら話をしているぐらいだった。本当に自分の取り組みに対しての自信が自分をすごく支えてくれていた。 帰国後、「古賀さんだからできたんですよね」「精神力が強いからできたんですよね」と言われたが、そうではない。私はもともと小心者。でもやってきた積み重ねによって、 その瞬間につくられていた(強い)自分がいた。
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- 津金恵ちゃん選手
209 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2018/05/15(火) 20:50:32.08 ID:4EOptNrB - 96年のアトランタ五輪に向けて、71キロ級から78キロ級に階級を上げた。
バルセロナ五輪が終わって日がたつ中で、周りは「もう引退するだろう」と思っていた。25、26歳ごろは、今は頑張れる年齢だが、当時は結構、おじさんと言われていた。 「いいうちに終わる選択もあるんだぞ」という話も聞いた。よく試合が終わると「次の目標は」と聞かれる時があるが、勝っても負けても、全力でやった人に、次の目標を 考えるエネルギーは残っていない。私も、自分の中で全力でやってきた。焼き肉が食べたいと思ってめちゃくちゃ食べると、もうしばらく食べたくない。でも、時間がたてば、 また食べたくなる。私はまたおなかが空いてきた時に、「ちょっとまだ勝負したいな」と思った。そういう気持ちが残っているならやろう。どうせなら同じ階級ではなく、 違うステージで戦ってみようと思った。 アトランタ五輪は決勝で敗れた。 大会前に右の尻をけがして、稽古も多少不十分だったが、経験値でうまく切り抜けようと思った。バルセロナ五輪に臨む努力が100なら、アトランタ五輪は60ぐらい。 決勝もうまく試合が運び、相手を指導の数で追い詰めた時「勝った」と思ってしまった。その瞬間、一気に緊張感がなくなり、結局判定で負けた。 2000年のシドニー五輪代表を逃して引退。 自分への甘さ、弱さ、ずるさを感じたまま終われないと思い、もう一度、五輪を目標に掲げた。結果は残念だったが、悔いはないと言える状況で終われた。おなかいっぱいの 現役生活だった。 現在、子どもや大学生を指導する上で心掛けることは。 柔道は嘉納治五郎先生の「精力善用」「自他共栄」という教えがある。競技の創始者と、教育理念が明確なスポーツはあまりない。嘉納先生の代弁者として、人のために 役に立てる人間づくりをしていきたいと思っている。 平成とはどういう時代と受け止めているか。 周りと比較した中で人が生きてきた時代だったが、後半からは、自分がどう生きていくか、心を養うことを見直す時代に変わってきたと思う。スポーツ界も、勝つことを 目的に教えてきたから、強制や体罰問題があった。やるからには一番でなければ駄目なこともある。だが、それが過度になると、優しさや思いやりを見失ってしまう。 今後はスポーツ界も、人のつながりを重視する時代になるのではないか。 あなたにとって平成とは。 選手としても指導者としても、挑戦し続けてきた時代だった。今50歳で新しい時代を51歳で迎える。「平成の三四郎」も終わるので、新しいステージで生きる自分を これから描いていきたい。 挑戦続けた「平成の三四郎」 五輪金の柔道古賀稔彦氏 https://www.jiji.com/jc/v4?id=201805kt-int0001
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210 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2018/05/15(火) 20:51:55.63 ID:4EOptNrB - EXILE THE SECONDが全日本柔道連盟に応援ソングを提供することになり、メンバーの黒木啓司とEXILE SHOKICHIが記者会見に出席した。
黒木と全日本柔道男子・井上康生監督は共に宮崎県出身。昨年、雑誌「月刊EXILE」の企画で対談した縁で親交が深まり、今回のコラボレーションに結び付いた。 2020年の東京五輪・パラリンピックに向け、応援ソングの提供を発案した黒木は「(井上監督から)柔道は今、守るべきものと変わらなきゃいけないものがあると聞いた。 新しい柔道とEXILEエンターテインメントを掛け合わせたときに、新たな化学反応が起きるのではという思いで楽曲を作った」とコメント。「自他共栄」をテーマに作詞作曲を 手掛けたSHOKICHIは「『スポーツ×EXILE応援歌』は、いいジンクスがある。東京五輪では過去イチのメダル数を期待したい」と話した。応援ソング 「日昇る光に〜Pray for Now〜」は、EXILE THE SECONDが現在行っている全国ツアーの追加公演(5月23日)でお披露目される予定。出席者:黒木啓司、 EXILE SHOKICHI、井上康生(全日本柔道男子監督)、増地克之(全日本柔道女子監督) EXILE THE SECOND、柔道界に応援ソング提供 https://www.jiji.com/jc/ent?p=g180322 「EXILE THE SECOND」の黒木啓司(38)、SHOKICHI(32)が14日、井上康生柔道日本代表男子監督、増地克之柔道日本代表女子監督とともに、 都内で会見に出席。同グループの「日昇る光に〜Pray for Now〜」が、全日本柔道連盟の応援ソングに採用されたことを発表した。 柔道とEXILEを結びつけたのは黒木と井上監督だ。ともに宮崎県出身で、雑誌の対談をキッカケに親交を深めた。柔道界を盛り上げるため、黒木が応援ソングの 制作を申し出た。 黒木はすでに柔道の道場などを訪れ、代表候補選手たちに直接、応援ソングを聴いてもらったという。増地監督は「(黒木が)来た途端、(女子選手の)モチベーションが 上がった。こんなに変わるんだったら、できれば特別コーチに!」とまさかのオファー。黒木も「よろしくお願いします」と“快諾”した。 「日昇る光に――」は23日に行われるEXILE THE SECONDの千葉・幕張メッセ公演で、ファンに初披露される。その場に井上監督やリオ五輪の柔道メダリスト6人が 応援に駆けつける予定だという。井上監督は「6名には歌って踊れるように指令を出しているので、キレッキレの踊りが見られるんじゃないかなと」と明かした。 EXILEにとって、柔道との正式な関わりは今回が初めてだが、スポーツ界とのつながりは実は深い。2010年のサッカー南アフリカW杯の日本代表応援ソングや、 15年のラグビーW杯を地上波独占中継した日本テレビのイメージソング、16年のリオ五輪のフジテレビ五輪番組テーマソングなどを担当している。 「EXILEが関わったスポーツは軒並みいい結果が出ており、縁起がいいと言われている」とテレビ局関係者。 SHOKICHIも「スポーツ×EXILE応援歌は“いいジンクス”がある」と胸を張った。柔道界にとって追い風となりそうだ。 「EXILE THE SECOND」の応援ソングが柔道界の追い風 https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/1009081/
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- 【平成の】古賀稔彦【三四郎】
164 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2018/05/15(火) 20:52:25.85 ID:4EOptNrB - 柔道五輪金メダリストの古賀稔彦氏に、自身の柔道人生に平成の時代を重ねて語ってもらった。
「平成の三四郎」という異名で期待された。 当時は本当に怖いもの知らずだった。何が何でも得意技の一本背負いで投げるんだという、若気の自信に満ちていた。でも、だんだんとニックネームに ふさわしい勝ち方をしなければいけないという重圧を感じた。(1989年に)世界選手権で優勝してから、常に不安や迷いがあった。翌年のアジア大会で負けて(銅メダル)、 重圧から解放された。 当時は吉田秀彦選手や小川直也選手、谷(旧姓田村)亮子選手ら、個性的な選手が多かった。 今思えば、自分が活躍することが好きなタイプがいたので、おのずと日本柔道が盛り上がっていく状況がつくれていた。活躍して結果を出すということは、 表彰台の一番高いところ、誰よりも目立つ場所に立つということ。「誰よりも目立つところに俺は立ちたいんだ」「俺を見てくれ」と、自分の柔道に酔えて、 それをみんなに見せるのも好きだという人が、結果を出す選手だと思う。 92年のバルセロナ五輪を振り返って。 (4年前の)ソウル五輪では大会までに頑張り過ぎて、心身とも全てのエネルギーを使い果たしていた(結果は3回戦敗退)。スポーツの最高の舞台での経験は、 勝っても負けても、自分の人生の教訓になった。ソウル五輪は特に私にとっては、自分の柔道に対する思い、考え方を大きく変えくれた大会だった。それからは 「自分にうそのない努力をし、自主性を取り戻そう」と考えた。休む時は休むと指導者に伝え、お互いが理解し合って練習し、休む状況をつくれた。 バルセロナ入り後、後輩の吉田選手との乱取り中に左膝を負傷した。 その時は「なぜここで」と思ったが、痛みが治まると「俺は絶対に優勝できる」と思った。なぜなら、自分にうそのない努力をしてきたから。柔道は心技体トータルの戦い。 今まで培ってきた自分を信じる力があり、カバーできた。監督、コーチは「いつ古賀は出場できませんと言いにくるか。言ってきたら、受け入れよう」と思っていたらしい。 でも私の中では、けがをしてからは本当に何の焦りもなかった。減量だけは計画的にしなければならず、そこが一番きつかった。だけど何の焦りも不安もなく、吉田にも 「俺は優勝するから大丈夫だよ」と言っていた。 僕の試合の前日は吉田の試合を選手村で(田村)亮子と一緒に見ていて「(吉田は)優勝した。俺は膝が痛いが我慢して、あしたは優勝する。試合場を出た後に、 多分倒れるから」と、既に優勝した後のことまでイメージしながら話をしているぐらいだった。本当に自分の取り組みに対しての自信が自分をすごく支えてくれていた。 帰国後、「古賀さんだからできたんですよね」「精神力が強いからできたんですよね」と言われたが、そうではない。私はもともと小心者。でもやってきた積み重ねによって、 その瞬間につくられていた(強い)自分がいた。
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- 【平成の】古賀稔彦【三四郎】
165 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2018/05/15(火) 20:52:46.36 ID:4EOptNrB - 96年のアトランタ五輪に向けて、71キロ級から78キロ級に階級を上げた。
バルセロナ五輪が終わって日がたつ中で、周りは「もう引退するだろう」と思っていた。25、26歳ごろは、今は頑張れる年齢だが、当時は結構、おじさんと言われていた。 「いいうちに終わる選択もあるんだぞ」という話も聞いた。よく試合が終わると「次の目標は」と聞かれる時があるが、勝っても負けても、全力でやった人に、次の目標を 考えるエネルギーは残っていない。私も、自分の中で全力でやってきた。焼き肉が食べたいと思ってめちゃくちゃ食べると、もうしばらく食べたくない。でも、時間がたてば、 また食べたくなる。私はまたおなかが空いてきた時に、「ちょっとまだ勝負したいな」と思った。そういう気持ちが残っているならやろう。どうせなら同じ階級ではなく、 違うステージで戦ってみようと思った。 アトランタ五輪は決勝で敗れた。 大会前に右の尻をけがして、稽古も多少不十分だったが、経験値でうまく切り抜けようと思った。バルセロナ五輪に臨む努力が100なら、アトランタ五輪は60ぐらい。 決勝もうまく試合が運び、相手を指導の数で追い詰めた時「勝った」と思ってしまった。その瞬間、一気に緊張感がなくなり、結局判定で負けた。 2000年のシドニー五輪代表を逃して引退。 自分への甘さ、弱さ、ずるさを感じたまま終われないと思い、もう一度、五輪を目標に掲げた。結果は残念だったが、悔いはないと言える状況で終われた。おなかいっぱいの 現役生活だった。 現在、子どもや大学生を指導する上で心掛けることは。 柔道は嘉納治五郎先生の「精力善用」「自他共栄」という教えがある。競技の創始者と、教育理念が明確なスポーツはあまりない。嘉納先生の代弁者として、人のために 役に立てる人間づくりをしていきたいと思っている。 平成とはどういう時代と受け止めているか。 周りと比較した中で人が生きてきた時代だったが、後半からは、自分がどう生きていくか、心を養うことを見直す時代に変わってきたと思う。スポーツ界も、勝つことを 目的に教えてきたから、強制や体罰問題があった。やるからには一番でなければ駄目なこともある。だが、それが過度になると、優しさや思いやりを見失ってしまう。 今後はスポーツ界も、人のつながりを重視する時代になるのではないか。 あなたにとって平成とは。 選手としても指導者としても、挑戦し続けてきた時代だった。今50歳で新しい時代を51歳で迎える。「平成の三四郎」も終わるので、新しいステージで生きる自分を これから描いていきたい。 挑戦続けた「平成の三四郎」 五輪金の柔道古賀稔彦氏 https://www.jiji.com/jc/v4?id=201805kt-int0001
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86 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/05/15(火) 20:53:18.37 ID:4EOptNrB - 「EXILE THE SECOND」の応援ソングが柔道界の追い風
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