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法の下の名無し
【存置】死刑存廃論14【廃止】

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【存置】死刑存廃論14【廃止】
265 :法の下の名無し[sage]:2013/07/30(火) 17:11:32.99 ID:4V2p5+Hg
肉刑を巡る論争

前漢の紀元前167年に名医として知られていた淳于意の事件をきっかけとして残虐な刑罰であるとして肉刑を廃止された。
これによって従来肉刑とされていた刑罰がそれよりも重い死刑と軽い徒刑(懲役刑)に振り分けられたが、
死刑と徒刑の間には大きな格差がある(中間刑が存在しないために却って死刑の適用範囲が広がった)ことが問題視され、班固(『漢書』刑法志)のように肉刑復活論を唱える者もいた。

後漢の献帝の時代(建安初期)、当時司空であった曹操は肉刑復活を計画して尚書令の荀ケに命じて群臣の意見を求めさせた。
この際、孔融が強く反対をしたために断念した。
魏の建国後、曹操および継いだ曹丕・曹叡は肉刑復活を試みて度々肉刑に関する議論を行わせ、特に太和年間の論争は一大論争となった。
一連の論争では、陳羣・鍾?らが賛成論を唱えたが、そのたびに王修・王朗などが反対論を唱えたために挫折した。

その後、夏侯玄が李勝の肉刑復活論を批判したり、西晋の劉頌がたびたび司馬炎に肉刑復活を上奏して却下されている。
東晋の司馬睿の時代である大興年間に衛展の上奏をきっかけに再び大論争となり、王導・?亮らが賛成論を、周・桓彝らが反対論を唱えたが
王敦の「(肉刑の復活は)天下に惨酷の風評を広め、逆賊(敵国)を利する」との上奏によって打ち切られ、403年にも当時の実力者桓玄が肉刑復活を計画するが、反対論が強く失敗に終わった
(『晋書』刑法志・『通典』刑典など)
また、東晋の葛洪(『抱朴子』外篇・用刑)・袁宏(『三国志』鍾?伝裴松之注)も肉刑復活論者であった。


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