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法の下の名無し
  ■ 平 井 宜 雄 著 作 集 ■

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  ■ 平 井 宜 雄 著 作 集 ■
10 :法の下の名無し[sage]:2011/01/13(木) 01:13:43 ID:DrzbifEj

星野・利益考量論の、どこがいけないのか

前提としての星野・民法解釈方法論

『「現実に各自の価値観が異なること」、「現実に複数の解釈が存在する」ことにより、
価値判断が「主観的」であり、かつ、「複数の解釈の可能性」のあることは明らかである、・・
(引用者注・ここまでは、主観性を肯定しながら、以下客観説に立つ)
「客観的妥当性」のある「価値」に基づく判断が、「利益考量」を行った後になされるべき
民法の解釈の基準となるのであるが、・・・それは・・・
「できるだけ『何人も否定することのできないような価値』を捉えることに努めたい。
このさい、一方で、もっとも根本的・高次の(それ故に抽象的たらざるを得ない)価値を追及し、
他方で、ごく具体的な価値(判断命題)を把握し、両方からおし進めて、
価値(判断命題)のヒエラルヒアを構築したいと考えている。」
右にいわゆる「もっとも根本的・高次の価値」の例としては、
「人間の尊厳・平等・精神的自由」などが挙げられており、
「具体的な価値」として「取引安全」などが挙げられている。』
(平井・著作集1・51頁より引用)

前提としての星野・利益考量論

『「文理解釈・論理解釈」が「立法者意思による解釈」に優先するが、
結局は「利益考量と価値判断」による解釈によることとなる。
というのは、「法律の解釈とは、現在法律を適用して社会関係を規律し、
紛争を解決するための前提ですから、現在どう解釈するのが適当かを考えるべきもの」だからである。
そうして、「そのさいに、利益考量のプロセスを経て、結局価値判断によって決めるしかないし、
そうすべきものだ・・ある条文の解釈に際して、甲説、乙説、丙説がありうるとして、
それらがどのような利益を保護し、どのような価値判断に奉仕していることになるのか、
そもそもどのような価値判断から出発したものかということを突きつめいていく作業が必要だということです。
そうして、例えばAという利益をBという利益よりも保護した方がいいという価値判断が出るとすれば、
そこでそのような考え方にもっともふさわしい、例えば丙説をとろうとする。
これが利益考量をしたうえで価値判断をするということです。」
「この方法は、結局のところ『目的論的解釈』といわれたり、最近では条文の『趣旨』に従った解釈
などと呼ばれたりするものとほぼ同じものです。・・」』
(平井・著作集1・110頁より引用)


  ■ 平 井 宜 雄 著 作 集 ■
11 :法の下の名無し[sage]:2011/01/13(木) 01:17:58 ID:DrzbifEj

  で、平井先生の批判。

『「利益考量論」にとっては、「価値判断」が解釈の決め手である。・・・
その「価値判断」は−独断的に受け容れられぬ以上常に−「正当化」されねばならない。
しかも「ケース・バイ・ケース」な価値判断では足りないとすれば、「正当化」はさらにその「正当化」を必要とし、
これを追って行けば「価値のヒエラルヒア」の主張に赴かざるを得ない。
これはいわゆる「無限後退」であるから、どこかで停止させられなければならないが、
それ以上の「正当化」の根拠を問われなくてすむためには、
「客観的」な「何人も否定することのできない価値」を持ち出さざるを得ない。
つまり、以上のような考え方の背後には、「価値判断」は「学問的」になされる以上、
究極的に「確実な基礎づけをもって『正当化』されなければならない」という発想が
控えているわけである。
その結果、すべての法の解釈は、「最高次の価値」によって基礎づけられなければならなくなる。
そのような価値判断は−定義によって(「何人も否定することができない価値)−反論を許さないから、
反論は、より低次の「価値のヒエラルヒア」におけるもの(あるいは全くコミットをしない立場からのもの)
からのみ可能であることになる。
つまり理論的には、法解釈の争いは、争いがある以上、究極的には常に「価値のヒエラルヒア」
または「価値の序列」の争いに還元される。」
(平井・著作集1・137頁より引用)


  星野先生の反論

『価値判断はさらに高次の価値によって正当化されねばならず、
「何人も否定することのできない価値」にいきつかざるを得ない、
という筆者の主張のどこがおかしいかは、まだ理解しかねるところである。
それはまさしく(価値の)論理の必然ではあるまいか。
それは「無限後退」でなく、無限の高みに昇ってゆくことであり、
人間が価値を求める存在である以上当然なさざるを得ない営みのはずである。』
(星野・民法論集第8巻・120頁)




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