- 【無能】明治爺って馬鹿なの?【低学歴】
57 :エリート街道さん[sage]:2019/05/20(月) 16:39:45.39 ID:ikIH/HZt - >>54-56
パクリAAを貼りまくってソースなしのガセネタを書きこんでる時点でオマエの負け
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- 法政大学について語ろう 【Part.2】
193 :エリート街道さん[sage]:2019/05/20(月) 18:45:37.45 ID:ikIH/HZt - あゝ我れ勝てり! 感極まつた法政軍
忍苦十四年、覇業を遂げて 祝勝の音楽大行進 法政は遂に勝つた。大学リーグ戦に同校が参加して以来十四年、その間投手らしい投手がなく 帝大がまだ加はつてゐない頃は立教と共に最下位に連なつた苦闘の十四年! その法政がこの秋は投げる、打つ、走る、守るの四拍子がそろつて見事に最後の対帝大戦に勝つて 遂にリーグの覇権を握つた。応援団のあらしのやうな熱狂ぶりもうなづかれるΗとそめぬいた 大旗を中心にどよめく歓声と空に飛ぶ学帽! 祝勝から大提灯行列へ――球場をなだれ出た法政応援団は母校優勝の報に狂喜して 駆けつけた数千の校友と合して、一まづ球場外に勢ぞろひして日の暮れるのを待ち受けたが、 午後六時近くトラツクに満載した音楽隊の吹奏裏に勇ましく行進を起した。 黒々と眠つた外苑を斜めに切つて塩町から四谷見附と街の灯を縫うて 高々と応援歌を響かせながら延々数丁にわたる見事な光りの帯を続かせる。 沿道の人々は何事が起こつたのかとあわてゝ飛びだす騒ぎ。 如才のない商店では「祝優勝」「法政大学万歳」の立看板や大旗をぶらさげて 祝勝に陶酔しきつた学生の歓呼に答へるといつた有様。 行列は更に一口坂を通つて法政大学前に至るや、冷酒とするめで上機嫌の教職員が 校門前に勢ぞろひして大ニコニコの歓迎ぶり。秋山理事、野上予科長、小山文学部長は 持ちだした机に上つて万歳を連呼する。こゝで解散かと思ふとさうぢやない。火の帯は更に進んで、 神楽坂を一ななめにして肴町を右折、飯田橋から九段坂を上つて靖国神社にいり 大村益次郎の銅像前に至つて漸くとまつた。こゝでも一度かすれた咽喉をしぼつて 「若き我等…」の応援歌を絶叫、万歳々々を三唱四唱して解散したのが八時十五分。 尚三十日には法政大学中野野球場の盛大な祝勝会で気焔をあげるはずである。 (『東京朝日新聞 昭和5年10月30日』)
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- 法政大学について語ろう 【Part.2】
194 :エリート街道さん[sage]:2019/05/20(月) 18:46:07.08 ID:ikIH/HZt - 校歌の由来
法政大学で一応「校歌」とよばれたものは、大正13年、当時予科の英語の教授だった為光直経の作詞による 「お濠に影うつして」であった。その頃応援団が組織されたが、この校歌では神宮球場で明治の「白雲なびく」や、 早稲田の「都の西北」に、どうも圧倒されがちだというので、学生全体からもっと力強い校歌が要望されていた。 たまたま昭和4年から5年にかけて「法政スピル運動」が起ったとき、その一環として新しい校歌作成の声が 全学生から叫ばれ、学生の中から委員が選出された。やがて学生教職員から寄付金も集められ、 学生の投票によって作詞は佐藤春夫(当時の講師)、作曲は近衛秀麿に依頼することに決定、 出来上がったのが現在の「法政おゝわが母校」である。折から近衛は欧州へ演奏旅行に出発したので、 作曲はシベリヤ鉄道の車中でなされたという。 5年秋のリーグ戦で初めて神宮スタンドで歌われたが、そのとき法政大学野球部の初優勝が成ったのだから、 この校歌はまことに幸先のよいスタートを切ったわけである。(霞五郎) (法政大学 『法政大学八十年史』 昭和36年)
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- 法政大学について語ろう 【Part.2】
195 :エリート街道さん[sage]:2019/05/20(月) 18:46:36.60 ID:ikIH/HZt - 野方町の熱狂 まるでお祭り騒ぎ
法政大学野球部合宿所のある市外野方町新井では全町を挙げて優勝祝い。町中の板べいといふ板べいは 「法政万歳」のビラがベタベタ張りだされる。国旗が忽ち掲げあげられる、祭礼の提灯は軒毎に景気よく ともされる、といふ祭礼そつちのけの大騒ぎ。 球場から引揚げた選手連が銭湯に行く姿を見ては万歳万歳と町内にえくり返りさうだ。 合宿所をのぞくと「お芽出度う」や「万歳」に混つて笑の爆発、お祝ひの品が忽ち山とつまれる。 合宿所のをばさんエプロンでぬれ手をふきふき選手にウンと美味いものを食べさせようと 忙しく立働きながら「よかつたよかつた。ラヂオで聞いてゐるうちは脚がブルブルふるへてネ…」と 女らしい述懐をもらす。 一しきり騒いだ町民も国旗や軒提灯だけではこの昂奮をおさへきれなくなつて、折柄の夜と共に 早速ほうづき提灯を買ひ集めてきて八時頃から街中は音楽隊を先頭に提灯行列と化した。 (『東京朝日新聞 昭和5年10月30日』)
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