- 旧制の学制/大昔凄かった学校Part10
170 :エリート街道さん[]:2019/05/18(土) 15:34:35.81 ID:chcDPU3B - 戦前は名門だった高千穂高商
戦後の高千穂商大はなぜ没落したのか? 答え:後継者争いが起きたから。 高千穂学園八十年史(昭和58年) https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I073927769-00 対立の過程 一、前兆 川田鉄弥は、独断専行の欠点を補う積極的実行力が老境により欠如して 各方面に亘り進歩の点が見られなかった。殊に私情が強くなったことは遺憾であった。 二、川田鉄弥の発病 昭和二十八年四月六日川田鉄弥卒中後痴呆となり精神能力を失った。 三、川田正斉の学長及び理事長就任 川田鉄弥の疾病により川田正斉はその筋の関係省庁に「手続きを完了して、 学長と理事長となった。 四、川田正清の不承認 川田正清は、川田正斉の学長及び理事長就任は正規の手続によらざるものであるとして、 就任を認めず、正斉の行為に対して悉く反対の態度を示した。 茲に於て兄弟の不和を生じ、学校教育並に学校運営は日増に不運の道に入って行った。
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- 歴史を捏造、改竄、隠蔽、美化する大学 [無断転載禁止]©2ch.net
312 :エリート街道さん[]:2019/05/18(土) 15:35:13.90 ID:chcDPU3B - 戦前は名門だった高千穂高商
戦後の高千穂商大はなぜ没落したのか? 答え:後継者争いが起きたから。 高千穂学園八十年史(昭和58年) https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I073927769-00 対立の過程 一、前兆 川田鉄弥は、独断専行の欠点を補う積極的実行力が老境により欠如して 各方面に亘り進歩の点が見られなかった。殊に私情が強くなったことは遺憾であった。 二、川田鉄弥の発病 昭和二十八年四月六日川田鉄弥卒中後痴呆となり精神能力を失った。 三、川田正斉の学長及び理事長就任 川田鉄弥の疾病により川田正斉はその筋の関係省庁に「手続きを完了して、 学長と理事長となった。 四、川田正清の不承認 川田正清は、川田正斉の学長及び理事長就任は正規の手続によらざるものであるとして、 就任を認めず、正斉の行為に対して悉く反対の態度を示した。 茲に於て兄弟の不和を生じ、学校教育並に学校運営は日増に不運の道に入って行った。
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797 :エリート街道さん[]:2019/05/18(土) 15:36:12.64 ID:chcDPU3B - 戦前は名門だった高千穂高商
戦後の高千穂商大はなぜ没落したのか? 答え:後継者争いが起きたから。 高千穂学園八十年史(昭和58年) https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I073927769-00 対立の過程 一、前兆 川田鉄弥は、独断専行の欠点を補う積極的実行力が老境により欠如して 各方面に亘り進歩の点が見られなかった。殊に私情が強くなったことは遺憾であった。 二、川田鉄弥の発病 昭和二十八年四月六日川田鉄弥卒中後痴呆となり精神能力を失った。 三、川田正斉の学長及び理事長就任 川田鉄弥の疾病により川田正斉はその筋の関係省庁に「手続きを完了して、 学長と理事長となった。 四、川田正清の不承認 川田正清は、川田正斉の学長及び理事長就任は正規の手続によらざるものであるとして、 就任を認めず、正斉の行為に対して悉く反対の態度を示した。 茲に於て兄弟の不和を生じ、学校教育並に学校運営は日増に不運の道に入って行った。
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155 :エリート街道さん[]:2019/05/18(土) 15:36:28.49 ID:chcDPU3B - 戦前は名門だった高千穂高商
戦後の高千穂商大はなぜ没落したのか? 答え:後継者争いが起きたから。 高千穂学園八十年史(昭和58年) https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I073927769-00 対立の過程 一、前兆 川田鉄弥は、独断専行の欠点を補う積極的実行力が老境により欠如して 各方面に亘り進歩の点が見られなかった。殊に私情が強くなったことは遺憾であった。 二、川田鉄弥の発病 昭和二十八年四月六日川田鉄弥卒中後痴呆となり精神能力を失った。 三、川田正斉の学長及び理事長就任 川田鉄弥の疾病により川田正斉はその筋の関係省庁に「手続きを完了して、 学長と理事長となった。 四、川田正清の不承認 川田正清は、川田正斉の学長及び理事長就任は正規の手続によらざるものであるとして、 就任を認めず、正斉の行為に対して悉く反対の態度を示した。 茲に於て兄弟の不和を生じ、学校教育並に学校運営は日増に不運の道に入って行った。
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171 :エリート街道さん[]:2019/05/18(土) 15:36:58.53 ID:chcDPU3B - 学園の荒廃
こうした対立の中でも、ともかくも学園の運営はつづけられてはいた。 だがそれは、およそ正常な学園とはほど遠いものであったことは想像にかたくない。 学園の経営を形ばかりにぎって、学園とは関係ない問題に借金をかさね、 学園の土地を売却して狂奔する正斉氏と、これに裁判で対立した正清氏は、 学校運営でも対立し、正斉氏が主として大学を地盤に、 正清氏が高校等を地盤に学園内でことごとに対立をくりかえした。 指導者なき学園、その下で創立者子息の権力争い、このあおりで学園は荒れに荒れた。 戦争で多くの校舎を失って再建がまだ十分でなかった学園の建物は、 その多くが老朽化した木造建築が多かったが、その木造建築も管理の不行届から、 窓は破れ、床は落ち、天井もしずむ、廊下は穴だらけでろくに歩けない、 まるで廃屋に近かったとの証言もある。しかも経営の対立から、 教員、学生への指示が二重に行われ、教員への任命書、給与支払書が対立する双方から出されたり、 卒業証書が二枚出されたりといった、今日では想像も出来ない混乱が続いたという。 当然そこで行われる教育は、およそ教育の名に値しないものであったことも想像にかたくない。 授業よりの生徒の逃亡、試験時のカンニング、教員・学生の授業時の飲酒など、 これまた常識では考えられない数々の話が伝えられているのもこのころである。 その結果として後の学校編であげた高校生の非行もこの時期に激増し、 修学旅行などでの暴力事件なども相ついだ。伝統ある高千穂が、悪名高い暴力学校として 名を広めたのもこのころのことであった。(『高千穂学園八十年史』 256-257ページ)
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313 :エリート街道さん[]:2019/05/18(土) 15:37:16.84 ID:chcDPU3B - 学園の荒廃
こうした対立の中でも、ともかくも学園の運営はつづけられてはいた。 だがそれは、およそ正常な学園とはほど遠いものであったことは想像にかたくない。 学園の経営を形ばかりにぎって、学園とは関係ない問題に借金をかさね、 学園の土地を売却して狂奔する正斉氏と、これに裁判で対立した正清氏は、 学校運営でも対立し、正斉氏が主として大学を地盤に、 正清氏が高校等を地盤に学園内でことごとに対立をくりかえした。 指導者なき学園、その下で創立者子息の権力争い、このあおりで学園は荒れに荒れた。 戦争で多くの校舎を失って再建がまだ十分でなかった学園の建物は、 その多くが老朽化した木造建築が多かったが、その木造建築も管理の不行届から、 窓は破れ、床は落ち、天井もしずむ、廊下は穴だらけでろくに歩けない、 まるで廃屋に近かったとの証言もある。しかも経営の対立から、 教員、学生への指示が二重に行われ、教員への任命書、給与支払書が対立する双方から出されたり、 卒業証書が二枚出されたりといった、今日では想像も出来ない混乱が続いたという。 当然そこで行われる教育は、およそ教育の名に値しないものであったことも想像にかたくない。 授業よりの生徒の逃亡、試験時のカンニング、教員・学生の授業時の飲酒など、 これまた常識では考えられない数々の話が伝えられているのもこのころである。 その結果として後の学校編であげた高校生の非行もこの時期に激増し、 修学旅行などでの暴力事件なども相ついだ。伝統ある高千穂が、悪名高い暴力学校として 名を広めたのもこのころのことであった。(『高千穂学園八十年史』 256-257ページ)
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798 :エリート街道さん[]:2019/05/18(土) 15:37:32.58 ID:chcDPU3B - 学園の荒廃
こうした対立の中でも、ともかくも学園の運営はつづけられてはいた。 だがそれは、およそ正常な学園とはほど遠いものであったことは想像にかたくない。 学園の経営を形ばかりにぎって、学園とは関係ない問題に借金をかさね、 学園の土地を売却して狂奔する正斉氏と、これに裁判で対立した正清氏は、 学校運営でも対立し、正斉氏が主として大学を地盤に、 正清氏が高校等を地盤に学園内でことごとに対立をくりかえした。 指導者なき学園、その下で創立者子息の権力争い、このあおりで学園は荒れに荒れた。 戦争で多くの校舎を失って再建がまだ十分でなかった学園の建物は、 その多くが老朽化した木造建築が多かったが、その木造建築も管理の不行届から、 窓は破れ、床は落ち、天井もしずむ、廊下は穴だらけでろくに歩けない、 まるで廃屋に近かったとの証言もある。しかも経営の対立から、 教員、学生への指示が二重に行われ、教員への任命書、給与支払書が対立する双方から出されたり、 卒業証書が二枚出されたりといった、今日では想像も出来ない混乱が続いたという。 当然そこで行われる教育は、およそ教育の名に値しないものであったことも想像にかたくない。 授業よりの生徒の逃亡、試験時のカンニング、教員・学生の授業時の飲酒など、 これまた常識では考えられない数々の話が伝えられているのもこのころである。 その結果として後の学校編であげた高校生の非行もこの時期に激増し、 修学旅行などでの暴力事件なども相ついだ。伝統ある高千穂が、悪名高い暴力学校として 名を広めたのもこのころのことであった。(『高千穂学園八十年史』 256-257ページ)
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156 :エリート街道さん[]:2019/05/18(土) 15:37:52.62 ID:chcDPU3B - 学園の荒廃
こうした対立の中でも、ともかくも学園の運営はつづけられてはいた。 だがそれは、およそ正常な学園とはほど遠いものであったことは想像にかたくない。 学園の経営を形ばかりにぎって、学園とは関係ない問題に借金をかさね、 学園の土地を売却して狂奔する正斉氏と、これに裁判で対立した正清氏は、 学校運営でも対立し、正斉氏が主として大学を地盤に、 正清氏が高校等を地盤に学園内でことごとに対立をくりかえした。 指導者なき学園、その下で創立者子息の権力争い、このあおりで学園は荒れに荒れた。 戦争で多くの校舎を失って再建がまだ十分でなかった学園の建物は、 その多くが老朽化した木造建築が多かったが、その木造建築も管理の不行届から、 窓は破れ、床は落ち、天井もしずむ、廊下は穴だらけでろくに歩けない、 まるで廃屋に近かったとの証言もある。しかも経営の対立から、 教員、学生への指示が二重に行われ、教員への任命書、給与支払書が対立する双方から出されたり、 卒業証書が二枚出されたりといった、今日では想像も出来ない混乱が続いたという。 当然そこで行われる教育は、およそ教育の名に値しないものであったことも想像にかたくない。 授業よりの生徒の逃亡、試験時のカンニング、教員・学生の授業時の飲酒など、 これまた常識では考えられない数々の話が伝えられているのもこのころである。 その結果として後の学校編であげた高校生の非行もこの時期に激増し、 修学旅行などでの暴力事件なども相ついだ。伝統ある高千穂が、悪名高い暴力学校として 名を広めたのもこのころのことであった。(『高千穂学園八十年史』 256-257ページ)
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- 旧制の学制/大昔凄かった学校Part10
172 :エリート街道さん[]:2019/05/18(土) 15:38:27.96 ID:chcDPU3B - 昭和三十七年、東京地方裁判所は、川田正清氏から出された、
川田正斉氏の理事および理事長の職務執行停止の仮処分を認め、 木村善太郎氏を理事および理事長の代行者に選任した。 だが昭和三十九年三月二十三日にその申立人であった川田正清氏が突然死去され、 同年四月二十七日にこの仮処分が取消された。したがって木村氏は一時、 学園の事務を川田正斉氏にかえす動きがあったが、この時期からようやく 同窓会の再建への動きが出てきた。(『高千穂学園八十年史』 271ページ) 高千穂学園が落ち着きを取り戻したのは昭和40年代以降のこと。
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- 歴史を捏造、改竄、隠蔽、美化する大学 [無断転載禁止]©2ch.net
314 :エリート街道さん[]:2019/05/18(土) 15:38:43.60 ID:chcDPU3B - 昭和三十七年、東京地方裁判所は、川田正清氏から出された、
川田正斉氏の理事および理事長の職務執行停止の仮処分を認め、 木村善太郎氏を理事および理事長の代行者に選任した。 だが昭和三十九年三月二十三日にその申立人であった川田正清氏が突然死去され、 同年四月二十七日にこの仮処分が取消された。したがって木村氏は一時、 学園の事務を川田正斉氏にかえす動きがあったが、この時期からようやく 同窓会の再建への動きが出てきた。(『高千穂学園八十年史』 271ページ) 高千穂学園が落ち着きを取り戻したのは昭和40年代以降のこと。
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799 :エリート街道さん[]:2019/05/18(土) 15:38:59.71 ID:chcDPU3B - 昭和三十七年、東京地方裁判所は、川田正清氏から出された、
川田正斉氏の理事および理事長の職務執行停止の仮処分を認め、 木村善太郎氏を理事および理事長の代行者に選任した。 だが昭和三十九年三月二十三日にその申立人であった川田正清氏が突然死去され、 同年四月二十七日にこの仮処分が取消された。したがって木村氏は一時、 学園の事務を川田正斉氏にかえす動きがあったが、この時期からようやく 同窓会の再建への動きが出てきた。(『高千穂学園八十年史』 271ページ) 高千穂学園が落ち着きを取り戻したのは昭和40年代以降のこと。
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157 :エリート街道さん[]:2019/05/18(土) 15:39:16.69 ID:chcDPU3B - 昭和三十七年、東京地方裁判所は、川田正清氏から出された、
川田正斉氏の理事および理事長の職務執行停止の仮処分を認め、 木村善太郎氏を理事および理事長の代行者に選任した。 だが昭和三十九年三月二十三日にその申立人であった川田正清氏が突然死去され、 同年四月二十七日にこの仮処分が取消された。したがって木村氏は一時、 学園の事務を川田正斉氏にかえす動きがあったが、この時期からようやく 同窓会の再建への動きが出てきた。(『高千穂学園八十年史』 271ページ) 高千穂学園が落ち着きを取り戻したのは昭和40年代以降のこと。
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