- 旧制の学制/大昔凄かった学校Part9
17 :エリート街道さん[]:2019/01/25(金) 12:58:17.18 ID:Dya/sQFV - 昭和11年9月 保谷運動場開場式を挙行す。(東京文理科大学)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1461277/92 学園の発展に伴ひて学生生徒の数年と共に増加し、構内運動場が著しく狭隘を感じられ、 競技・球技等の授業実施にも困難を加へ来つたので、構外に適当なる運動場を設置するため その敷地を物色中のところ、昭和11年1月11日東京市北多摩郡保谷村高橋文太郎より その所有地1町9段6畝11歩(5891坪)を借入することを得、こゝに1周400米の走圏並に 投擲場・跳躍場・蹴球及びラグビーのゴール等を施設し、別に2階建合宿所及び1階建教官室 (延坪162坪7合5勺)を建設し、本学園学生生徒の心身錬成の道場たらしめた。 慶應義塾新田運動場 https://www.keio-up.co.jp/mita/r-shiseki/s1401_1.html#story ・大正15(1926)年開設(1万4251坪) ・野球場、蹴球場、400mトラック、テニスコートを備えていた ・野球場は1万5千人収容可能、六大学野球の公式戦が行われたこともあった ・池上電鉄と目黒蒲田電鉄の間で旅客争奪戦勃発 ・日吉に運動場が新設されたため、昭和13〜14年にかけて売却された
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18 :エリート街道さん[]:2019/01/25(金) 12:59:06.26 ID:Dya/sQFV - 飛田穂洲 『球道半世紀』 博友社、昭和26年
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I034578098-00 明治も柏木から駒沢に、更に代田橋に引移って漸く安住の地を得たらしいが、明治の野球部が呱々の声を挙げた柏木や、 竹内、湯浅の両選手を始め、大選手の勢揃ひ、大学ティムの大整備と、今に人口に膾炙する大早明の血戦が行はれた 駒沢球場も唯古いファンの印象に残るのみとなった。 和泉(代田橋)時代(昭和5年〜12年) http://www.kanzen.jp/book/b94704.html 昭和5年、僕が監督になって2年目のシーズンに、ついに専用のグラウンドができた。 徳川幕府時代からの火薬庫だった和泉が丘を陸軍から払い下げ、大学が大金を投じて購入したもので、 ラグビー場の他には野球場、陸上競技場、ホッケー場、庭球場もあったかな。 八幡山運動場新設(昭和12年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463746/58 7月23日、世田谷区八幡山町の土地1万5千余坪購入の登記を完了し、之を本学綜合運動場として世間に発表した。 此地は京王電車沿線の松沢病院横に位置し、有名なる蘆花公園(故文豪徳富蘆花氏遺邸)を左に入り 広漠高燥なる大田園区域の中に在り、四時翠緑に包まれ塵烟を絶ち、西南遥かに相模群峰の上富嶽を仰ぎ、 気宇真に開濶を覚ゆる別天地である。尚選手のため此周囲に8棟の寄宿舎を設け、ラグビー、ホツケー、サツカー、テニス等 各種の競技場に充て、野球は従前通り予科構内の大グラウンドに於て練習を行はしむることゝなつた。
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19 :エリート街道さん[]:2019/01/25(金) 12:59:42.48 ID:Dya/sQFV - 明薬通り
https://showayakyk.exblog.jp/14494925/ 沿革|明治薬科大学 https://www.my-pharm.ac.jp/koho/history.html 1930年 昭和05年 9月 明治薬学専門学校を笹塚校舎から駒沢(世田谷)校舎へ移転 1998年 平成10年 8月 清瀬キャンパス竣工 東京都世田谷区並びに田無市から、東京都清瀬市に移転 駒沢(世田谷)校舎は旧明大グラウンド跡地である。
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