- 旧制の学制/大昔凄かった学校part5 [無断転載禁止]©2ch.net
916 :エリート街道さん[]:2017/04/19(水) 09:46:14.14 ID:QV/0F3SV - こんなのもある。
近代日本の大学教授職 - 玉川大学出版部 http://www.tamagawa-up.jp/book/b82222.html
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- マーチ首位独走の立教に落ちて泣く泣く明治です。明日から近所には内緒・・。 [無断転載禁止]©2ch.net
34 :エリート街道さん[]:2017/04/19(水) 10:58:10.60 ID:QV/0F3SV - >>32-33
地方を侮辱する立教爺<地方を大事にする明治 六大学野球部物語 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2480266 大正初期の関西では、早慶に関する知識を持つ人は多かったが、明大を知る人はあまりいなかった。 小西主将の率いる明大チームが、大阪郊外の豊中球場で、慶応と2連戦を行ったことがある。 その頃中学生の私は、正直のところ、明大には無関心で、関西学院出身の慶応松田主将を応援するために 球場へかけつけたのである。中学2年坊主が4、5人集まって、明大の安藤投手を、「ヤーイ、猿キン」と やじり飛ばし、内田三塁手に、「ワァーイ、フライ落としよった」と浴びせかけてこわい目で にらみつけられたものだった。その時、明大の赤と黒に染め分けられたストッキングだけが 印象的だったことを今でも覚えている。 それから1、2年後神戸遊園地で明大をみた時は、豊中の時よりは興味を持つことが出来た。 それは神戸二中の投手だった渡辺大陸が、明大の投手として現れたからだ。 関西の中学生にとって、渡辺投手の明大入りはおどろきであった。何故ならば、われわれ中学選手は、 行くなら早大か、慶応か、このいずれかに決っているようなものだったからである。 要するに、明大野球部は、野球の盛んな関西地方で、大正初期は、あまり知られていなかったのである。 “こんなことではいけない。明大野球部のよさを、もっと地方の人に認識させねば、 早慶の上に出ることは望めない”と悟ったのが、野球名人岡田源三郎その人だった。 シーズンオフになると、岡田さんの地方遊説がはじまった。 最初の目的地は大阪。後年、明大の大黒柱となった、明星商業の麒麟児、 谷沢梅雄、梅田三次郎両選手が岡田さんの狙いであったのだ。谷沢、梅田と云えば、 野球が巧いだけでなく、スプリンターとしても日本の競技界のホープであった。 両君は野球よりも、陸上競技により大きい魅力を感じて、野球には目もくれず 早大の陸上競技部入りが既に約束されていた。岡田さんが、この難物を説得し、 翻意させるのは絶対不可能と考えられていたのであるが、事実は意外に簡単だった。
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35 :エリート街道さん[]:2017/04/19(水) 10:58:35.30 ID:QV/0F3SV - >>32-33
当時の模様を谷沢君の厳父の言葉を駆りて説明すれば・・・。 岡田はんには感心しました。熱心な人や。なかなか、ええこといやはりますわ。 「君達は早大へ行って走るのもいいが、名ランナーになると思うが、しかし、 君等のような優秀な、いつまた出てくるか判らないような新人を、みすみす 野球界から失ってしまうことは、僕にはたえられない。君達2人が明大へ 来てくれたら、明日にでも早慶を倒してみせる。全国大会に負けないような 大きい感動を味わうことが出来るんだ。是非明治へ来て僕を助けて貰いたい。 早慶を相手に戦う明大を男らしいと思わないか」 岡田はんのこの言葉を聞いたら、梅田君も、うちの梅雄も、えらい感動しよってな。 私も、なにがなんでも明大へやったろと思うた。 早慶戦がまだ復活しない頃は、この岡田さんの言葉には、素晴らしい魔力があった。 この殺し文句に魅せられて、明大を志した選手は相当数にのぼったと思う。 ◇ 岡田監督のスカウト活動によって選手層に厚みを増した明大野球部は 大正12年秋の五大学(東大は未加盟)リーグ戦で悲願の初優勝を成し遂げましたとさ。
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- 朝鮮人気質の明治大学は、北朝鮮と一緒の雰囲気。 [無断転載禁止]©2ch.net
169 :エリート街道さん[]:2017/04/19(水) 10:59:27.66 ID:QV/0F3SV - >>168
地方を侮辱する立教爺<地方を大事にする明治 http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/joke/1491649695/32-33 六大学野球部物語 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2480266 大正初期の関西では、早慶に関する知識を持つ人は多かったが、明大を知る人はあまりいなかった。 小西主将の率いる明大チームが、大阪郊外の豊中球場で、慶応と2連戦を行ったことがある。 その頃中学生の私は、正直のところ、明大には無関心で、関西学院出身の慶応松田主将を応援するために 球場へかけつけたのである。中学2年坊主が4、5人集まって、明大の安藤投手を、「ヤーイ、猿キン」と やじり飛ばし、内田三塁手に、「ワァーイ、フライ落としよった」と浴びせかけてこわい目で にらみつけられたものだった。その時、明大の赤と黒に染め分けられたストッキングだけが 印象的だったことを今でも覚えている。 それから1、2年後神戸遊園地で明大をみた時は、豊中の時よりは興味を持つことが出来た。 それは神戸二中の投手だった渡辺大陸が、明大の投手として現れたからだ。 関西の中学生にとって、渡辺投手の明大入りはおどろきであった。何故ならば、われわれ中学選手は、 行くなら早大か、慶応か、このいずれかに決っているようなものだったからである。 要するに、明大野球部は、野球の盛んな関西地方で、大正初期は、あまり知られていなかったのである。 “こんなことではいけない。明大野球部のよさを、もっと地方の人に認識させねば、 早慶の上に出ることは望めない”と悟ったのが、野球名人岡田源三郎その人だった。 シーズンオフになると、岡田さんの地方遊説がはじまった。 最初の目的地は大阪。後年、明大の大黒柱となった、明星商業の麒麟児、 谷沢梅雄、梅田三次郎両選手が岡田さんの狙いであったのだ。谷沢、梅田と云えば、 野球が巧いだけでなく、スプリンターとしても日本の競技界のホープであった。 両君は野球よりも、陸上競技により大きい魅力を感じて、野球には目もくれず 早大の陸上競技部入りが既に約束されていた。岡田さんが、この難物を説得し、 翻意させるのは絶対不可能と考えられていたのであるが、事実は意外に簡単だった。
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170 :エリート街道さん[]:2017/04/19(水) 10:59:51.88 ID:QV/0F3SV - >>168
当時の模様を谷沢君の厳父の言葉を駆りて説明すれば・・・。 岡田はんには感心しました。熱心な人や。なかなか、ええこといやはりますわ。 「君達は早大へ行って走るのもいいが、名ランナーになると思うが、しかし、 君等のような優秀な、いつまた出てくるか判らないような新人を、みすみす 野球界から失ってしまうことは、僕にはたえられない。君達2人が明大へ 来てくれたら、明日にでも早慶を倒してみせる。全国大会に負けないような 大きい感動を味わうことが出来るんだ。是非明治へ来て僕を助けて貰いたい。 早慶を相手に戦う明大を男らしいと思わないか」 岡田はんのこの言葉を聞いたら、梅田君も、うちの梅雄も、えらい感動しよってな。 私も、なにがなんでも明大へやったろと思うた。 早慶戦がまだ復活しない頃は、この岡田さんの言葉には、素晴らしい魔力があった。 この殺し文句に魅せられて、明大を志した選手は相当数にのぼったと思う。 ◇ 岡田監督のスカウト活動によって選手層に厚みを増した明大野球部は 大正12年秋の五大学(東大は未加盟)リーグ戦で悲願の初優勝を成し遂げましたとさ。
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