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エリート街道さん
旧制の学制/大昔凄かった学校part5 [無断転載禁止]©2ch.net
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旧制の学制/大昔凄かった学校part5 [無断転載禁止]©2ch.net
842 :エリート街道さん[]:2017/04/15(土) 11:58:14.41 ID:2mnrw5XI
昔も今も大学は金がすべてだったわけね。

 昇格をめざす私学のなかでも、産業界に多数の人材を出し、強固な同窓生組織をもつ
 慶應義塾はすでに、「大学」としての実質を十分にそなえていた。また大隈重信という
 カリスマ的な創設者と規模の大きい卒業生集団をもつ早稲田も、大正8年から9年にかけての
 1年半余の期間に100万円をこえる寄付金を集めた。大正9年2月、私学として最初に
 大学への昇格をはたしたのは、この2校であった。

 大正9年には、さらに明治・法政・中央・日本・國學院・同志社の6大学が設立の認可をうける。
 しかしその昇格に必要な資金の獲得は、容易ではなかった。たとえば中央大学は昇格に必要な資金
 70万円を全額寄付にあおいだが、それは卒業生の1人の25万円という多額の寄付なしには
 達成できなかっただろう。明治大学は、政治経済科を独立の学部とすることをめざしながら、
 寄付金の額が十分でなく、ついにあきらめねばならなかった。

 また日本大学の場合には、他の主要私学にくらべて資金の蓄積水準がかなり低く、
 そのため大正8年中の昇格はむずかしいと取りざたされ、危機感をもった予科の在学生たちが、
 「学生の総意で1人あたり毎月1円、1年間続けて募金を行」うといった、全学あげての努力で
 ようやく必要な資金を獲得することができた。
 (天野郁夫 『旧制専門学校』 日経新書、1978年)

 同志社の場合は、それまでの経常支出13万円に対して、法学部、文学部の2学部分の供託金
 60万円は相当の多額のものであり、加えて、相応の設備充実や特に専任教員の増員は、
 第一次世界大戦後の諸物価高騰の影響もあって、大学の経営を著しく圧迫するものであった。
 事実、「大学令」による大学昇格が遅れた関西学院大学では、学生らの熱心な運動にもかかわらず、
 学院を宗教的に指導するアメリカの学院連合教育委員会の財政的理由によって供託金を準備できず、
 即座の昇格は断念せざるを得なかった(昇格は1932・昭和7年、『関西学院百年史 通史T』)。
 供託金が私立大学にいかに重くのしかかる問題であったかを物語る事例の一つといえよう。
 (立命館百年史編纂委員会 『立命館百年史 通史一』 1999年)
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110 :エリート街道さん[]:2017/04/15(土) 13:15:43.39 ID:2mnrw5XI
>>108
大学令により大学となったのは、慶応義塾大学と早稲田大学が最も早く(設立許可は共に大正9年2月5日)、
ついで明治大学・法政大学・日本大学・中央大学・国学院大学・同志社大学(設立許可は大正9年4月15日)が
認可され、東京慈恵医院医学専門学校(大正10年10月19日)は東京慈恵会医科大学となり、
龍谷大学・大谷大学(設立許可は大正11年5月20日)・専修大学・立教大学(大正11年5月25日に設立許可)・
立命館大学・関西大学・東洋協会大学(設立許可は大正11年6月5日)が設立を許可された。

このような情勢の中にあって青山学院も明治末期以来のキリスト教諸派の連合大学設立の計画から
はなれて、独自の大学設立の計画を具体化するに至った。大正9年12月13日、高木院長は臨時理事会に
青山学院単独の大学設立計画を提議し、理事会はこれを可決した。しかし、この計画の推進者である
高木院長は、大学設立計画可決の翌月、病に斃れ、不帰の客となってしまったのである。
(青山学院 『青山学院九十年史』 1965年)

大正12年9月1日、突如として関東地方一帯を襲った大震災は、青山学院にも大打撃を与えた(中略)。
明治19年落成の神学部校舎、39年落成の中学部校舎、40年落成の大講堂、大正7年落成の
高等学部校舎(勝田館)は大破し、学校はその諸施設をほとんど失ってしまったのである(中略)。
このような大震災による大打撃のため、いままでの拡張事業は消し飛んでしまい、
災害からの復興に米国メソジスト監督教会の特別の支援も乞わねばならなくなった。
(青山学院 『青山学院九十年史』 1965年)

「回顧するに我等は大正8年故高木院長の拡張事業を賛して資金募集に従ひ、金40万円を
集め得たるも、其大部分たる勝田銀次郎氏の指定寄附に係る高等学部校舎の建築費を除けば、
其余は甚微々たるものなりき、次で彼の震災復興の事業に当りて我等協賛再び募集に務めたる資金は
12万円余に過ぎず。更に間島図書館充実費募集の為め得たる所のものも是亦当初の希望に満たざりき。
今や校舎は中学部高等学部神学部何れも建造整ひ校友の寄附に係る大講堂と間島図書館とを控へて
学院の偉観を呈すと雖も其内容は遺憾ながら完備せりとなすことを得ず」
(米山梅吉 「校友諸君に檄す」 昭和8年6月20日)


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