- 東京の蕎麦名店5枚
876 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/10/26(金) 13:39:22.66 ID:O4AG6LqY - それにしてもトンキン品川区の障害者いじめはひどすぎだな
解同支配地って怖い
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879 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/10/26(金) 16:23:51.54 ID:O4AG6LqY - 石原慎太郎というキチガイは大量殺人鬼の気持ちがわかるといいました
なんと恐ろしいことでしょうか
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881 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/10/26(金) 17:41:24.52 ID:O4AG6LqY - 世界一の大都市・江戸は実は巨大貧困地帯だった!?知られざる歴史とは
世界一の大都市だった理由は「貧困」にあり 江戸時代が「定常社会」なのは、日本の総人口が2600万人前後のままほとんど変わらなかったからです。 しかしこれは社会が安定していたためではなく、農村で増えた人口を都市が間引いていたからでした。 江戸や京・大坂は、出稼ぎの若者たちを集めては死へと追いやる“アリ地獄”だったのです。 江戸では、地方出身の貧しいひとたちは人足(建設労働者)や物売りになったり、商家の下働きをしていました。 さらに食い詰めれば、物乞いや売春でその日の糧を得るしかなくなったことでしょう。 このように考えると、彼らの生活は、インドや東南アジアの貧困層の暮らしにきわめてよく似ています。 インドでは、農村で生きていけないひとたちはデリーやムンバイなどの大都市に集まり、スラムで共同生活を送ります。 彼らは同郷の者同士で結束を固め、お互いに支えあいながら、必死に生き延びようとするのです。
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882 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/10/26(金) 17:43:14.91 ID:O4AG6LqY - 江戸グルメの背景にある貧困
郷土料理「深川丼」はなぜ作られたか 東京を代表する郷土料理の1つでもある「深川丼」ができた背景には、実は貧困がある. 現在、下町といわれる地域はこのころスラムだった地域です。 当時のマスコミ関係者のスラム街ルポルタージュを読んでいると, たとえば深川丼は最近では江戸情緒あふれる料理と思われていますが,実際には明治期のスラム街の貧民が, その辺のどぶ川から拾ってきた貝と残飯を煮た料理で,臭くて食えないなどと書かれています。
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883 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/10/26(金) 17:45:17.51 ID:O4AG6LqY - 江戸グルメの背景にある貧困
そばつゆを半分しかつけない理由 関西のうどん文化に対し、江戸にはそばの文化がある。 しかし、「粋な食べ方」の背景にもまた貧困がある。 一部の江戸っ子の間では、「ザルそばはつゆを半分しかつけないのが通」というのが囁かれていますが、 じつはこれも見栄です。 半分しかつけないのはその方がおいしいからではなく、「つゆがもったいない」からです。 誰だったかの落語の落ちで、江戸っ子爺さんの今生の言葉が「一度でいいからそばにつゆを たっぷりつけて食ってみたかった」というのがあるくらいです。
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884 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/10/26(金) 17:48:26.48 ID:O4AG6LqY - 近代以降にも続いた貧困
東京市中にたくさんあったスラム 明治維新以降も、江戸時代から続くスラム街が戦前の東京には存在していた。 その昔、東京には数多くの貧民窟がありました。代表的なものが3カ所あって、 それは下谷万年町(上野駅のそば)、芝新網町(浜松町駅のそば)、四谷鮫ケ橋(赤坂離宮のそば)です。 この3カ所は江戸時代から続く大スラムで、明治30年(1897)の調査では、下谷万年町が875戸、 芝新網町で532戸、四谷鮫河橋谷町で1370戸の細民長屋がありました。 軍事学校のお蔭で成り立つ残飯ビジネス スラムに暮らす人たちは「残飯屋」のおかげで食べていけた。 もちろん残飯屋の担い手たちにはそれが生命線である 大道芸人は、米が食え酒が飲めるだけ幸せでした。収入が少ない貧民窟の人々は、 たいてい残飯を食べていたからです。 やはり『日本の下層社会』によれば、残飯は上等120匁(=もんめ、1匁は3.75g)1銭、 お焦(こげ)170匁1銭、残菜1人1度分1厘、残汁2厘でした。
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