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名無しさん名無しさん
◆◆宮崎と押井と大友と庵野と今と…105◆◆

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◆◆宮崎と押井と大友と庵野と今と…105◆◆
748 :名無しさん名無しさん[sage]:2018/05/15(火) 02:19:02.46 ID:CBVmr63O0
4suke@ガルパン本 委託中 @kt4sk
ジブリ美術館の帰り際.
献花台の設営が始まっていました.
明日5月15日は
高畑勲監督のお別れの会が行われるとのこと.
https://pbs.twimg.com/media/DdKCu2eVwAEQGWF.jpg
https://pbs.twimg.com/media/DdKDMEcUQAEUPGo.jpg
◆◆宮崎と押井と大友と庵野と今と…105◆◆
749 :名無しさん名無しさん[sage]:2018/05/15(火) 10:10:21.88 ID:CBVmr63O0
ジブリ高畑勲監督がアニメ業界に遺した宝物
宮崎駿やガンダム監督にまで影響を与えた
数土 直志 : ジャーナリスト
https://toyokeizai.net/articles/-/220015
◆◆宮崎と押井と大友と庵野と今と…105◆◆
750 :名無しさん名無しさん[sage]:2018/05/15(火) 12:28:42.81 ID:CBVmr63O0
高畑勲さんお別れの会 宮崎駿監督が涙「パクさんのことを忘れない」
4月5日に亡くなった
映画監督・高畑勲さん(享年82)のお別れ会が15日、
東京・三鷹の森ジブリ美術館で営まれた。
会の委員長を務めた宮崎駿監督は、
開会の辞で「パクさん」と呼んだ
高畑さんの監督としての才能を称えながら、
思い出を涙ながらに振り返った。
宮崎監督は
「ものすごく朝が苦手な男でして、
 東映動画(当時)に勤めたとき、
 ぎりぎりに駆け込んで買ってきた
 パンをパクパクと食べて水道の蛇口から
 そのまま水を飲んでいたから、
 パクさんとなったといううわさです」と
呼び名の由来を紹介してから、
「パクさんは95歳まで生きると思いこんでいた。
 自分にもあんまり時間がないんだと思う」と
盟友との出会いを明かした。
「1963年、パクさんが27歳、
 僕が22歳のときに初めて出会いました。
 初めて言葉を交わした日のことを今でもよく覚えています。
 バス停にいるとき、雨上がりの水たまりの残る道を
 一人の青年が近づいてきた。
 『瀬川拓男さんのところに行くそうですね』。
 穏やかで、かしこそうな青年の顔がそこにあった。
 それが高畑勲ことパクさん出会った瞬間だった」。
◆◆宮崎と押井と大友と庵野と今と…105◆◆
751 :名無しさん名無しさん[sage]:2018/05/15(火) 12:29:52.16 ID:CBVmr63O0
東映動画時代には夢中で語りあったこと、
『太陽の王子 ホルスの大冒険』製作時のエピソードに触れながら、
「なんという強い絵、圧倒的な絵、なんという優しさなんだろう。
 パクさんは仕事を成し遂げていた」と声を震わせ、
「偉い人たちから『あの頃が一番面白かった』と言われた。
 パクさん、僕らはあの時、生きたんだ。
 ありがとうパクさん」と何度も涙を拭い、
「55年前、あのバス停で声をかけてくれた
 パクさんのことを忘れない」と別れを惜しんだ。
祭壇は
「高畑さんを野に咲く花たちで囲みたい。
 高畑監督の作品にあるどれかでもなく、
 『祭壇風』でもない。
 ただ、温かみのある草花たちで
 包み込みたい」という宮崎監督の想いで飾られた。
高畑さんの監督作『おもひでぽろぽろ』にちなんで紅花を飾り、
そのほかフランスから叙勲された勲章を
『パンダコパンダ』のお父さんパンダを胸につけた。
フレデリック・バックさんからもらった人形、
『かぐや姫の物語』の羽子板など、
家族で送った葬儀のときに飾られていたものが展示室内に置かれた。
会には山田洋次監督、富野由悠季監督、岩井俊二監督、樋口真嗣監督、
俳優の柳葉敏郎、女優の宮本信子、瀧本美織らが参列した。 〜
https://www.oricon.co.jp/news/2111398/full/
◆◆宮崎と押井と大友と庵野と今と…105◆◆
752 :名無しさん名無しさん[sage]:2018/05/15(火) 12:38:10.29 ID:CBVmr63O0
高畑勲さん「お別れ会」
宮崎駿監督は声を詰まらせながら、亡き盟友を偲んだ(追悼文全文)
「55年前に、雨上がりのバス停で声をかけてくれたパクさんのことを忘れない」
4月5日に肺がんで亡くなったアニメーション監督の高畑勲さんを偲ぶ「お別れの会」が、
5月15日に東京・三鷹の森ジブリ美術館で開かれ、
宮崎駿監督や女優の宮本信子さんなどが参列した。
会の冒頭で宮崎監督が"開会の辞"として挨拶した。
宮崎監督は高畑さんと出会った東映動画時代を振り返りつつ、
「パクさんは95歳まで生きると思い込んでいた」と、
声を詰まらせながら盟友を偲んだ。
全文を紹介する。
------
パクさんというあだ名の言われはですね、
まあ定かでない部分もあるんですが、
大体もの凄く朝は苦手な男でして、
東映動画に勤め始めた時も
ギリギリに駆け込むというのが毎日でございまして。
買ってきたパンをタイムカードを押してから
パクパクと食べて、水道の蛇口からそのまま溝を飲んでいたと。
それで、パクパク、パクになったという噂です。

追悼文という形ではありませんが、
書いてきたものを読ませていただきます。

パクさんは95歳まで生きると思い込んでいた.
そのパクさんが亡くなってしまった。
自分にもあんまり時間がないんだなあと思う。
9年前、私たちの主治医から電話が入った。
「友達なら高畑監督のタバコをやめさせなさい」。
真剣な怖い声だった。
◆◆宮崎と押井と大友と庵野と今と…105◆◆
753 :名無しさん名無しさん[sage]:2018/05/15(火) 12:41:19.70 ID:CBVmr63O0
主治医の迫力に恐れをなして、
僕と鈴木さんはパクさんとテーブルを挟んで向かい合った。
姿勢を正して話すなんて初めてのことだった。

「パクさんタバコを止めてください」と僕。
「仕事をするためにやめてください」。
これは鈴木さん。
弁解やら反論が怒涛のように吹き出てくると思っていたのに、
「ありがとうございます。やめます」。
パクさんはキッパリ言って頭を下げた。
そして本当に、パクさんはタバコをやめてしまった。
僕はわざとパクさんのそばへタバコを吸いに行った。
「いい匂いだと思うよ。
 でも、ぜんぜん吹いたくならない」とパクさん。
彼の方が役者が上だったのであった。
やっぱり95歳まで生きる人だなあと、僕は本当に思いました。

1963年、パクさんが27歳、僕が22歳の時、
僕らは初めて出会いました。
初めて言葉を交わした日のことを今でもよく覚えています。
黄昏時のバス停で、僕は練馬行きのバスを待っていた。
雨上がりの水たまりの残る通りを、ひとりの青年が近づいてきた。
「瀬川拓男さんのところへ行くそうですね」。
穏やかで賢そうな青年の顔が目の前に遭った。
それが高畑勲こと、パクさんに出会った瞬間だった。
55年前のことなのに、なんとはっきり覚えているのだろう。
あの時のパクさんの顔を今もありありと多い出す。

瀬川拓男氏は人形劇団「太郎座」の主催者で、
職場での講演を依頼する役目を僕は負わされていたのだった。
◆◆宮崎と押井と大友と庵野と今と…105◆◆
754 :名無しさん名無しさん[sage]:2018/05/15(火) 12:45:49.75 ID:CBVmr63O0
次にパクさんに出会ったのは
東映動画労働組合の役員に推し出されてしまったときだった。
パクさんは副委員長、僕は書記長にされてしまった。
緊張で発気に苦しむような日々が始まった。
それでも組合事務所のプレハブ小屋に泊まり込んで、
僕はパクさんと夢中に語りあかした。
ありとあらゆることを。
中でも作品について。
僕らは仕事に満足していなかった。
もっと遠くへ、もっと深く、誇りを持てる仕事をしたかった。
何を作ればいいのか。
すみません、どうやって...。
パクさんの教養は圧倒的だった。
僕は得難い人に出会えたのだと嬉しかった。
その頃、僕は大塚康生さんの班にいる新人だった。
大塚さんに出会えたのは
パクさんと出会えたのと同じくらい幸運だった。
アニメーションの動かす面白さを教えてくれたのは大塚さんだった。
ある日大塚さんが見慣れない書類を僕に見せてくれた。
こっそりです。
ちょっと、すみません...。
それは、大塚康生が長編映画の作画監督をするについては、
演出は高畑勲で無くてはならないという会社への申入書だった。
当時、東映動画では「監督」と呼ばず「演出」と呼んでいました。
パクさんと大塚さんが組む。
光が差し込んできたような高揚感に湧き上がっていました。
そしてその日がきた。
長編漫画第10作目(「太陽の王子 ホルスの冒険」)が
大塚・高畑コンビに決定されたのだった。
ある晩、大塚さんの家に呼ばれた。
会社近くの借家の一室にパクさんも来ていた。
ちゃぶ台に大塚さんはきちんと座っていた。
パクさんは組合事務所と同じように、すぐ畳に寝転んだ。
なんと僕も寝転んでいた。
(大塚さんの)奥さんがお茶を運んでくれたとき、
僕はあわてて起きたが、パクさんはそのまま「どうも」と会釈した。
◆◆宮崎と押井と大友と庵野と今と…105◆◆
755 :名無しさん名無しさん[sage]:2018/05/15(火) 12:54:22.83 ID:CBVmr63O0
女性のスタッフにパクさんの人気が今ひとつなのは、
この無作法のせいだったが、本人によると、
股関節がずれていてだるいのだそうだった、
大塚さんは語った。
「こんな長編映画の機会はなかなか来ないだろう。
 困難は多いだろうし、制作期間が延びて、
 問題になることが予想されるが、
 覚悟して思い切ってやろう」。
それは「意思統一」というより、
「反乱」の宣言みたいな秘密の談合だった。
もとより僕に依存はなかった。
なにしろ僕は原画にもなっていない、
新米と言えるアニメーターに過ぎなかったのだ。
大塚さんとパクさんは、
事の重大さがもっとよくわかっていたのだと思う。
勢い良く突入したが長編10作目の制作は難航した。
スタッフは新しい方向に不器用だった。
仕事は遅れに遅れ会社全体を巻き込む事件になっていった。
パクさんの粘りは超人的だった。
会社の偉い人に泣き疲れ脅されながらも、
大塚さんもよく踏ん張っていた。
僕は、夏のエアコンの止まった休日に出て、
大きな紙を相手に背景原図を書いたりした。
会社と組合との協定で休日出勤は許されていなくても、
構っていられなかった。
タイムカードを押さなければいい。
僕はこの作品で仕事を覚えたんだ。
初号を見終えた時、僕は動けなかった。
感動ではなく驚愕に叩きのめされていた。
会社の圧力で、迷いの森のシーンは
削られる削られないの騒ぎになっていたのを知っていた。
◆◆宮崎と押井と大友と庵野と今と…105◆◆
756 :名無しさん名無しさん[sage]:2018/05/15(火) 15:18:34.12 ID:CBVmr63O0
パクさんは粘り強く会社側と交渉して、
ついにカット数からカット毎との作画枚数まで約束し、
必要制作日数まで約束せざるを得なくなっていた。
当然のごとく約束ははみ出し、
その度にパクさんは始末書を書いた。
一体パクさんは何枚の始末書を書いたのだろう。
僕も手一杯の仕事を抱えて、
パクさんの苦闘に寄り添う暇はなかった。
大塚さんも、会社側の脅しや泣き落としに耐えて、
目の前のカットの山を崩すのが精一杯だった。
初号で僕は初めて、迷いの森ヒルダのシーンを見た。
作画は大先輩の森康二さんだった。
なんという圧倒的な表現だったろう。
なんという強い絵。なんという...優しさだったろう...。
これをパクさんは表現したかったのだと初めてわかった。
パクさんは仕事を成し遂げていた。
森康二さんも、かつてない仕事を成し遂げていた。
大塚さんと僕はそれを支えたのだった。
「太陽の王子」公開から30年以上たった西暦2000年に、
パクさんの発案で「太陽の王子」関係者の集まりが行われた。
当時の会社の責任者、重役たち、
会社と現場の板挟みに苦しんだ中間管理職の人々、
制作進行、作画スタッフ、背景・トレース・彩色の女性たち、
技術家、撮影、録音、編集の各スタッフがたくさん集まってくれた。
もういまはないゼロックスの職場の懐かしい人々の顔もまじっていた。
偉い人たちが「あの頃が一番おもしろかったなあ」と言ってくれた。
「太陽の王子」の興行は振るわなかったが、
もう誰もそんなことを気にしていなかった。
パクさん。僕らは精一杯、あの時を生きたんだ。
膝を折らなかったパクさんの姿勢は、僕らのものだったんだ。
ありがとう、パクさん。
55年前に...あの雨上がりのバス停で声をかけてくれたパクさんのことを忘れない。
------
https://www.huffingtonpost.jp/2018/05/14/isao-takahata-farewell_a_23434642/
◆◆宮崎と押井と大友と庵野と今と…105◆◆
757 :名無しさん名無しさん[sage]:2018/05/15(火) 15:57:08.91 ID:CBVmr63O0
小原篤/アニマゲ丼@botacou
高畑勲さんお別れの会、
取材者として来たので献花はせず。
いらっしゃったのは富野さん、池田宏さん、才田さん、
小田部さん、男鹿さん、山本二三さん、角川歴彦さん、
鈴木伸一さん、山田洋次さん、大林宣彦さん、
南雅彦さん、片渕さん、友永さん、ひこねさん、古川タクさん、押井さん…。


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