- 【なんでも】 接骨院・整骨院の謎 143【捻挫】 [無断転載禁止]©2ch.net
951 :壱 ◆GLhFRRFKj. (ワッチョイ cff7-GWIZ)[]:2017/03/21(火) 07:16:22.92 ID:Xjg1Q8u+0 - >>937
>疾病慰安境界は柔整に任して研修とコンサルタントのシステム作りに協力しろよ ハイ、これが柔整業界のホンネですね。 外傷の保存治療は我々に任せろ。 整形外科医は一日手術だけしておれ。 でも新人の研修は整形外科でやって欲しい。整骨院には外傷来ないから。 困ったときの相談にも乗って欲しい。 整形外科医としては、研修させろと言われても次のように返すしかない。 「柔道整復を知らないのに、柔道整復を教えられない」 「医学部では柔道整復学の講義はない。 そもそも柔道整復って何?」 「骨折・脱臼の整復をするのに何で柔道が必要?」
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967 :壱 ◆GLhFRRFKj. (ワッチョイ cff7-GWIZ)[]:2017/03/21(火) 18:10:12.68 ID:Xjg1Q8u+0 - >>964
>1000年位前に発生して、刀傷から骨折等の外科的領域を全て担ってきた民族医学だぞw >江戸時代は腑分けを主導し、本邦の医学の近代化に寄与し、あの華岡青洲を輩出した業界だぞ。 江戸時代のほねつぎと、現代の柔道整復とはあまり関係がない。
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969 :壱 ◆GLhFRRFKj. (ワッチョイ cff7-GWIZ)[]:2017/03/21(火) 20:05:03.75 ID:Xjg1Q8u+0 - 確かに、江戸時代には柔術から派生した救急法があったようです。
1619年、陳元贇が中国拳法を日本に伝え、三浦義辰が柔術・救急法・死活法を広めたと言われています。 有名な名倉流というのは名倉素朴(1750-1827)という人が三浦義辰に師事し、名倉流の弟子が全国に広がったそうです。 やはり陳元贇の弟子の吉原元棟は「正骨要訣」、その弟子の二宮彦可(にのみやげんか)は「正骨範」という書物をあらわしました。 世界で初めて全身麻酔を用いた手術を成功させた華岡青洲も、整骨術を教えていたそうですが、これは二宮彦可の系統です。 江戸時代にはその他、高志鳳翼、各務文献など、多くの接骨医が活躍しました。
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970 :壱 ◆GLhFRRFKj. (ワッチョイ cff7-GWIZ)[]:2017/03/21(火) 20:11:44.92 ID:Xjg1Q8u+0 - >>969 続き
さて、江戸時代にはさまざまな接骨医がいたのですが、この頃には公的な医師の資格はないわけですから、 医師と非医師の区別もないわけです。 明治維新後、混乱の中で医療制度が少しずつ作られていきます。 明治7年 医制制定 第37条 医師は医学校卒業の証書および内科、外科、眼科、産科等の専門科目2カ年以上実験の証書を 所持するものを検し免状を与えて開業を許す 解剖学大意、生理学大意、病理学大意、薬剤学大意、内外科学、病状処方並びに手術 産科眼科、整骨科および口中科専ら一科をおさむる者は毎三年必ず右の試験を遂げ其の免状を受くべし 明治9年、医術開業試験が実施されました。 受験資格は一年半の修学履歴のみ。 何しろ、医学校自体がない時代です。 最初は粗製濫造で混乱したことでしょう。
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975 :壱 ◆GLhFRRFKj. (ワッチョイ cff7-GWIZ)[]:2017/03/21(火) 23:20:10.35 ID:Xjg1Q8u+0 - >>970 続き
明治16年 医術開業試験規則の変更(内務省) これで、歯科は別として、産科・眼科・整骨科も区別なく全部一緒の医師免許となり、 それぞれが専門をとなえるのは結構だけれども、それは各自の意思によるということに決まりました。 整骨科を標榜していた人たちも、試験を受けて医師となったのです。 明治18年 入歯歯抜口中療治接骨等営業取締方 この法律で、医術開業試験を得ない者は新規開業できなくなりました。 以前より接骨業をしていたものは「従前接骨業」として、医師とは区別して 都道府県庁の規則で取り扱われるようになり、一代限り営業できるとされました。
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976 :壱 ◆GLhFRRFKj. (ワッチョイ cff7-GWIZ)[]:2017/03/21(火) 23:50:50.65 ID:Xjg1Q8u+0 - >>975 続き
明治になり、医制が敷かれ、明治18年の内務省通達により医師開業試験を受けていない接骨業者は 「接骨科」などの看板を掲げることを禁じられました。 「其の当時の柔道家即ち町道場師範の大半はあん摩業者の門下となりマッサージ術営業者として、 或いは免許所有者の出張所として患者を取り扱う者が多かった。」 医師法違反で取り締まられることもあり、危機感を覚えた柔道家により猛烈な柔道接骨術公認請願運動が 展開されました。 柔道接骨術公認請願期成会が結成され、内務省、警視庁、東京帝大田代教授、講道館 嘉納治五郎師範などに根回しし、内部にむけ講習会を開催する一方、新聞社を接待して運動への協力を要請、 さらに貴族院・衆議院の協力議員を選定、国会への請願書提出にこぎ着けました。 この中心となったのは萩原七郎という柔道家だそうですが、この人の手記に詳細な記録があります。 それにしても、すごいバイタリティですね。
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