- 旭川市総合スレ Part49
809 :名無しさん[]:2018/05/22(火) 14:27:38.49 ID:aO2HxZWi - 大本営が沖縄県民59万人の住民疎開、避難について検討を始めたのは、サイパン島にアメリカ軍が来攻した1944年6月のことである。
7月1日に、研究要員として後に第32軍参謀長となる長勇少将(1945年3月に中将)が現地入りした。 7月7日にサイパン島が陥落すると、東條英機内閣は緊急閣議を開き「沖縄に戦火が及ぶ公算大」と判断した。 沖縄本島・宮古・石垣・奄美・徳之島の5島から、老幼婦女子と学童を本土及び台湾へ疎開させることが決定され、沖縄県に通達された。 その後の通達で疎開目標は本土へ8万人と台湾疎開へ2万人の計10万人と決定された。 対象者は、県内に29万人いた60歳以上と15歳未満の者、その看護者である婦女のみが許可され、 警察署長の渡航証明書を受けることとされた(県外転出実施要綱)。 また、学童集団疎開については、原則として国民学校3年生?6年生を対象とし、1、2年生は付き添い不要の者に限られている。 手段は沖縄に兵士や軍需物資を輸送する軍用輸送船の帰路を利用して、日本本土や台湾に疎開させようというものであったが、 費用は全額国庫負担で行うことになり、大蔵省第2予備金から1500万円を拠出する予算措置が取られた。 一般住民の疎開は法的には強制力が無く、県を通じた行政指導による形式であった。 県民が疎開に応じるか不安視した県は、短期間で徹底して遂行するにはある種の威令や組織力・機動力が必要と考え、 一般疎開を本来の社事兵事を司る内政部ではなく警察部に担当させることに決定した。 一方、学童疎開は沖縄県庁内政部教学課を主担当として、各市町村、各国民学校長、部落会、隣保班を通じて推進された。
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814 :名無しさん[]:2018/05/22(火) 21:05:35.42 ID:aO2HxZWi - しかし、県民の疎開機運は一向に盛り上がらなかった。
理由としては、本土では、貸し家の「琉球人お断り」など沖縄差別も根強く、 一家の大黒柱を欠いた状態で身寄りのない本土や台湾に疎開することの不安や、船舶に頼らざるを得ない県外疎開そのものへの不安があったとされる。 しかし、荒井退造沖縄県警察刑務部長を始めとする県の必死の努力により、疎開第1船である「天草丸」は7月21日に警察官、 県庁職員の家族ら752人を乗せて那覇港を出港した。 続く7月末の疎開第2船での220人、8月初めの第3船での1566人はほとんどが本土に縁故のある人々であった(本土出身者の引き揚げが多くを占めたものの、 その後8月10日に出航した第4次の約9,000人は縁故のない県民が中心となり、ようやく県の努力が実りつつあったが、 1944年8月22日の学童疎開船「対馬丸」撃沈事件(約1500人死亡)でまた沖縄県民に不安が広がった。 避難民の子供 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/33/OkinawaCivilians.jpg 学童疎開船対馬丸を撃沈したアメリカ軍潜水艦ボーフィン https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/48/USS_Bowfin.jpg
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