- 旭川市総合スレ Part49
597 :名無しさん[]:2018/05/17(木) 12:12:48.50 ID:3mccxbUv - 第5艦隊は、日本軍の激しい特攻に対し、まったく防御一点張りのような戦術で常時作戦海域に留まっておらねばならず、
上級指揮官らの緊張感は耐えられないくらい大きなものとなっており、ニミッツは前例のない戦闘継続中の艦隊の上級指揮官らの交代を行った。 第5艦隊司令はスプルーアンスからウィリアム・ハルゼー・ジュニアに、第58任務部隊司令はマーク・ミッチャーからジョン・S・マケイン・シニアに交代となった。 スプルーアンス、ミッチャ―ともに沖縄戦中乗艦していた旗艦に2回ずつ特攻を受けており、いずれの艦も戦線離脱をしている。 特にミッチャ―がバンカーヒルで特攻を受けた時、特攻機はミッチャ―の6mの至近距離に突入、 奇跡的にミッチャーは負傷しなかったが、艦隊幕僚や当番兵13名が戦死している。 それらの心労で体重は大きく落込み、交代時には舷側の梯子を単独では登れないほどに疲労していた。 ミッチャ―はこの後も体調がすぐれず、戦争終結後まもなく1947年に他界している。 菊水七号作戦時には、制空権確保のために陸軍空挺部隊から抽出したコマンド部隊「義烈空挺隊」をアメリカ軍制圧下の飛行場に強行着陸させ破壊活動を行わせる義号作戦も発動。 熊本から12機の九七式重爆撃機改造輸送機(第3独立飛行隊)が出撃し、うち1機が北飛行場(読谷飛行場)に着陸成功、 搭乗していた隊員と乗員は戦闘を行い合計33機の戦闘機・爆撃機・輸送機が完全撃破されるか被害を受け、アメリカ兵20名が死傷し、 ドラム缶600本分70,000ガロンの航空燃料も爆破焼失するなど飛行場機能に打撃を与え2日間に渡って飛行場を使用不能としたが、戦況を動かすことはなかった。
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600 :名無しさん[]:2018/05/17(木) 16:58:58.89 ID:3mccxbUv - 特攻はこの後、本土決戦準備の航空戦力温存策による作戦機の枯渇もあり減衰していったが、アメリカ海軍が沖縄戦で、特攻により受けた損害は甚大であり、
アメリカ歴史学者の中でも最高の権威者と言われているサミュエル・モリソンは著書で「艦船90隻が撃沈され、または甚大な損害を受けた。 この作戦は、大戦の全期間を通じ、もっとも高価についた海軍作戦となった」と沖縄戦がアメリカ海軍戦史上最大の損害であったと述懐し、 アメリカ軍も公式報告書で「十分な訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が水上艦艇にとって非常に危険であることが沖縄戦で証明された。 終戦時でさえ、日本本土に接近する侵攻部隊に対し、日本空軍が特攻攻撃によって重大な損害を与える能力を有していた事は明白である。」と総括している。 5月25日に、それまで海軍連合艦隊の指揮下で沖縄方面で航空作戦を行ってきた陸軍第6航空軍は、連合艦隊の指揮下を脱した。 その後6月9日をもって沖縄での主作戦を打ち切り、物資投下などの支援のみを行う事となった。 陸軍機は喜屋武陣地上空に毎日のように単機?数機飛来し、第32軍が要望していた対戦車爆雷の資材と15サンチ榴弾の砲弾などを投下していったが第32軍の手に届く量は微々たるものだった。 しかしかすかな希望を断続的に第32軍将兵に与える効果はあったという。
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605 :名無しさん[]:2018/05/17(木) 18:53:09.19 ID:3mccxbUv - 6月5日、アメリカ軍第24軍団が日本軍南部防衛線全線に渡って攻撃してきた。
それを迎え撃つ日本軍は数は30,000名以上いたものの、正規の歩兵戦力はその内の11,000名に過ぎず、 残りは火砲を失った砲兵や通信・整備・設営隊等の支援部隊や沖縄現地召集の防衛隊などであった。 日本軍は戦力不足ながら防衛線各所で善戦し、アメリカ軍を何度も撃退した。 八重瀬岳を守備する独立混成第44旅団は、6月12日までアメリカ軍2個師団を3日間にわたり足止めし、 13日に総攻撃を受け主力は壊滅したが、周囲の洞穴には多数の残存兵がおり、掃討戦が続けられた。 西側の戦線の国吉戦線では、歩兵第32連隊(連隊長北郷格郎大佐)以下1,500名前後の守備隊が、 隣接する眞榮里高地を守備する歩兵第22連隊(連隊長吉田勝大佐)と共に、海兵師団相手に17日まで同丘陵地域を死守している。 丘陵からの激しい射撃により、海兵隊に死傷者が続出13日には140名が死傷し撃退されている。 丘の上では戦車の支援なしには立つこともできないぐらいの激しい日本軍の攻撃だったが、その戦車も速射砲で攻撃され、5日間で21両もの戦車が撃破された。 それでも、アメリカ軍は1両の戦車に歩兵6名と弾薬を積み前線に送りこむ一方で、帰路に死傷者を積んで帰ってくるという強行で攻め続け、 激戦の結果、17日には「馬乗り攻撃」で眞榮里高地の歩兵第22連隊の司令部陣地を爆破、吉田連隊長が戦死、 第32連隊第2大隊も残存兵力26名で大隊長以下突撃し全滅、5日間に渡る激戦の末に丘陵は制圧された。 この間にアメリカ軍の死傷者は1,050名、その中には、日本軍の狙撃で戦死した第22海兵連隊長のハロルド・ロバーツ大佐も含まれていた。
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609 :名無しさん[]:2018/05/17(木) 19:33:26.83 ID:3mccxbUv - アメリカ軍は日本兵や住民に対してビラ800万枚を撒いて投降を促した。
バックナー司令官自らも牛島司令官宛に親書で降伏勧告を行ったが、6月17日に親書を受け取った牛島は一笑に付して拒絶した。 降伏勧告拒絶の翌日である6月18日、バックナーは、牛島からの回答を受け取る間もなく 喜屋武半島の最前線視察中に日本陸軍の野戦重砲兵第1連隊第2大隊の九六式十五糎榴弾砲の砲撃を受け戦死した。 バックナーは第二次世界大戦中アメリカ軍で戦死した最高位の軍人となった。 日本側にとって将官クラスの敵軍部隊最高指揮官を死亡させる大戦果であったものの、アメリカ軍有利の状況には変化はなかった。 バックナーが戦死した6月18日には、第32軍司令部と各部隊との通信が途絶し、 軍としての組織的戦闘が不可能となっており、第32軍司令部は最後の命令を下達している。 命令文は長野参謀が起案したが、長が「諸士よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、 悠久の大義に生くべし」の一項を付け加え、牛島が黙って署名している。その後に大本営と第10方面軍に訣別電報を送った。
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