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名無しさん
旭川市総合スレ Part49

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旭川市総合スレ Part49
84 :名無しさん[]:2018/05/11(金) 18:26:30.82 ID:uTnf1OTE
沖縄戦は1945年3月26日から始まり、主な戦闘は沖縄本島で行われ、
組織的な戦闘は4月2日に開始、6月23日に終了した。
連合国軍の目的は日本本土攻略のためのマリアナの基地と共同体制をとれる
対日本本土爆撃のための航空基地確保と、日本本土進攻の補給基地の確保であった。
日本軍の目的は、大本営(主に日本海軍軍令部)が特別攻撃隊を主力とする航空攻撃により連合国軍に大打撃を与えて、
有利な条件で講和を結ぼうという『一撃講和』を目指していたのに対し、現地の第32軍司令部は
当時想定されていた本土決戦に向けた時間稼ぎの「捨石作戦(持久戦)を意図するという不統一な状況であった。
第32軍はサイパンの戦いなどで失敗した水際防御を避け、
ペリリューの戦い・硫黄島の戦いで行われた内陸部に誘い込んでの持久戦を基本方針として戦い、
特に首里(現・那覇市の一部)北方で激戦となった。海上では大本営の決戦構想に基づき特別攻撃隊を中心とした
日本軍航空部隊が攻撃を繰り返し、戦艦「大和」などの日本海軍残存艦隊による「沖縄特攻」も行われた。

1945年5月末に第32軍の首里司令部は陥落し、日本軍は南部に撤退したが6月下旬までに組織的戦力を失い、
6月23日には牛島司令官らが自決。その後も掃討戦は続き、連合国軍は7月2日に沖縄戦終了を宣言し、
最終的な沖縄守備軍の降伏調印式が行われたのは9月7日である。
旭川市総合スレ Part49
85 :名無しさん[]:2018/05/11(金) 18:27:19.17 ID:uTnf1OTE
陸海空において両陣営の大兵力が投入された。
連合国軍のアメリカ軍側の最高指揮官であった第10軍司令官バックナー中将が日本陸軍の攻撃で戦死するなど、
フィリピンの戦いや硫黄島の戦いと並び太平洋戦域のみならず第二次世界大戦における最激戦地のひとつとなった。
使用された銃弾・砲弾の数は、連合国軍軍側だけで2,716,691発。
このほか、砲弾60,018発と手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が発射された。
地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、「鉄の暴風(英: Typhoon of Steel)」などと表現される。
残された不発弾は、70年を経た2015年でも23トンにものぼり、陸上自衛隊などによる処理が続く。
1トン爆弾も本土復帰の1972年以降だけでも6件見つかっている。

沖縄での両軍及び民間人を合わせた地上戦中の戦没者は20万人とされる。
その内訳は、沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、
沖縄県外出身の正規兵が65,908人、沖縄出身者が122,228人、そのうち94,000人が民間人である。
日本側の負傷者数は不明。アメリカ軍側の死者・行方不明者は20,195人、戦傷者 55,162人
イギリス軍の死者85人でアメリカ軍戦闘外傷病者は26,211人であった。

なお沖縄戦の特徴を表す端的な表現として戦後長らく「国内唯一の地上戦」が使われてきたが、
正確な表現ではないため現在は使われなくなってきている。
交戦時は日本領で日本本国(当時の表現での「内地」)であった北海道占守郡における
「占守島の戦い」や樺太庁全域における「樺太の戦い」があり、
また現在も日本領である東京都硫黄島村(現・小笠原村)の硫黄島における「硫黄島の戦い」もあるからである。
このため2010年、日本政府は国会質問への答弁書をつくる際、
「唯一の地上戦」という認識が「必ずしも正確ではない」と閣議決定している。
旭川市総合スレ Part49
89 :名無しさん[]:2018/05/11(金) 20:07:57.11 ID:uTnf1OTE
1944年(昭和19年)に入りトラック島空襲など連合国軍の太平洋正面での反攻が本格化してくると、
マリアナ諸島などを前線とする絶対国防圏での決戦を構想していた当時の日本軍は、後方拠点として南西諸島の防備に着手した。
1944年2月に日本陸軍は沖縄防衛を担当する第32軍を編成、司令官には渡辺正夫中将が任命された。
もっとも、この時点での第32軍の主任務は飛行場建設であり、奇襲に備えた警備程度の兵力であった。
同年4月には、海軍も沖縄方面根拠地隊を置いたが、
その司令官は九州・沖縄間のシーレーン防衛を任務とする第4海上護衛隊司令官を兼務し、
防衛戦力というより後方組織としての性格が強かった。

日本軍が本格的に沖縄地上戦の準備に取り組んだきっかけは、
1944年7月にアメリカ軍の攻撃を受け絶対国防圏の要であるサイパン島が陥落したことであった。
大本営は、捷二号作戦を立案して沖縄周辺海上での航空決戦を企図するとともに、陸上の第32軍の増強にも着手した。
1944年7月に第32軍の参謀長に就任した 長勇少将は、早速大本営参謀本部に乗り込むと「沖縄本島には5個師団を増強せよ!吾輩の意見を採用せず、
ために沖縄が玉砕するようになれば、参謀本部は全員腹を斬れ」と怪気炎を上げている。
参謀本部も長の要求に応えるかのように1944年7月に沖縄本島に第9師団、
7月末に宮古島に第28師団、8月に第24師団と第62師団を増派、諸砲兵部隊を統括する第5砲兵司令部も配置、
その司令官には砲兵の権威だった和田孝助中将が充てられるなど、
沖縄本島を中心とする南西諸島には4個師団、混成5個旅団、1個砲兵団の合計18万人の大兵力が配置されることとなった。
その中で増援の独立混成第44旅団が乗った軍隊輸送船「富山丸」がアメリカ軍潜水艦に撃沈され、
4,000人近くが死亡、到達したのは約600人という、先行きを不安視させる事件も起きている。
旭川市総合スレ Part49
92 :名無しさん[]:2018/05/11(金) 21:35:31.93 ID:uTnf1OTE
戦力増強が進む中で司令官の渡辺は疲労により持病の胃下垂が悪化、病床につくこととなってしまった。
渡辺の希望により病状は中央に伏せられていたが、病状が一向に回復しなかったため、
長らはやむなく軍中央に渡辺の病状を報告し、
1944年8月11日に陸軍士官学校の校長であった牛島満中将が新たな第32軍司令官として着任した。

第32軍の高級参謀八原博通大佐は充実した戦力で、敵上陸時に主力を機動させての決戦を計画した。
連合国軍の上陸点を小禄、牧港、嘉手納のいずれかと想定、3か所の上陸予想地点にそれぞれ1個師団ずつを配置し、
連合国軍が上陸してきたら、その担当師団が構築した陣地に立て籠もり上陸軍を橋頭堡にて阻止、
その間に2個師団が上陸地点に向けて進軍し集結(移動は敵航空機の攻撃のない夜間)、
上陸2日目の夜に砲兵の全力を結集し橋頭堡の殲滅射撃を実施、
その後歩兵が突撃し上陸軍を粉砕するという作戦を考え、各師団に機動の猛訓練を行わせた。

長は、海際で上陸軍を阻止する強固な陣地構築に必要な鑿岩機20台の支給を要求し、大本営も確約したが、
いつまで待っても鑿岩機が到着しないため、長は大本営や陸軍中央から何らかの要求や連絡があるたびに鑿岩機をしつこく要求し続けた。
その内大本営や陸軍中央では長と言えば鑿岩機が連想されるほど有名となった。


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