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名無しさん@お腹いっぱい。
浮月斎
南京大虐殺はなかった

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南京大虐殺はなかった
582 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2024/04/23(火) 08:02:32.77 ID:/vDCVllU0
>581
>武装解除した上で捕虜として(取ったのに)皆殺ししたらそりゃあかんよ

文章が不完全なので、多少補正を加えて、こういう意味か。

武装解除の前に「降伏」(抵抗する意思のないことの表明)というプロセスがないと、あかんのよ。

「降伏」は、敗残兵側の指揮官が味方(この場合は支那側)に発砲を停止するよう命じ、白旗を挙げて日本軍の指揮官と武装解除を含む「降伏条件」について話し合うことが必要になる。

残念だが、敗残兵となっている時点で、そのような「降伏」の機会は既に失われている。12月9日、数千枚の「降伏勧告文」を南京城の上空から空中散布しているのだから、支那側は、これに応じるべきだった。応じなかったので、戦闘になった。この守勢側の組織的抵抗は12月13日の未明に止んだ。でも、城内には、まだ敵兵が潜んでいるかどうか、日本側から見れば分からない。

最前まで、散々に銃砲を撃ちまくって、味方に被害が出ているのに、目の前で武器を放り出して、「さあ、捕虜にしてください」と言っても通らないのだよ。たとえ武装解除しても、彼らはまたどこかで再編成regroupして、攻撃してくるかもしれない。げんに、南京から逃散した支那兵の多くが、徐州戦に加わっていたという見方もある。

こういう場合、彼ら投降兵を捕虜として扱うかどうかは指揮官の裁量に委ねられている。なお脅威になると考えれば殺してもいいし、身柄を拘束して、どこかに領置してもいい。この時、「軍律会議」をしなくてはならないという国際法上の規定は存在しない。

富山35連隊に抵抗していた敗残兵どもは、民間人の服(便衣)に着かえて安全区の群衆の中に紛れ込んでしまったけどな。だから、「摘発」(兵民分離)が必要になった。

私がこれまで読んだ史料のなかで、白旗が挙がったケースは一度もない(と記憶する)。幕府山要塞で大量の支那兵が投降した際、白旗が挙がったかどうか、うろ覚えで記憶にないから、この時は挙がったかもしれない。ここの部分は、要確認事項として残る。

事実として全員「皆殺し」にしたかどうかは疑問が残る。なぜなら、捕えられた支那兵は戦後の労働力として利用できるからだ。死体処理、倒壊・焼失した家屋の跡片付け、道路の補修、食糧・物資の運搬など、戦闘が終わった後の仕事は山のようにある。相当数が上海に送られ労働力として使役されたという記録もあったように覚えている。「悪質」と判断された連中のみ、刺殺・銃殺されたのだろうと推測する。

私が南京戦について勉強したのは、ずいぶん前のことだから、私自身も再学習が必要なことは認める。「虐殺があった」派の諸君の弱点は、「虐殺の証拠」を提示していないことだ。そんな状態で否定派の主張について重箱の隅をつつくようなことをしても、誰かをバカにしたり、いちゃもん付けをやっても説得力がない。誰もが納得できるような「虐殺の証拠」を提示してくれ給え。
南京大虐殺はなかった
585 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2024/04/23(火) 10:03:38.76 ID:/vDCVllU0
>583
1) 宇和田弥市 歩兵第23連隊第1中隊 上等兵日記(朝日新聞昭和59年8月5日掲載)
・・・らしい。

2) 山本武 第9師団歩兵第36連隊第6中隊 分隊長『一兵士の従軍記録』
風聞するところによると、


3) 永井仁左右回想録(1937年12月14日)
・・・伝聞した。

以上3件は伝聞情報にすぎない。伝聞情報は証拠能力なし。歩66については別途述べる。
南京大虐殺はなかった
587 :浮月斎[]:2024/04/23(火) 13:04:24.30 ID:/vDCVllU0
ゴミ情報ばかりじゃねーか。もっとまともな証拠はねえのか。


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