トップページ > 日本近代史 > 2021年10月28日 > TOh6+nMg0

書き込み順位&時間帯一覧

3 位/22 ID中時間01234567891011121314151617181920212223Total
書き込み数0000000000000000000030003



使用した名前一覧書き込んだスレッド一覧
名無しさん@お腹いっぱい。
【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3

書き込みレス一覧

【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3
494 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2021/10/28(木) 20:46:51.21 ID:TOh6+nMg0
江戸時代の武士の教育を担った藩校について。
藩校はそんなに古くからあったわけではない。
松平定信による寛政の改革あたりから教育熱が高まり、武士の子弟に漢学を
教える学校の設立が盛んになった。
日本における藩校の最初の成功例が熊本細川家の時習館である。
宝暦4年(1754)の設立。時習館の教育が世に名高くなり、他の藩でも寛政の頃
をピークとして設立するところが多くなった。だいたい1790年前後である。
十九世紀になって設立したところも多い。
水戸の弘道館などは天保12年(1841)になってからである。

会津藩の日新館は享和3年(1803)の設立。
教育内容は最初のうちは漢文の素読をするだけだった。
そのうち徐々に漢文の解釈もするようになり、中国の歴史なども学ぶように
なった。優秀な生徒なら、十五歳ぐらいで戦前の高等師範に相当する学力まで
達したといわれる。
ただし、高水準に至ったのは漢学に限った話だった。他は何もない。
一応算術も課目にあったらしいが、それが教えられたかは不明である。
そもそも武士の間では、算術を軽蔑する風潮があったのだという。
東京帝国大学総長になった科学者・山川健次郎は日新館の生徒だったが、
戊辰戦争で中断される十四歳までは授業を受けていた。
しかし、九九を覚えたのはアメリカ留学直前の十七歳のときだったという。
算術が教えられなかったか、誰も勉強しなかったかのどちらかだろう。

日新館には水練のためのプールもあった。これは体育というより武道としての
鍛錬だった。入学は十歳で、千人ほどの子供が学んでいた。
最初は誰でも受け入れたが、入学希望者が多くなり、結局上士の子だけを
受け入れるようになった。

会津藩では伝統的に子供が六歳になると「什」(じゅう)という地域ごとの子供の
グループに入り、年長者から指導を受けた。薩摩のク中のようなものである。
文字もここで年長の子供から教わった。
規律は厳しく、違反すると円くなった座の中央に座らせ、追求を受けた。
一同の前で「無念でありました」と謝罪すれば済む場合もあれば、全員から打擲
されることもあり、最も重い罰が「派切れ」という村八分であった。
年長者の言うことに背いてはなりませぬ、というのが第一の誓いであった。
会津白虎隊の悲劇は、この什の組織のままに戦った結果である。
大人の武士に率いられていたが、途中から行方をくらましてしまった。
その後は年長者が率いた。年長者が切腹と決めれば全員迷わず死ぬほかなかった
のである。
【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3
495 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2021/10/28(木) 20:49:07.88 ID:TOh6+nMg0
明治維新当時、 276藩のうち 215藩が藩校を開設していた。
幕末の争乱の中で制度改革に着手したところもあり、教育内容を変える藩校も
多かったあった。国学(皇学とも言った)を教えるとか、あるいは洋学を教える
ところも出てきた。

藩校は当初8歳ぐらいから15歳ぐらいの子弟を対象にした漢学塾のようなもので
あったが、幕末に近くなると剣術を中心とする教練所の性格を帯びるようになった。
長州藩の藩校明倫館の槍術・剣術道場である有備館は現在も残っている。
pleasure-bit.com/698.html
剣は文久2年から江戸の斉藤弥九郎の神道無念流を藩の公式流派とした。
斉藤道場の高弟たちが萩まで指導に来ていたのである。
他に水戸の弘道館が北辰一刀流であるのは有名である。
年齢も22歳ぐらいまでの者を対象にするようになり、漢学を終えた者に洋学や
西洋兵学などの教育を施した。
例えば山口藩(萩)は藩校明倫館に洋学を取り入れた。下関戦争(1863−64年)で
列強の強さを知ったためである。その後も藩としては尊皇攘夷を唱えながら、
海外から新知識や技術を積極的に導入し、軍備を近代化しようとしていた。
福井藩では安政四年(1857)に藩校明道館内に「洋学所」(洋書習学所)を設け、
洋学と西洋兵学を教えていた。松平春嶽が開明的であったためである。

土佐藩などは、もともと教授館(こうじゅかん)という藩校があったが、時代に対応
した子弟教育をするため、文久2年(1862)、到道館という藩校を設立している。
教育内容は剣術の他、砲術や練兵や貝太鼓といった軍事関係のものが多かった。
actland.jp/contents/kobako/11.html
(リンクされないときはhttp://を頭に付ける)。

明治元年、新政府が今後西洋医学を採用する方針を明らかにすると、藩校の中に
西洋医学校を設立する藩が相次いだ。

藩校は廃藩置県でその存立の基礎を失い、ほとんどは消滅したが、医学校等で
県に引き継がれたものもあった。しかし明治5年8月、「学制」発布に伴い、「従来
府県において取り設けそうろう学校」はすべて廃止する旨の布達があった。
これによって藩校由来の学校のほぼすべてが消滅した。
鹿児島では鹿児島医学校として存続させたが西南戦争で廃校となる。
佐賀の好生館病院など、病院という形で残ったものがいくつかあった。
熊本では時習館設立の翌年、再春館という医学校が設立された。
これは時代的に漢方医を養成するための学校で、幕末に各藩で作られた西洋
医学校とは性格を異にする。
【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3
496 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2021/10/28(木) 20:50:53.61 ID:TOh6+nMg0
18世紀末ごろに作られた藩校は、ほとんどが熊本時習館をモデルにしたものの
ようだ。入学は8歳からで、句読生→習書生→蒙養生(もうようせい) と上に行くごとに
生徒の数は減っている。義務教育じゃないんで、勉強に向いていない子はやめて
いったのだろうか。句読は漢文の白文読み下し方の勉強。昔は自分で返り点などを
打ちながら読み下していったのだ(教科書には直接打たないが)。
習書とは習字のことだが、白文をそのまま書いていったのだろう。先生が読み下した
漢文をそのまま漢文で書けなければいけなかったんだろうと思う。自分の書いたものに
句読点を打つ練習もしたかも知れない。
ともかく、習書の過程で子弟は唐流を仕込まれたということは分かる。
蒙養というのは江戸時代中期に書かれた子供向けの道徳書みたいなもの。
中井竹山という儒者が書いたもので、ベストセラーであった。
明治になっても出版されていた。よほど普及してたようでネットにも写真がたくさん出てくる。
大きな御家流の文字の本である。習字の手本でもあったようだ。
子供はこれで御家流の文字の読み書きを習ったんだろうな。
「一事を行ふにも、親の心に叶はざるかを能々考うべし。僅(わずか)の事も一分(いちぶ、
自分の心)に任す事、必ず之有るべからず候」。
「老人長者と同道の節、必ず其の跡に従ひ申すべく候。仮初(かりそめ)にも先に立つ
べからず候」。

俺が子供だったらこんな勉強をさせられたら続いたかどうか分からない。
落第制度があり、今の小学校とちがって容赦はなかった。
実際だんだんと生徒が集まらなくなり寂れた藩校が多かったようだ。
天保ぐらいから改革が図られ、軍事教練や撃剣に力が入れられるようになると息を
吹き返し、何倍もの規模で営まれるようになった。

藩校の登下校は「連」という地域グループごとにまとまってしていた。
「連」という言葉は西日本でよく使われる。阿波踊りのグループも連という。
昔の武士たちは身分・職分ごとに住む場所が決まっていたから、地域ごと
に連を作れば親たちはほとんどが同僚同士であった。
同じ階層の地域社会に属する少年たちが一つの連でまとまっていた。
初登校の日は句読師などの先生たちが迎えに来て、連の子供たちを引率して
登校したというのが微笑ましい。
今の小学校の入学式のようなもので、子供達は新調の絣の単衣に袴を着け、
腰に小さな二刀を差し、緊張した面持ちで歩いてゆく。
道端の親や祖父母たちも礼装だったろう。母親はこの日のために留袖をあつらえ
丸髷を結い、化粧をした。
少年たちの後ろを親たちが付いてゆく。藩校の門までは行ったのではないか。
一種のイベントのようになっていたと思われる。


※このページは、『2ちゃんねる』の書き込みを基に自動生成したものです。オリジナルはリンク先の2ちゃんねるの書き込みです。
※このサイトでオリジナルの書き込みについては対応できません。
※何か問題のある場合はメールをしてください。対応します。