- 西郷隆盛とは何だったのか 弐 [無断転載禁止]©2ch.net
284 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2017/06/21(水) 22:20:43.61 ID:O9IH4GMn0 - 岩倉使節団が命がけの洋行で、不平等条約の改正を探り、
近代文明の調査に力を尽くしていた頃、 日本に残った西郷隆盛は何をやっていたのでしょうか・・・ 西郷と同じく参議の職にあった大隈重信の証言がある。 「西郷には実に困った。彼は一般の政務には関心なきが如く、 留守内閣では太政官の正院に出頭しても、 ただ板垣(退助)と相対しつまらぬ話に打興じ、やがて家に帰っていた」 明治新政府における西郷の浮き上った、無為無策な姿が目に浮かぶようだ。 「 世間の多くの人は西郷を英雄と言い、豪傑と称しているが、 私は不幸にして、未だに西郷のどこが英雄でどこが豪傑だったのかさっぱり分からない 」 日本史籍協会編『大隈伯昔日譚』二、東京大学出版会、1981年履刻 ただ西郷を「人情があった」とも評しており、>>239のように西郷が下の者に情けをかける姿を大隈も見ているようだ。
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285 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2017/06/21(水) 22:47:02.30 ID:O9IH4GMn0 - 大隈重信は維新三傑にしばしば言及しているが、木戸や大久保を称揚する一方で
西郷については冷評していることが多い。 『大隈伯昔日譚』(明治二十八年)では「政治上の能力は果たして充分なりしや否やという点については、 頗るこれを疑うのである」と語り、そのために壮士輩が談判を迫り、脅迫状が届いたという。 それでも大隈は発言を訂正せず、その後の座談でも西郷の「感化力」は認めながらも批判的である。 しかし最後の筆録となった『大隈侯昔日譚』(大正十一年)にみえる西郷評は同情的な傾きがあり、 木戸・大久保の人物評とあわせて一つの参考になると思う。
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286 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2017/06/21(水) 22:50:18.88 ID:O9IH4GMn0 - 西郷は破壊的で建設ではない。すなわち破壊の勇者で建設は不得手であった。
政治は建設的で破壊は力である。だから長き強き封建を破るという破壊的維新には、 西郷の力与って大いに力があったが、復古で目的を達した後は浪人してあまり政治には関係しなかった。 そのまま猟でもして余生を養ってときどき陛下の御諮問にでもお答えする位にしていたら間違いは無かったんであるが 非常に情に脆い涙弱い人であって、乾兒(こぶん)が沢山あったからついに乾兒に誤られたんである。 勇者は強者には強いが柔に出逢うと溶けるんで、流石の西郷も乾兒どもには弱かったんである。 この情に脆い結果が西郷の徳をして盛んならしたと同時に、一方生涯の過ちを惹起したと察せられるんである。 これは一つには政治家としての性格でもない、軍人としても戦術家ではない。政治家でも軍人でもなし、 一個の自然人で、ただどこまでも忠義一途なんで、国家の為となると、将軍も島津公も眼中にない。 少しも私心無き卓越したる英傑であった。維新前後にはこの種の人が多少は現れたが、古今には甚だ少ないんである。
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287 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2017/06/21(水) 23:12:05.46 ID:O9IH4GMn0 - 上は大隈重信が死んだ83歳の時に語ったという西郷評である
大隈にしては西郷に同情的すぎるのではないかと思われるが、 この本の著者は大隈重信とは別人の新聞記者が書いているので 西郷への配慮と、西郷伝説からの影響(国家のために死んだ云々の美談)が あるのかもしれない 少なくとも大隈は「忠義」「徳」などというワードを褒め言葉として使うようなキャラでななかった と思われる それはともかく、西郷は子分とワンセットで西郷であった、というような内容は 重野安繹 『西郷南洲逸話』と一致している
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