トップページ > 日本近代史 > 2017年01月07日 > QsSUEgWf0

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名無しさん@お腹いっぱい。
侠客の歴史

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侠客の歴史
835 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2017/01/07(土) 21:11:44.05 ID:QsSUEgWf0
さて正月明け最初は、武州田無稲荷の増五郎親分の逸話から始めさせていただきます。

慶応2年の武州一揆の際、暴徒が各地の宿を襲うという報に接して、田無宿の大物名主下田半兵衛も
事態を重く見て念の為、家中の銭を集め、千両箱と小かますに詰めて安全なところへと隠そうと決めた。
小かますは庭の池の中に沈め、千両箱は宿内一の侠客・稲荷様こと増五郎に預けたのである。

幸いにも一揆勢は手前の小川宿北はずれで鎮圧され、田無までには至らなかった。
この報を聞くと、早速増五郎は祝言と共に預かっていた金をそっくり名主の元へ返した。
その際、半兵衛がお礼にと与えようとした金には手をつけず、ただ
「以後、私の取り仕切る博奕場を無礼講としていただきたい」との一言を残して帰って行き、人々その無欲と
正直さを称賛したと言う。
侠客の歴史
836 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2017/01/07(土) 21:16:10.50 ID:QsSUEgWf0
ちなみに、現代に入って今から数十年前、下田家の庭の池からかますに入った小銭が
見つかった。これはまさしく一揆の際に、下田半兵衛が隠した金であろう、
と、前述の楢崎氏は注に書いておられる。
出典は、前にも出したが、「かさもり稲荷雑考―博徒増五郎の背景―」(『田無地方史研究4』、田無地方史研究会、S59年)
侠客の歴史
837 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2017/01/07(土) 21:26:44.43 ID:QsSUEgWf0
ちなみに本論の「談話」には、増五郎のひ孫の語り残しが記録されていて面白い。

父正升が若い頃、奉公に出ていた時分、たまたま八王子で「小金井小次郎」の芝居を見る機会があった。
その芝居には、登場人物として「稲荷の増五郎」も出ていたが、増五郎役の役者があんまり痩せて貧層だったので、父は
「うちのじいちゃんはお相撲みたいにでかかったぞ!」とヤジを飛ばした。
すると「小僧、生意気言うな!」と周囲の客が怒鳴ったが、
「ほんとうさ、俺は増五郎の孫だ!」と返したら、皆黙ってしまった。

この話、私はかなり好きである。
書き忘れたが、上の御論文、著者名は楢崎成直氏。
侠客の歴史
838 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2017/01/07(土) 21:46:12.20 ID:QsSUEgWf0
俗に「上州系三親分」という言葉がある。戸羽山瀚先生によれば下の様な規定に拠る。

 上州系は大前田栄五郎を主体として大場の久八、伊勢古市の丹波屋伝兵衛の三親分を以て構成し、
 関東関西の親分貸元はいずれもこの三親分の内の系統に属す。但し清水の次郎長は半可師より進出したが
 為に右の系統に入らず、専ら独自の途を開拓したので、これを振興渡世人という。

戸羽山氏が根拠にした史料は不明であるが、幕末から明治の初め頃に、このような取り決めがされたのかもしれない。
侠客の歴史
839 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2017/01/07(土) 22:47:12.62 ID:QsSUEgWf0
>>808
ご紹介頂いたご書籍の「荒神山喧嘩考」読みました。
正直、このスレッドに書きこまれる方々の知識が広く、何も知らなかったことが恥ずかしいかぎりです。
この本は本当に興味深い内容ばかりですね。特に神戸の長吉が極めて天晴な侠客であることがよくわかりました。
一行長吉が「日柳燕石」と知己である、という部分、もうちょっと知りたかったのですが
長谷川先生、もう故人なので知りようがなく、残念無念です。

それにしても「ご座れ参ろうの喧嘩」のような事実を知るには、長谷川先生のような聞き書きを
持ってしなければ絶対無理なことですね。こうして文章になって残っただけでも
有り難いことです。

勉強になりました。これからもご教示ください。


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