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名無しさん@お腹いっぱい。
【南京】東中野裁判8【新路口事件】

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【南京】東中野裁判8【新路口事件】
4 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/12/24(土) 01:00:27.77 ID:6p0dbPji0
前スレ>966
>マニラ攻撃の時に、日本軍の指揮官が逃亡して組織的抵抗がない状態だったのかと。

だから国際法学者に喧嘩を売ってどうするのかとw

(2)信夫淳平著『戦時国際法提要』〔1943年〕
乞降の意思の不統制に由る責は我方之を負ふべき筋合でないとして、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

その白旗に我方亦敢て顧念するの要なしと解したい。この見解聊か酷に失するの嫌あらんが、
苟も一人にても抵抗者ある限りは、我兵の安全を犠牲にしてまで攻撃を中止すべき理由あるを知らない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

【南京】東中野裁判8【新路口事件】
8 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/12/24(土) 01:39:26.11 ID:6p0dbPji0
>>5
>『南京事件 増補版』に日記のコピーが載ってるが、達筆な文字が繋がるようにびっしり書かれて
>いて、後で加筆するなんてとても出来ないわw

アホかいw
『南京事件 増補版』は虐殺部分のコピーが1頁貼り付けてあるだけ。
前後の記述は一切不明。
日記のコピーが存在する事が何の意味があるw
いつその日記のコピーが宇和田日記である事が証明されたのかとw

そのコピーを載せた秦郁彦でさえ「昭和史の謎を追う(上)」(1999)の「朝日新聞と都城連隊会の苦い対決」だと、
「なお虐殺風景を書きとどめた宇和田日記の信頼性だが、都城連隊には、たしかに虐殺はあった、と主張する
元兵士(秋吉正行伍長)もいるし、確実と考えてよいと思う。」 と言っていた。
それが実際には「南京事件 増補版」 (2007)では宇和田日記の信頼性として書いていた秋吉伍長の記述をごっそり削ってる。
信頼性はどこへ行ったw
【南京】東中野裁判8【新路口事件】
9 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/12/24(土) 01:44:10.69 ID:6p0dbPji0
>>6
>その信夫氏の見解は投降時について書いているのであって、投降を受け入れた後でも攻撃
>してかまわないとは書いてないんだけどw 日本語読めますか?

ファルージャでは治療までした負傷した非武装の敵兵を攻撃しているんだがw
現実が理解できますか?
【南京】東中野裁判8【新路口事件】
10 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/12/24(土) 01:48:12.12 ID:6p0dbPji0
>>5
ttp://www.history.gr.jp/~nanking/books_bungeishunju875.html
日記の内容を細かく検討することによって、日記の信憑性に多大の疑問があることも分
かってきた。
 例えば昭和12年7月27日の日記に、
 《午后3時、突如師団からの電報により動員下令。将校集合のラッパ。週番司令から各
中隊週番士官に通達された》
 とあるが、一兵士の身で師団から電報がきたことがどうしてわかるのか。
 午後3時とあるが、その時刻には将校は全員在営中で(午後5時まで勤務)、連隊長が
将校全員に直接命令を下すはずだ。
 週番司令は連隊長の帰営後に警備のために勤務するもので、動員令のような重大な
命令を伝達する権限はない。
 また、11月3日から5日にかけての杭州湾上陸の状況も問題である。
 11月4日の日記にはこう書いてあるという。
 《・・・(不明)・・・の命により、軍は上海南方80里の・・・(不明)・・・地区に先ず第5師団
をもって敵前上陸を敢行。F第一線を占領し・・・・・・》
 こういう事実を一兵卒がどうやって知り得たのだろうか。
 私の連隊は第6師団に属していたかなど、中隊長の私でさえ知る由もなかった。
 先述したように、私は昭和49年に歩兵23連隊の戦記編纂の責任者となり、その時初
めて旧日本軍の公刊戦史を見て、第5師団が来ていたことを知ったのである。
 それを一上等兵が、しかも当日の日記に書くことなどあり得ない話ではないか。
【南京】東中野裁判8【新路口事件】
11 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/12/24(土) 01:49:04.05 ID:6p0dbPji0
>>5
次に、翌11月5日の記述に、
 《金山衛城を占領との情報到る》
 とあるが、「金山衛城」なる地名が出てくるのはおかしい。
 この地名を知るには地図が必要だが、地図は中隊に1枚しかなく、わが中隊では私
だけが所持していた。
 こうした不可解な記述は枚挙にいとまがない。
 特に問題の12月15日以降、虐殺の記述に至っては疑問だらけである。
 15日、2千名の中国人が逃げ場を失って現れたというが、その時の部隊配置と湖沼
の多い特殊な地形を考え合わせると、水西門西方2.5キロの警備を突破しない限り、
水西門付近に敵兵が現れることなどあり得ない。
 さらに決定的なことを言えば、宇和田氏の所属していた第1中隊は大隊主力とともに、
12月22日には南京城内に移駐している。
 それなのに、当初の朝日記事によれば、21日以降、"虐殺"の日々が続き、28日には
「人格の陶治とか何とか戦場こそこれがこの良き舞台だと喜んだ我だったが、いまの状
況では全く何事かと思われる」などと書いているという。
 移駐してしまった部隊の兵士が、そこになお留まっているかのように記述しているのは
全くおかしい。
 日記の筆者は誰なのだろう。
 一兵卒でも日記を書く者が皆無であったとは言えない。
 しかし、兵馬倥偬(へいまこうそう)の戦場の中にあって、一兵卒が1日も欠かさず日記
をつけることなど、とうてい考えられない。
 宇和田氏と同じ中隊にいて南京作戦に参加した生存者も、彼が日記を持っていたり、
つけたりしている姿を見たことも聞いたこともないと証言している。

日記の内容はツッコミどころ満載w
【南京】東中野裁判8【新路口事件】
12 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/12/24(土) 02:10:08.37 ID:6p0dbPji0
>>5
宇和田氏の物かどうかは不明だが日記が存在するのは事実。
しかし連隊会が二ヶ所を引用した時には虐殺の記述などなかった。
だが朝日の記事には虐殺の記述がある。
そして『南京事件 増補版』には前後の記述は一切不明でコピーが1頁貼り付けてあるだけ。
虐殺の日付は12月21日になっているが、前後の日付を確認して加筆の有無の確認さえできない。
朝日の記事の元となった日記を確認すれば解決だが朝日は拒否。

コレで信用しろと言う方が無理。
肯定派のやってる事は「第一大隊戦闘詳報」と一緒。
まず最初に自分の信じたい「証拠」(w)があって、多少の(根本的なw)不都合があっても徹底的に無視するだけw
【南京】東中野裁判8【新路口事件】
24 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/12/24(土) 21:31:42.36 ID:6p0dbPji0
21世紀の現代でも戦場の現実はこんなもの。

ttp://geocities.yahoo.co.jp/gl/uruknewsjapan2006/view/20070316/1174045534
イラクに派遣された米軍兵士は、米軍が公式に採用している従軍にさいしての交戦規定で、「危険であると感じる」ならば、いつでも、誰にでも
発砲することが許されている。
当人が危険だと感じさえすれば、正当防衛であるかどうかは関係なく、実際の状況がどうであったかも関係ない。
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拘束されていようが、負傷していようが、意識不明だろうが、一切関係ない。
その場での兵士の判断が優先される。
結果、「正当な戦闘行為」という結論w


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