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名無しさん@お腹いっぱい。
【A級戦犯】近衛文麿・広田弘毅【大政翼賛会】
【真珠湾奇襲】東条英機【知らなかった】
【自衛】大東亜戦争議論スレ【侵略】パート2
【南京】東中野裁判5【新路口事件】

書き込みレス一覧

【A級戦犯】近衛文麿・広田弘毅【大政翼賛会】
210 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/12/18(日) 21:54:35.26 ID:Bpcpc0AE0
明確な法的根拠が無くて、出るとこに出れば相手の言い分を覆すことが可能であっても、
その場の雰囲気とか空気によって道理の通ったことが言い出せない状況ってのは今でもあるよね。

身近なことで言えば、職場におけるサービス残業なんかだってそうだ。

一度空気として「そういうもの」として共有された認識は、「法律ではこうなっている」という正論を
ねじ伏せてしまう強い強制力を持つことが往々にしてある。

当時の日本も、そうした「空気」に支配されていて、今の私たちがある職場において、
「サービス残業なんておかしい」という声を上げにくい空気に支配されてしまったような
状況にあったのかな、とか思ってる。
【真珠湾奇襲】東条英機【知らなかった】
217 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/12/18(日) 22:05:25.39 ID:Bpcpc0AE0
朝鮮や台湾を自国領に組み入れて、満州を実質的に支配下に置き、しまいには支那本土を
傀儡国家化しようとした日本の行動を、「侵略」以外のどの言葉で括ればよいのやら。
【自衛】大東亜戦争議論スレ【侵略】パート2
821 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/12/18(日) 23:02:44.63 ID:Bpcpc0AE0
そもそも岡が佐藤賢了に本当のことを語ったのかどうか、
佐藤賢了の思い出話が正しいのかどうかすら、
検証の対象とすべきだろうね。

負け戦となってしまった大東亜戦争へと日本を持っていった責任は
二人とも強く自覚していたろうから、誰かに責任を転嫁したいという
感情を持っていたって不思議じゃないし、死んでしまった山本五十六に
その責任を負わせようと考えたという推論だって成り立つしね。
【南京】東中野裁判5【新路口事件】
662 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/12/18(日) 23:55:31.80 ID:Bpcpc0AE0
>649
>国際法の無学な者の見解

軍事的常識に無知な国際法学者の意見とやらも同じくらいにどうでも良いよ。

実際にその場に居た軍人が「軍事的必要が無い」と認識しているんだから。

「軍事的に必要があった」と主張する軍事に無知な法学者の発言に何の意味があるんだか(笑)
【南京】東中野裁判5【新路口事件】
663 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/12/18(日) 23:56:02.76 ID:Bpcpc0AE0
>650
興味深いブログの紹介をありがとう。
この資料を調査した人の感想がなかなかに興味深いね。


(5)おわりに
・わが国においては、残念ながら歴史の事実を直視することなく、「嘘」を声高に叫び続ける者がいる。
彼らに対しての闘い方には様々あると思うが、私はとにかく実証的に対応しようとした。
歴史研究はそもそも実証的であることが要請されるが、それだけではなく実証された事実の前に、
「嘘」はいずれ平伏せざるを得ないと思うからである。

・ 今後この軍事郵便は、南京事件の一端を証明する資料として生きていくであろう。
今までの南京事件の研究には、兵站部隊についてのものはなかった。
しかし上海派遣軍、第十軍には多数の兵站部隊が編成されており、その兵士たちも南京事件に関与している。
また軍事郵便に着目したものもない。日中戦争初期においては、おそらく中国人を人間扱いしていなかったためか、
日本軍の残虐行為の記述は検閲を通っている。私たちの前に姿を表していない資料が他にもあるだろう。
今後も南京事件の事実をさらに積み上げていくことは可能であり、それらの事実こそが「嘘」を叫ぶ者たちへの
鉄槌となるはずである。


実に含蓄のある言葉だね。
【南京】東中野裁判5【新路口事件】
664 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/12/18(日) 23:56:37.70 ID:Bpcpc0AE0
>651
>当該部隊が一個中隊(無傷でも130人程度)だけで安全区で328人を一日で摘出してそれを全て埋めたって

それは安全区の掃討作戦が、「まともな戦闘行為」などではなくて、武装した日本軍による非武装の民間人に
対する暴虐行為だったことを裏付けるものだと思うのだけれども。

普通の戦闘だったら130人の兵士がその倍以上の人数の兵士を掃討の最中に拘束することなんて不可能な
ことくらいわかるだろ。
無抵抗の相手を銃で脅して縛り上げたとでも考えなければそんな「戦果」を上げるのは無理だって(笑)
【南京】東中野裁判5【新路口事件】
665 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/12/18(日) 23:57:09.82 ID:Bpcpc0AE0
>652
何を言いたいのかはよく解らんが、日本軍が死体を埋めたはずがないってことを主張したいの?

河に流したという記録もあれば、こういう記事もあるよ。


石松政敏氏の証言 (第二野戦高射砲兵司令部副官)

 西大門という呼称がよくわからないが、、もし、紫金山の天文台へ通ずる門とすれば、太平門ではないかと思う。
太平門には深い壕や地隙があるので、地形上からみて状況が合致するように思う。

「二千の虐殺死体」とかいわれておりますが、門の外側で見ましたのは千にも足らなかったと思います。
一部の死体は人に踏みつけられ、気の毒な状態でしたが、この人たちは、紫金山の戦闘に敗れて城内に逃げ込まうとしたか、
あるいは、城内から脱出しようとしたかは判らないが、太平門まで来てやられたのではありますまいか。

 ここには、門外に深い大きな壕があり、この壕の中に死体が入れられて、土で覆われていました。
門の正面で城壁の曲折部の下方には、一〇〇近い死体が土もかけずにありましたが、これは爆弾を投げられたようでした。

この状況から見まして、戦闘行為による死者であると思います。
門の入口に立っている歩哨に尋ねましたが、ここの戦闘に参加していないのでわからない、と言いました。

 (「証言による『南京戦史』(9) =『偕行』1984年12月号P8)


西浦節三氏の証言 (歩兵第九連隊中隊長)
「十三日右側支隊の紛戦救援のため急派され翌十四日歩九に復帰する途中太平門外を南進するとき
地隙内にかなり多くの中国兵の死体が集められていたのを見た。
しかし、それらは丁重に並べられていたことから紫金山の戦闘で戦死し、後送収容されたものであろう」

(「南京戦史」P164)


佐々木到一「ある軍人の自伝」増補版 歩兵第三十旅団長・陸軍少将
 守将が逃げた後にのこされた支那兵ほどみじめな存在はないのである。
彼らに戦意の程がありや無しやは自明の理であるが、
彼らにはもはや退路がなかったので死にもの狂いに抵抗したのである。

 敗残兵といえども尚部落山間に潜伏して狙撃をつづけるものがいた。
したがって抵抗するもの、従順の態度を失するものは容赦なく即座に殺戮した。
終日各所に銃声がきこえた。

 太平門外の大きな外壕が死骸でうずめられてゆく。

(P329〜P330)



当時の南京にはあちこちに大きな壕があって、そこには戦闘で出た死体が山ほど詰め込まれてたんだって。

当然、掃討の過程で出た捕虜の死体なども同じ要領で放り込んだと考えても何の不思議もないね。


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