- 三島由紀夫事件について語り合おう
14 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/12/06(火) 14:49:13.65 ID:waSUfttB0 - 「最初はご自宅に伺ったんです。『論争ジャーナル』発刊の主旨、論調は当時反主流でした。先生(三島由紀夫)は、
その当時から一つの輝く北斗の星でしたよ。思想的な評論など出していましたからね。例えば、『対話・日本人論』とか、 思想的な評論関係の著作を出していましたから。文学者としてではなく、思想家として見ていましたよ。 小説家三島由紀夫と我々は見てなかったですよ。おそらく誰も。 (中略) あの頃は、慶応で最初の学園紛争がありまして、それから早稲田、日大、明治、東大ってどんどん広がって いったわけです。当時の思想風景というのは、左翼でなければ人にあらずという……。想像できないでしょうが、 そうだったんです。で、やっぱり、そのうちとんでもないことが起きる、と。今見れば漫画みたいになっちゃう かもしれないけど、革命というのを、我々は真剣に危機的に感じていました。そういう時代風潮を押さえて見ないと、 あの頃の行動というのはわからないんですよ。今の、この社会状況から見てたんじゃ」 持丸博(元楯の会初代学生長) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
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15 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/12/06(火) 14:50:11.99 ID:waSUfttB0 - 「あの頃は、全共闘全盛の時代だった。俺は九州生まれで、全共闘の考え方に馴染めなかった。ああ、俺の考えは
世の中に合わないのかな、と思ったよ。 (中略) 学校へ行ってもどうも自分と考えてることが違うなという連中が、我が物顔で歩いている。肉体的には負けないけど、 論争して負けたくないから理論武装したいと思った。 先生の人柄とかに興味津々だったから、たぶん、先生が辟易するくらい質問したよ。根ほり葉ほり訊いたね。 先生は、目が非常に純粋で、僕らのようなひよっこにも丁寧な言葉を使ったし、時間を守る、威張らないし、 そういうことからも魅力を感じた。文豪なんていうそぶりは全然見せなかった。礼儀正しさとか非常に親切心が あるとか、何回かのお付き合いの中で敬意を持つようになった」 仲山徳隆(元楯の会会員) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
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16 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/12/06(火) 14:51:14.50 ID:waSUfttB0 - 「当時、新左翼の運動が広まっていて危機感があった。(中略)
三島先生は、『君が田村君か、さあ座りなさい』とおっしゃり、これが最初の言葉だった。じっと見られた大きな目が キラキラ輝いていて、印象に強く残った。実にあっけない最初だった。 (中略) 体験入隊終了直前、緊張の連続と疲労の極みで胃液を吐きダウンしてしまった。薬を飲まされ、隊舎のベッドで 横になっていると、三島先生がいらしたんです。ベッド脇に座られて『大丈夫か』と声を掛けてくださった。 『幾つになった』と訊かれ、『十八です』と答えると、『そうか、俺は君の親の世代なんだなあ。無理するなよ、 行けるか?』と。先生のあの声は忘れられないですよ」 田村司(元楯の会会員) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
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17 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/12/06(火) 14:51:53.85 ID:waSUfttB0 - 「とにかく入学した前後って、大学紛争が一番大変だった時、最初に入試を受けた時はバリケードがあって
機動隊が出てましたよ。早稲田の文学部は革マル派の本拠地だった。圧倒的に、革命論争だとか新左翼系の話が 主流でした。でも、いわゆる左翼系の議論には違和感があった。どうもちょっとおかしいと。それでいろんなものを 読んでる中で、一番明解に論を展開していたのが三島先生だった。そういう意味じゃ、『論争ジャーナル』に 出て来て論陣を張ったというのは画期的だった。 自衛隊に行こうと思ったのは、当時はマイナーな存在で、どちらかというとマイナスの評価だった。それと規律で 全部縛られている所では自分がないと言われていましたから、本当に徹底してがんじがらめの規制の中で人間が どうであるか、自由でありうるか、それを一回やってみたいと思ったんです」 佐原文東(元楯の会会員) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
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18 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/12/06(火) 14:55:21.90 ID:waSUfttB0 - 「三島先生の『楯の会』は、思想的に自由な所だったというのが大きかったと思います。思想的束縛がありません
でした。会自体すごく幅広い人が入って来ていました。僕なんか、従来型の右翼系の人とは随分違ったと思います。 僕は、三島先生といろいろ話していて、今まで会ってきた人の中であれ程頭のいい人はいなかったですね。 非常に明晰で、クリア。透明なんですよ、透明。なんていうかクリスタルガラスのような、水晶のような、 そんな印象でした。 森田さんは、ともかく明るい人でした。話していて非常に気分のいい人。裏表がない人。そういう意味で 翳のない人だよね。生き方にも翳がないし」 佐原文東(元楯の会会員) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
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19 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/12/06(火) 15:00:03.21 ID:waSUfttB0 - 「三島先生は先駆的な考えをお持ちで、当時、『論争ジャーナル』という雑誌で民兵構想というのを出されて
いました。こういうのは、これから面白いなと思った。つまり自衛隊だけではなくて、民間人が防衛組織の一翼を 担うという構想を出されていた。アメリカでもヨーロッパでもそういう民兵というのはあるわけで、日本だけが そのような民兵組織がなかった。自衛隊自体が、むしろほとんど否定されていたような世の中だったから、 ああいう考え方は非常に新鮮でした。 今でもよく覚えているのは、訓練の時に小銃を持って走るわけですよ。あの時、三島先生は『銃の重さを知ることが 非常に大切なことなんだよ』と語っておられた。よく記憶しています。国を守るということは、銃の重さを身体で 感じることなんだと、理屈ではないんだと。全くその通りだなと思いました。ほとんどの話は忘れてしまったけれど、 これはよく記憶していますね、銃の重さのことは」 イニシャルO、元京都大学生(元楯の会会員) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
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20 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/12/06(火) 15:00:33.36 ID:waSUfttB0 - 「高校一年の時に、文化大革命が起きて、新聞は『文化大革命』礼賛一色ですよ。『毛沢東万歳!』ってすごかった。
ものすごい理想国家のように持ち上げていた。ところが、新聞にちっちゃく記事があって、大陸から香港に逃げて フカに食われて死んじゃう人が何百人もいるのを目撃したって。そんな素晴らしい国ならなんで亡命して逃げて 来るんだ。変じゃないかって、子供心に思っていたわけです。 (中略) 右でも左でもなかった。ところが、昭和四十五年一月頃、早大キャンパスに確か『三島由紀夫と自衛隊に 体験入隊しよう』というタテ看板を見て、俺が求めていたものはこれだと、決心。楯の会という意識はなかった。 自衛隊に行くことが主で入会はついでだった。」 村田春樹(元楯の会会員) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
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21 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/12/06(火) 15:01:03.76 ID:waSUfttB0 - 「そのあと、サロン・ド・クレールで三島先生に会いました。非常にさっぱりした感じだった。どんな本を
読んでいるかと訊かれて、大江健三郎と。その時、先生は大江健三郎の絶版になった本の話をしたんだよ。 『政治少年死す』ていうやつを。読んでないから答えられなかったんだよね。 先生は、なんでこんなヤツが来たんだみたいな顔して、森田さんの方を見た。森田さんは『いやいや、なかなか 元気がいいですから』と言ってくれました。森田さんの一言で、私は救われたようなもんです。そうでなければ、 こんな軟弱な学生が入れるわけないじゃないですか。森田さんて人は、知れば知る程素晴らしい人でしたね。 快活という言葉、一言。」 村田春樹(元楯の会会員) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
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