- なぜ第2次長州征伐で幕府軍は勝てなかったのか2
496 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/11/01(火) 20:00:55.20 ID:j5v3VnSJ0 - >>488
長く書けば反論になるってもんじゃないぜw >艦隊が沈められるだけ じゃ何で高杉の海軍奪取がクリティカルだったんだよ?それと同じこった 薩摩海軍は上陸戦を必ずしも行う必要はない。下関に砲台設置を禁じられている長州船舶を拿捕し、 萩近辺に軍事的重圧をかければ長州藩内で高杉の時と同じことが起きる。 また石州口や小倉口に関しても薩摩海軍が出没することで進撃が困難になる この時期長州藩の財源はかなりの部分通商に依存していたから荷を止めるだけでも大打撃 どっちにしても萩口の実現が決定的なのは間違いない
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498 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/11/01(火) 20:40:56.28 ID:j5v3VnSJ0 - >6月20日過ぎに「負けまくり」で休戦を申し入れる理由がない。
長州藩は19日に水野忠幹率いる新宮藩兵および幕府歩兵隊1個大隊を相手に 山上を占拠して攻撃を加えた。この時点で長州藩は大野奪取を固く決意し勝利を確信していた。 ところが不利な位置に陣取る両軍が前回をはるかに上回る銃撃にも頑強に抵抗し、 長州藩兵に多大な損害が出て20日についに敗退している。 守る紀州藩兵のほうは長州が高所から加える銃撃に対して遺体収容も出来ないほど不利な状態だが、 それでも抜けなかったんだよ。 さらに撤退も困難を極めた。幕府海軍の砲撃を恐れて迂回撤退を行っている。 長州藩はこの戦いで現場指揮官クラスを多く失っており、以後攻勢に出るのが困難となった。 25日に再度攻撃をかけたがまたも撃退されたのは前述の通り。 さらにお前が書いてる通り、芸州藩がこの段階で長州に「何でうちの領内でやるんだ」 とクレームをつけて長州は芸州藩内に押し込むのが難しくなっている。 石州口は津和野の中立で益田までは進んでるが、 それとお前は本荘の交渉が「25日」に開始されていたことを前提とするが、 本荘は「25日より前」に交渉を開始して、それが判明したのが25日なんだよ また本荘はこの後呼び返されるんだが、彼の上申書の内容を見ると 「長州藩内が激徒に固められており、英薩がこれに協力して蒸気船を貸し出したり、 薩摩藩兵が一緒に抗戦している」だとか「西国諸藩や芸州が後備兵を出さす兵糧供給も難儀している」 とか、風聞や幕軍の内情をかなり悲観視して奏上しているのが分かる。 戦闘経過はその補足なんだよ。 彼が「穢兵」の存在を認識していること、またミニエー銃を長州藩兵が全員装備している、 などと語っていることから、芸州口の彦根・高田両藩と維新団の戦闘までは知っていた可能性がある。 とすると、当然小倉口の最初の戦闘での幕軍の内紛も知っていたと思われる。 しかし彼は「佐賀藩、薩摩藩、幕府歩兵」は長州藩に劣らない装備を持っていると認識している。 これを書いた状況からして、おそらく彼は芸州口の新宮藩兵の装備を知らない。 あと「フランスに30隻ほど汽船を借りてくれば絶対に勝てる」などとたわけたことを言っていて、 べつに「敗戦」を予想して停戦交渉を始めたわけではなく 本荘は現地で見聞した内情によって「いまの前線部隊では」勝算なしと判断して、 幕軍を強化して大規模攻勢をかけるほかなし、さもなくば停戦をと要請しているんだよ。 つまり彼は戦闘経過を見てこれを書いたのではなく、開戦前夜の状況からほぼ継続して 交渉を開始してるんだわ。
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499 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/11/01(火) 20:43:09.42 ID:j5v3VnSJ0 - なお本荘は彼自身「浅見にて」と断っており、戦闘経過や幕軍の内情は後付けに過ぎず、
彼自身の意見が先にあったことは明らか。
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500 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/11/01(火) 20:51:24.50 ID:j5v3VnSJ0 - >>496
>連合艦隊の上陸した部隊は砲台を破壊したら、即座に撤退して沖に逃げているが? >長州はそれを修復して砲撃をやり返している。 だってもともと砲台破壊が目的だものw 砲撃をやり返すって、いつの攘夷戦争の話してんだ? しかも下関条約で砲台撤去を約束しちゃったから長州戦争の時も桂がイギリスにお伺い立ててる有様だろう。 イギリスは許さなかったけどね >>497 おやおや、幕長戦争の長州側の最大の強みは下関の流通が止まったからと言う家近説を頭から否定していたのに、 今になって「関門海峡を止めたら大坂が大騒ぎになって戦争継続不可能」ですか。 お前ら本当に都合の良い所で他説を引用するね。 薩摩海軍は日本海岸に艦砲射撃を加えるだけで充分軍事的重圧を加えられる。 また薩摩藩の参加で主攻である萩口が実現した場合、体面上も紀州、熊本の撤退はなくなる。 さらに関門海峡を渡海攻撃していた長州海軍は、薩摩海軍と幕府海軍の挟撃にあったら一瞬で制海権を失う。
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501 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/11/01(火) 20:58:54.43 ID:j5v3VnSJ0 - >>496
>石見方面で攻勢に出られないだけで、他の方面の戦闘結果は変わらんよ。 >大島も奪還されるし、芸州方面も大敗して逃げ散って、何とか防いでいる状態。 >小倉も大島の援軍が着たら、詰みだな。史実どおりに進む。 >石見方面の戦闘がないだけ。 面倒だからお前の言い分で反論してやろう。 石州口の惨敗が本荘の交渉に影響を与えたと主張しているんだから、 石州口で攻勢に出られなくなっただけで停戦の必要性は半減するじゃんか。 芸州口では紀州と幕府歩兵が長州藩を返り討ちにしてるんだし。 それと小倉に関しては上述の通り、退守していた幕府海軍が薩摩海軍の回航で出てくるから、 こちらも関門海峡にまず出てこれない。さらに石州口の兵力が萩に釘付けになるから、 史実では石州口から徐々に回ってきた余剰兵力が7月以降攻勢に出るのも困難になる。 >軍の質に大差はない、なら当時の輸送力の上陸戦になる。 かなり差がある。長州藩兵と薩摩藩兵の動員力だけでも比較してみるといい 薩摩藩は軽く数千は動かせる。戦時体制でもその程度の長州藩のほうが財政的に干上がるよ。
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502 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/11/01(火) 21:06:05.32 ID:j5v3VnSJ0 - ×>>496
○>>488 >>490 >小倉方面は第二奇兵隊、つまり大島を奪還した部隊が回っている。 >石見方面の軍は岩国に回っている。つまり小倉陥落は変わらん。 だからそれは主攻の萩口が存在しないと言う前提で組み立てられた作戦だからだろ。 薩摩が参戦しないと言う言質を与えてるんだから。 石州口の軍を岩国に回せたから第二奇兵隊が小倉にいられたんだよ。 薩摩海軍が萩の沖合から関門海峡近辺まで遊弋するような状況では兵力の配置が一気に変わってくる さらに何度も繰り返すけど、大手軍である萩口が実現したら、熊本藩は勝手に撤兵できなくなる。 小倉が陥落したのは熊本藩が終始非協力的で、さらに解兵したことが決定的要因なんだから
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504 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/11/01(火) 21:30:09.66 ID:j5v3VnSJ0 - >>だから小郡宰判の兵が「志願兵制」であるはずの奇兵隊でたちまち殺されてるんだよ
>そういえばこれ初耳なんだがw有名って誰が言っているんだ? >部落民だから処刑されたとか言っているが。そんなケースは存在しないよ。奇兵隊にはね。 >命令を無視して勝手に隊から離れた奴が処刑されたケースはあったが。まさかその事じゃあるまい? 存在する。小郡宰判や幕長戦争の時の私刑は奇兵隊日記にも書いてある。 無許可離隊が処刑されるのは当然で、そんなケースをわざわざ研究者は取り上げたりしない。 長州の部落解放史で30年くらい前には少なくとも確認されてるし、 それこそ遠山や田中彰の時代から普通に被差別部落民への長州藩の待遇は記されている。 知らないのが信じられない。 >>それは粛清の際の口実ね。被差別民出身諸隊は在地を離れたものは強制解散されられている。 >口 >>志願さえすれば自由に身分移動を許されるわけだから、士分からなる藩権力にとっては異常事態 >は?身分移動なんてないよ。何言っているの? ある。非常民は選抜入隊制(定数制限あり)だったが入隊した時は平民取立、苗字帯刀も許されてる。 自分で書いていたことを良く思い出せよ。被差別民、非常民は刑吏邏卒の役割をしてたんだろ。 それが在地を離れて勝手に志願してそれを認めたらどうなるんだ。 非常民を集落ごと管理することが不可能になり、つまり非常民と言う身分そのものが事実上消滅する。 それはどういうことか。良民と非常民が一緒くたに扱われることになる。 となると非常民を良民の監視に当たらせる藩構造が不可能になるばかりか、 良民出身の兵が差別撤廃に強く抵抗する。実際、解放令を出すのが難しかったのはこれがあるから。 だから長州藩は藩が身分移動を許可した兵(弾左衛門と同じく限られた階層だね)のみ入隊を許可し、 それ以外の在地の移動を認めていない。「穢兵」を藩が認めることなどあり得ない。
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505 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/11/01(火) 21:49:44.66 ID:j5v3VnSJ0 - 上関茶筅隊で「金作」をはじめとする茶筅を第二奇兵隊が逮捕した一件は、
「金作」が大野を出奔した=在地を離れた人物であり、 さらに他の被差別部落諸隊とは明らかに違う隊中規則を定めたりしたことが藩の警戒感を買ったもので、 新撰組への入隊志願歴は後付けの理由に過ぎない。ましてや「敵との通謀」に至っては完全に事実無根。 そもそも入隊を志願したかどうかも実際には分かっていない。 残っているのは金作の自白だけだが、彼は取調中に恐らく拷問を受けて自殺している。 そもそも慶応元年の結成時点で金作の上方出奔履歴は知られていながら隊結成が許可されているのに、 慶応2年3月に至って突然逮捕されると言うのがおかしいし、茶筅隊の具体的な通敵行動もない。 普通に吉見隊へ付属させられて訓練に励んでいるが、外敵との通謀の兆候など一切ない。 ではなぜ慶応2年段階で粛清の対象になったかと言えば、 慶応軍制改革の結果、諸隊を藩が再編統一する過程で中央集権性が重視されたからに他ならない。 独自の隊規を有する茶筅隊は真っ先に目を付けられたと言うのがいまの有力な見解。 茶筅隊の解散と維新団の結成はほぼ時期を前後しているが、 維新団の隊規を見ると明らかに茶筅隊と異なり、隊士が「分限を弁えること」を強調している。 これは官製の被差別民諸隊に共通する隊規の傾向。
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506 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/11/01(火) 21:54:45.34 ID:j5v3VnSJ0 - 論者によっては維新団が前線に出される確率が異常に高かったことを
「忠誠心を試す意図があった」と見て、維新団が士分取立を辞退したのは この茶筅隊の粛清で隊士たちが警戒したと言う説もあるくらいだよ。 つまり士分取立にうっかり賛成してしまうと、茶筅隊と同様に粛清の対象になりかねないと。 実際、井上も維新団が辞退するのを見越して士分取立を言っている可能性が強い。 脅迫したのか、経済的実利のほうを選ぶだろうと思っていたのかは定かではないけどね
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507 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/11/01(火) 22:02:57.93 ID:j5v3VnSJ0 - 長州藩ではこれ以前にも領民(士分も含む)による非常民の集団リンチ殺人が多発してるから、
維新団側も、士分取立とは言っても生活保障や事後のリンチを警戒したのかも知れない。 ちなみにこの時期、幕府も弾左衛門に命じて長州戦争での人足差出をさせているが、 まず前線で戦わせるような危険なことはさせてないし、家族の生活保障にも応じている。 幕府が人権を尊重したわけじゃなくて、一応、非常民は幕府が委託した業務を行うお役人的側面もあり、 皮革業は軍需物資調達の面でも貴重だから、無茶はさせられなかったのね。 維新団が前線に出されたのは確かに異常。 あとはなんだ、下関条約か。それもとっくに反論が出てるんで後で書こう。
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508 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/11/01(火) 22:14:57.09 ID:j5v3VnSJ0 - >>491
お前の書いてることはぜんぶ主観じゃないか。 「公認制だよ」「いや追認だ」どっちも許可制には変わりない 酷いのは、最初から隊設立を許可しなければいいのに許可した後に 藩の内情で茶筅隊みたいにどんどん潰していくんだよ 被差別部落民の組織は実は俗論派が慶応元年初めから開始して諸隊討伐に当たらせようとしてるんだよ この段階では当然、藩の「命令」ね。
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509 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/11/01(火) 22:20:40.79 ID:j5v3VnSJ0 - で、正義党政権はそれをそっくり戴いた。ところが慶応2年段階になって突然粛清を始めてる
>>493 と言うかお前、金作の口供(それも拷問に耐えかねて自殺)しか残ってないのに、 なぜ無実じゃないとか分かるんだよ。金作と新撰組の関係を断定できたものなんてないよ それと長州藩でその前に良民による被差別民のリンチ殺人がたびたび発生していることをどう説明する? 確かに被差別民は「家業」を独占した状態で、良民とは別建ての人たちだったことは確かだが、 社会的差別が厳然として残っていたのは事実なんだが。 何で全国で最も優遇された大富豪の非常民である弾左衛門が「身分取立、醜名除去」を強く要請しているのか お前はちゃんと説明すべきだな。 だったら解放令なんて出す必要はないじゃん。
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510 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/11/01(火) 22:30:50.79 ID:j5v3VnSJ0 - >>494
長州が下関条約でどう突っぱねてる? 高杉が租借を拒絶したなんて話は伊藤の回顧録に出てくるだけで、 サトウの記録には一切出てこない。 長州が下関開港を勝手に認め、砲台撤去に応じ、償金支払の約束まで応じたのは アヘン戦争の諸条項と全く同じだぞ。 しかし幸いなことに、米蘭仏はオールコックと異なり、問題への深入りに消極的だった 幕府はそこを衝いて交渉を重ね、事後に「賠償」ではなく「友好関係維持のための補償」 とすることに成功し、同時に長州への懲罰は「大君政府の職務」として勝手な長州攻撃や開港の強要を禁じている。 償金も6回ローンで3回分の支払は慶応2年までに滞りなく済ませている。 明治政府になってからのほうが支払に時間がかかってる 幕府の開港交渉は長州戦争とはスレ違いになるが、 幕府は「開港拒絶→落としどころを探る→最終的には開港を許可した上で商業範囲を限定する」 と言う限定開国を目指してたことは明らか。交渉の主眼は開港の是非でなく開港条件。 ところが内情を知らない尊攘激派には「幕府が譲歩した」と見えたと言うのが実情。 薩摩藩なんかは阿部からこれを伝えられてる
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512 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/11/01(火) 22:40:14.03 ID:j5v3VnSJ0 - >>495
>宮内を迂回攻撃されて大野からも撤退してる。 それいつの話だ? もともと幕軍が「出張っていた」前線が大野で、総督辞任騒動が起きてからは大野を放棄してるよ 7月末からの攻勢では幕軍は宮内を通過してるし
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513 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/11/01(火) 22:40:58.11 ID:j5v3VnSJ0 - >>511
アヘン戦争と同じと言われるのは下関条約のほうだよ。租借がないだけで。
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514 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/11/01(火) 22:44:37.65 ID:j5v3VnSJ0 - 何か反論このくらいかね。拍子抜けだわ。
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515 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/11/01(火) 23:08:59.30 ID:j5v3VnSJ0 - ちなみに幕府の施策が従来言われていたように幕府による貿易独占を目指してはいなかったこと、
諸藩との情報共有もそれなりになされていたこと、開港条件に際してもかなり粘っていることは、 今日学界ではほぼ周知なんだがお前らどこの大学?
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