- 高杉晋作
817 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/11/01(火) 18:40:13.48 ID:gs9uEDmk0 - >>815
お前ばか?生麦事件は日本の慣習を知らずに乗馬で諸侯の行列を突っ切り さらに藩父の駕籠のすぐ近くまで乗り入れてきた英国人に第一の非がある 薩摩藩の奈良原以下がこれを切り捨てたのは自救行為に限りなく近い行為 その上に薩摩藩士はいきなり切り捨てたのではなく、何度も下馬を促している (日本語を解さないのに日本法が適用される地域をうろついてたのは英国人の過失) ある程度順序を踏んだ上で斬ってるんだよ。長州藩のような無差別無警告発砲じゃない また生麦事件の場合は久光は既に大名行列妨害を禁ずるよう幕府に苦情を申し入れているが、 幕府としても久光の請願を却下する理由がなく、自重を求めたに過ぎない 事前に幕府と薩摩はある程度意思疎通を経た上で、あの事件が起きてるんだよ これは確かに幕府が仲裁する責任がある(事後に薩摩が非協力的だったのは確かだが) ニール代理公使と幕府の交渉では英国人の過失を前提として 「幕府の英国人居留民への通知義務違反」が問題となり、これに賠償金を支払っている つまり薩摩藩は手続を一応踏んでいるから、何が過失なのかと言う幕英間の交渉がスムーズだったわけ さらに言えば、幕府は勅使の通行を通達しており、 事前に各国居留民は万一を慮って慎重な態度を取った。米国のヴァンリードが下馬しておりこれに薩摩藩は危害を加えていない だからリチャードソン以下の行動についてはサトウらも「双方の」不幸な過失としか記していない 大名行列に突入した英国人と異なり、当時の慣習でも明らかに違法である民間船への無差別無警告発砲と言う暴挙に出た長州と、 薩摩では事前事後の行動でまったく責任感が異なる。
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- 高杉晋作
818 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/11/01(火) 18:50:42.07 ID:gs9uEDmk0 - >>815
薩英戦争の始末に関しても、薩摩は馬関戦争の講和条件のように償金の性格を曖昧にしたり、 鹿児島への寄港を容認したり、 砲台撤去などと言う一地域の武装解除に等しい条件には一切応じていない (一方、高杉の講和交渉ではこれらをあっさり認めてしまったため、 オールコックは「償金は賠償金である」として多額の請求を吹っ掛け、下関の自由港化を迫ることになった) とんでもない講和条件に幕閣は長州に激怒したが、ここで幕府が目を付けたのが四カ国の英国以外の3か国。 蘭仏米は問題に深入りするのを避けたがっており、海峡の安全と戦費の保証で充分と言う立場だった 幕府はここを執拗に突くことでオールコックの要求に対する他国の不同意を引出し、 「懲罰権は大君政府にある=列強が長州に勝手に報復を行うことを禁ずる」 「償金の性格は友好のために支払うもの=損害賠償的性格を否定=支払延滞の場合のペナルティ義務化が明文化されず」 と言う恐ろしく有利な条件で纏めてる。実際、幕府は1回支払を延期したが何もクレームがついていない 長州と幕府の外交能力はこの一事を取っても歴然としている。
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- 高杉晋作
819 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/11/01(火) 19:07:30.95 ID:gs9uEDmk0 - だから薩英戦争に関しては英国本国でもキューパーを非難する論調が多かったが、
(しかも結果的に英国艦隊は戦闘では引き分け〜敗北に近い状態に陥った) 長州への報復攻撃に関してはこれを非難する声は列強のメディアや人士でもほとんどない >江戸幕府や会津藩や新撰組は安政の大獄や不平等条約の責任を何ら取らず無理強いしたままコソコソ逃げ出しただけだが、 >薩長政府は破約攘夷(条約改正)まで完全にやり遂げてちゃんと責任を果たしてるんだからさ。 >江戸幕府が支払うべきであった賠償金も、結局、薩長政府が完済してるんだからさ。 アメリカは1回受領した後で78万ドル返してくれてるけどね>明治政府 それと江戸幕府が纏めた協定では「四半期ごとに50万ドル、6回の分割支払」なので、 慶応元年7月から支払が始まり、遅れがちではあったが第4回の支払を明治2年とすることで合意が出来ていた つまり幕府は第3回までに半額を支払っている計算になる。その前に幕府が崩壊したんだから、明治政府が引き継ぐのは当然 では明治政府の支払のペースはと言えば、幕府よりはるかに遅い。 明治7年完済だから、わずか8か月で半額を返済した幕府の10倍近く遅い計算になる それと江戸幕府が支払う約束をしたのは「賠償金」ではなく「友好関係を維持するための補償」と言う性格だから、 米国が償金を返還する時も返す名目が立った。
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- 高杉晋作
820 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/11/01(火) 19:30:20.11 ID:gs9uEDmk0 - あと条約改正に関して言えば日英通商航海条約が明治27年。
関税自主権回復に関しては日露戦争後の明治39年の日露間の同条約で、 完全回復は明治44年の小村条約以下。 さんざん失敗した交渉が成功したのは、英国の極東政策をめぐる政治的思惑があったのは周知の事実 ちなみに日英条約の時の第2次伊藤内閣の経済通商関連の主要閣僚を見ると 外相は陸奥、渡辺財相は信州高島藩出身、農商務相は榎本武揚と「非薩長」で占められている。 陸相は大山、海相は西郷、担当相の法相は芳川(非藩閥、徳島藩)、文相は直前まで井上毅(熊本藩) 逓信相は黒田で、長州出身者がポストを抑えていたのは総理の伊藤、内務の井上のみ。 既にこの段階では「薩長政府」ではない。 もともと新政府は実務レベルを見たら「薩長政府」なんて言える実態は存在していないんだけどね 既に議会開設後であり「閥末」と言われた時期の撤廃。 ちなみに第2次伊藤内閣には最終的に政党人の板垣が内相と言う枢要ポストで入閣している。
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- 高杉晋作
821 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/11/01(火) 19:46:52.62 ID:gs9uEDmk0 - また長州はこの時、砲台の撤去を受け入れてしまったため、長州戦争で大変なことになった。
第2次征長戦の前年の閏5月に桂が下関でパークスと会談し、 馬関条約で砲台への重砲設置が禁じられていることを持ち出して砲台撤去の緩和を求めているが、 イギリス側に却下されている。
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