- 戦前の学者・学界の歴史
35 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/10/27(木) 15:01:03.37 ID:H744ocGp0 - 明治20年代の帝国大学理科大学には数学科、物理学科、星学科があった。
学生数は今よりもずっと少なく、また講義は英語で行われた。 数学の教授は菊池大麓(日本初の西洋式数学者)と、その教え子の藤澤利喜太郎。 物理学は山川健次郎と長岡半太郎、天文学は寺尾寿(東京天文台初代所長)が教授した。 菊池大麓はイギリス派で幾何学、藤澤利喜太郎はドイツ派で解析学(関数論)を担当。 藤澤のドイツ留学には外科学の佐藤三吉と内科学の青山胤通も同行している。 日本にメートル法を普及させた地球物理学者の田中舘愛橘は藤澤の同期生。
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36 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/10/27(木) 15:38:01.11 ID:H744ocGp0 - 明治時代の数学教育には菊池大麓→藤澤利喜太郎の本流とは別に
関口開(ひらく)→北條時敬(ときゆき)・河合十太郎の傍流があった。 関口開は金沢の教育者で、和算家の末裔。 本人は独学により西洋式数学を修得し、ベストセラーとなる数学書を上梓した。 北條時敬は後に東北帝国大学総長、学習院院長を歴任する人物。 学生時代の西田幾多郎に、哲学者ではなく数学者になるよう勧めたことで知られる。 河合十太郎は北條時敬の同門で、高木貞治に感銘を与え数学者を志させた人物としてよく言及される。 高木貞治は日本人として初めてフィールズ賞の選考委員に任命された国際派の数学者。 帝国大学理科大学に進学して菊池大麓と藤澤利喜太郎の指導を受け、 ドイツのゲッティンゲン大学に留学してヒルベルトに師事した。 この高木貞治の代に日本の和算と西洋式数学の流れが統合したといわれる。
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37 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/10/27(木) 15:59:55.57 ID:H744ocGp0 - 明治初期の中等教育では、どの教科書も未刊だったので洋書の翻訳が教本に用いられた。
トドハンターの代数学、ウィルソンの幾何学、 ロスコーの無機化学、スチュアートの物理学、 パーレーの万国史、スウィントンの万国史、ミッチェルの万国地理、 ウェイランドの経済学・倫理学は特に知られている。 いずれも原著者はイギリス人かアメリカ人であり、 後にドイツの影響が濃厚となる数学、化学、歴史学でもこの時点では予兆はない。 しばらくすると帝国大学の学者による入門書の本が書かれるようになり、 これが最初期の日本語の教科書となった。 理系では飯島魁の動物学、三好学の植物学、寺尾寿の算術、菊池大麓の代数学が知られる。
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38 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/10/27(木) 16:20:42.31 ID:H744ocGp0 - 高木貞治は明治30年7月に帝国大学理科大学を卒業した。
美濃部達吉(法学者)、志賀潔(医学者)、上田敏(文学者)も同年の卒業生。 帝国大学総長は浜尾新(学者ではなく文部省の官僚)、内閣総理大臣は松方正義。 卒業式には浜尾、松方の他に明治天皇も来賓として出席した。 高木貞治のその後のドイツ留学には駒場農学校の時重初熊が同行した。 時重初熊は日本の獣医学の祖と呼ばれる。 帝国大学は英国に倣って9月を始業、7月を終業とする。 修業年限は3年間で、医科大学のみ4年間。 優等生は卒業後に留学という名の海外旅行が約束される。 分科大学の長を学長と呼び、帝国大学の長を総長と呼ぶ。
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39 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/10/27(木) 16:49:20.71 ID:H744ocGp0 - 菊池大麓は箕作秋坪の実子、緒方洪庵の弟子。
箕作秋坪は明六社の会員で福沢諭吉の同胞。 専修学校初代校長の相馬永胤は福沢とともに友人。 子は菊池大麓(次男)の他に箕作佳吉(三男)が有名。 箕作佳吉は帝国大学理科大学で最初の動物学者。 なお、フランス法学者で和仏法律学校初代校長の箕作麟祥は 妻の連れ子であって実子ではない。 菊池大麓は慶應2年(1866年)に若干11歳の最年少でイギリス留学に出発。 明六社の中村正直に加え、外山正一(後の帝国大学総長)、林董(外交官)が同船。 林董は帝国陸軍初代軍医総監の松本良順の実弟でもある。 松本良順と林董の父は順天堂の創設者である佐藤泰然。 菊池大麓はイギリスではケンブリッジ大学のトドハンターに学び、 これを通じて日本にトドハンターの代数学が紹介された。 帰国後は東京帝国大学総長のほか、京都帝国大学総長、学習院院長を歴任。 桂太郎内閣では文部大臣として入閣。
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40 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/10/27(木) 17:26:26.90 ID:H744ocGp0 - 明治維新から日露戦争までの帝国大学総長は、
加藤弘之、外山正一、渡辺洪基、浜尾新、菊池大麓、山川健次郎の6人。 加藤弘之、外山正一、浜尾新、山川健次郎は期を跨いで再任されている。 日露戦争後の1905年〜1920年も浜尾新(〜1912年)と山川健次郎(〜1920年)の2人のみ。 加藤弘之は政治思想家、外山正一は社会学者でスペンサーの紹介者、 渡辺洪基は元東京府知事の官僚で工手学校(工学院)の創設者、浜尾新は文部省の官僚、 菊池大麓は数学者、山川健次郎は物理学者。 明治時代には社会科学が優位、大正時代には自然科学が優位という帝国学士院の構図はここにも見られる。 外山正一、浜尾新、菊池大麓は文部大臣にも就任している。
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41 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/10/27(木) 18:08:40.23 ID:H744ocGp0 - 明治34年(1901)〜大正2年(1913)の桂園時代の文部大臣は、
菊池大麓、久保田譲、牧野伸顕、小松原英太郎、長谷場純孝、柴田家門。 ただし、兼任の者(いずれも3ヶ月未満で辞任)は含まない。 内閣自体が短命だった第三次桂内閣の柴田家門を除き、 全員が満1年以上の任期を務めている。 菊池大麓は第一次桂内閣の文部大臣。 久保田譲(文部省)も同じく第一次桂内閣で入閣。日露戦争後の戸水事件で引責辞任。 牧野伸顕は第一次西園寺内閣。大使の出身であり、後に外務大臣に転じる。 小松原英太郎は第二次桂内閣。皇典講究所(國學院)と拓殖大学の長。 皇典講究所は伝統的に総裁に皇族、所長に国務大臣を戴くことになっている。 拓殖大学は初代学長が桂太郎、二代目が小松原英太郎、三代目が後藤新平であり、こちらも政界との関係が濃厚。 長谷場純孝は第二次西園寺内閣。鹿児島の出身で立憲政友会の領袖の一人。 柴田家門は第三次桂内閣。短命内閣のため実績を残さず辞任。 戦前には学者が文部大臣を務めることが多かったが、 桂園時代については菊池大麓の他は文部省や他省の官僚、あるいは純粋な政治家である。
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- 戦前の学者・学界の歴史
42 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/10/27(木) 18:30:58.54 ID:H744ocGp0 - 戸水事件は日露戦争の主戦論を唱えた帝国大学教授が解任されたもの。
七博士は戸水寛人(民法学者)、富井政章(フランス法学者)、 小野塚喜平次(政治学者)、金井延(社会政策学会の経済学者)、 高橋作衛(国際法学者)、寺尾亨(国際法学者)、学習院の中村進午(国際法学者)。 小野塚喜平次は後に東京帝国大学総長。 金井延はドイツ留学の経験がありシュモラーとワーグナーの直弟子。 寺尾亨は天文学者の寺尾寿の実弟。来日中の孫文の友人。 辛亥革命の際には頭山満、犬養毅とともに顧問官として招聘される。 当時は第一次桂内閣で文部大臣は久保田譲。帝国大学総長は山川健次郎。 山川健次郎の辞任に発展したため戸水は復職が認められ、 帝国大学総長は松井直吉(帝国大学農科大学学長)、浜尾新が後任となる。
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- 【習志野学校】日本軍の化学・生物兵器【731部隊】
82 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/10/27(木) 19:09:30.73 ID:H744ocGp0 - 石井四郎の嫁の父は京都帝国大学総長(七代目)で医学者の荒木寅三郎。
石井四郎も京都帝国大学の出身で、吉村昭の『蚤と爆弾』では、 官職を独占する東京帝国大学出身者への僻みが石井四郎を暴挙に趨らせたという。
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43 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/10/27(木) 19:42:48.15 ID:H744ocGp0 - 戦前の学習院院長は17人おり、公家、軍人、科学者・数学者のいずれかである。
社会科学・人文科学の研究者は一人も就任していない。 菊池大麓、山口鋭之助、北条時敬、荒木寅三郎の4人が学者の出身となる。 山口鋭之助は教科書を執筆した物理学者。 荒木寅三郎は京都帝国大学総長でもあった医学者で、 関東軍防疫給水部の石井四郎の嫁の父でもある。 菊池大麓も京都帝国大学総長だったことがある。 東京帝国大学、京都帝国大学、学習院の全ての総長となったのは菊池大麓が唯一。 軍人としては大鳥圭介、乃木希典らが学習院院長となっている。 公家の岩倉具視の実子も一年だけ院長となっている。 戦後の学習院は哲学者の安倍能成(1946-1966)をはじめ文系の学者が院長の座を占める。 外交官や経営者も就任しているが、理系の学者が就任したことはない。
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