- 龍馬暗殺の黒幕5
837 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/10/14(金) 06:48:43.91 ID:zgQvg81Y0 - 例えば、>>829のように根拠のない私論を書く人もいるのだから、
書くこと自体は自由。ただ、松平容保を犯人じゃないと言い張る人の論理はいつもこのように曲がっている。 土佐は山内容堂が徳川慶喜や会津・桑名の排斥について弁護していますが、土佐藩兵は京都守護職及び京都所司代の軍を朝廷から追い出し、 代わりに自軍を駐屯させております。 松平慶永公も慶喜召集は主張したものの、辞官納地の確約を実行させることについては異論はありませんでした。 >旧幕派排斥の考えは、あくまで薩長側の公家の意見が多数なだけで、小御所会議全体が賛同の意志を示した訳ではありませんよ このような、自分に都合の良いところを繋ぎ併せて常識と異なる結論を書く人が、いわゆる「佐幕派」と呼ばれていることに、私は怒りが止まらないのですよ。
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- 龍馬暗殺の黒幕5
838 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/10/14(金) 07:05:58.65 ID:zgQvg81Y0 - >>833
会津は犯人じゃない、という決め付けが小説家を中心に根拠もなく語られ、研究者は迷惑しています。 近年の研究では実行犯は見廻組で決定的、命令者も松平容保及びその周辺が限りなく濃い。 実行者が見廻組である以上、上司が命令を出したことは明らかです。 名目上だけでこの後すぐ辞任してしまう見廻役の小笠原ならともかく、 少なくとも上司が事件を知らず、部下が外部の敵対勢力の命令を受けていただなんて小説家の説では、旧幕府自体の存在意義がないわけです。 しかも見廻組はその後も旧幕府に忠誠を尽くしました。この時だけ裏切ってました、では話が通じないのですよ。 そして旧幕府内で動機があったとすれば、それは松平容保ら大政奉還に叛意のあった要人たちです。 少なくとも、大政奉還から徳川慶喜を首班とする諸侯会議への道筋を思い描いていた、徳川慶喜や板倉勝静・永井尚志らには、 この時期は土佐藩や雄藩諸侯との関係を悪化させ、旧幕府排除に他ならない王政復古に諸侯を踏み切らせてしまった暗殺行為は、逆効果でしかない。
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- 【佐幕】楢山佐渡・雲井龍雄・但木土佐・河井継之助
21 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/10/14(金) 07:19:57.55 ID:zgQvg81Y0 - >>18
あなたはまた、根拠のないことを書き散らしている。 敵に回す必要がないのなら、なぜ「薩長に敵対する同盟を作れと岩倉が言った」という楢山の言を真実と看做さなければならないのでしょうか。 この言葉は当時の情勢及び岩倉の政論からはありえず、最大限好意的に解釈しても、 但木土佐の言葉を仙台藩家老では南部では聞いてもらえないから岩倉と相手を変えて言いふらしたものだろう、ということです。 >おめえ〜は人の言うことを良く聞けよ。 あなたの頭の方が奇怪です。
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- 【佐幕】楢山佐渡・雲井龍雄・但木土佐・河井継之助
22 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/10/14(金) 07:41:06.33 ID:zgQvg81Y0 - 鳥羽伏見の戦い直後、小御所会議は徳川慶喜及び会津藩への朝敵宣告と、仙台藩への会津藩討伐を命令しています。
この会津藩討伐に南部藩も参加するように、という趣旨なら岩倉の話は分かる。 しかしそれはあくまでも、朝敵宣告を受けた徳川慶喜・会津らの排除が目的となり、小御所会議の新政府軍への敵対団体結成勧誘ではない。 会津を討伐し新政府の陣営に参加した上で、権力争いとしてのバランサー志向を気取るのならともかく、 最初から新政府とは敵対する列藩同盟を作っておいて、バランサー気取りとは片腹痛いとしか表現しようがありません。
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- 龍馬暗殺の黒幕5
841 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/10/14(金) 08:06:50.66 ID:zgQvg81Y0 - >>840
ほら、このように史料の恣意的な解釈をやらかした人間を政党と看做す人がいる。 >>829は>>837に示したように、都合の良い一面だけを紹介して結論付けた一面的な主張です。
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- 【佐幕】楢山佐渡・雲井龍雄・但木土佐・河井継之助
25 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/10/14(金) 08:22:56.17 ID:zgQvg81Y0 - >>23
>何度も繰り返すが、岩倉は薩長と敵対する同盟を作れなどとは言ってない 楢山は、岩倉が「薩長の唱える勤皇が必ずしも真の朝命ではない。奥羽が薩長の専横を抑えるのも、また勤皇の道だ」と言ったと主張し、 いわゆる幕末東北正義論を掲げる地域史家や小説家は、これを元に楢山は被害者だったとまくし立てております。 しかし、これを岩倉の真実の発言と考えることは、不合理しか生みません。 何故なら岩倉は西郷隆盛と共に、一日も早い薩長新政府軍の江戸への進軍を主張した人間なのですから。 >そんな状況で岩倉と西郷が完全に同一歩調を取り、南部藩が仙台藩への義理立てから話を全てねつ造する >と言うストーリーのほうが不自然なんだよ また、>>23の考察からも、岩倉が薩長と敵対する同盟を作れといったことは考えられず、あなたの考えの方が不自然です。
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- 【佐幕】楢山佐渡・雲井龍雄・但木土佐・河井継之助
28 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/10/14(金) 08:51:07.78 ID:zgQvg81Y0 - >>27
>まず「東北正義史観」なんて非学術的用語を使ってる時点でお前は頭がおかしいわけだが あなたの方が変です。この時期を扱う一部小説家や郷土史家の偏執は度を越しています。 >>6 >いや、その岩倉発言は一概に否定できないよ あなたは>>3は否定できないといっています。言を挿げ替えて自己正当化を図っても旧悪はすぐ上にあります。
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- 【佐幕】楢山佐渡・雲井龍雄・但木土佐・河井継之助
29 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/10/14(金) 09:02:22.61 ID:zgQvg81Y0 - 岩倉のこの時期の発言は、
・会津(初期には徳川慶喜も含む)討伐軍への参加勧誘 ・新政府への参加(による新政府内の薩長独走の抑止) 程度のものでしょう。 間違っても、楢山が帰国後主張したような、新政府への全面敵対同盟の形成ではない。 それでは当時の岩倉の政論と逆行する。
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- 【佐幕】楢山佐渡・雲井龍雄・但木土佐・河井継之助
32 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/10/14(金) 12:09:37.19 ID:zgQvg81Y0 - >>31
全く納得できる発言ではありません。 楢山の京都滞在期には仙台藩は初期は新政府側、 のち離反、九条総督を拉致監禁の上で列藩同盟を標榜し、 九条総督の名の下に新政府の下に組織をつくり新政府に敵対するという、変則的な行動に出ています。 そのため、新政府の派遣した軍に「薩長じゃないから天子様の軍だ」などといいながら監禁していた九条総督を委ねてしまう訳ですが。 滞在の初期に面会があったのなら、岩倉の発言は上記の通り、 滞在の後期に面会があったのなら、岩倉の発言は更に具体的な、 南部は仙台を後ろから襲え、賊たる仙台から東北を取り戻せ、というものとなったでしょう。
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