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165 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/22(木) 14:46:52.90 ID:G9PsG1EN0 - 164 嘘書くなよ
長州出身の飯田中将は、昭和17年に、ビルマを攻略している。 長州は残っていたんだよ。 飯田中将の父親は、大物なので、東条も手を出せないしね
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166 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/22(木) 14:59:25.18 ID:G9PsG1EN0 - ●山口県出身の 2.2.6事件の首謀者の将校
●長州閥が大好きだった財閥を、嫌悪して死んだ将校 磯部 浅一(いそべ あさいち、1905年(明治38年)4月1日 - 1937年(昭和12年)8月19日)は、日本の陸軍軍人、国家社会主義者。 陸軍主計官として階級は陸軍一等主計(大尉)に至るが、陸軍士官学校事件で免官、後に二・二六事件に関与し銃殺に処される。 ●生誕地 山口県 大津郡菱海村 昭和4年10月陸軍歩兵中尉に進級するが、昭和7年6月主計将校を志願し陸軍経理学校に入校する。昭和8年(1933年)5月経理学校を卒業、 主計に転科し陸軍二等主計(中尉相当)に任官される。同年6月近衛歩兵第4連隊附を命ぜられ、昭和9年(1934年)8月陸軍一等主計(大尉相当)進級と共に、 野砲兵第1連隊附に移る。同年陸軍士官学校事件に巻き込まれ11月に拘禁、翌年3月停職、4月に釈放される。その後村中孝次とともに「粛軍に関する意見書」を執筆し、8月に免官。 早くから北一輝の下に出入りし、皇道派青年将校グループの先駆者的存在として知られた。昭和11年(1936年)の二・二六事件では、栗原安秀らとともに計画の指揮に当たり、翌昭和12年(1937年)8月に銃殺刑に処された。 獄中で「行動記」「獄中日記」「獄中手記」[1]を執筆し、暗黒裁判の実態と共に計画の正当性を後世に訴えた。特に「獄中日記」(昭和11年8月31日分までが現存しており、以降の1年分は所在不明)には、昭和天皇に対し責任を追及している文があり、 凄まじい怨念と共に注目に値する。彼(と北一輝)によると、日本は明治維新革命以来、 「天皇の独裁国家ではなく」「重臣の独裁国家でもなく」「天皇を中心とした近代的民主国」(これは戦後の日本国憲法の捉える日本像に近い)なのだが、「今の日本は重臣と財閥の独裁国家」なのだという。 そしてその大義を理解しなかった昭和天皇を獄中から「御叱り申して」[2]いた。 なお、磯部は銃殺時には北と同じく「天皇陛下万歳」は唱えなかったという。 三島由紀夫は「獄中日記」を高く評価し、『「道義的革命」の論理――磯部一等主計の遺書について』[3]を著している。三島の晩年の作『英霊の声』は北一輝だけでなく、磯部の影響をも受けた。
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167 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/22(木) 15:15:02.00 ID:G9PsG1EN0 - ●山口出身者って、昭和になっても、思想的には暴れているね。
東条は、山口出身者が、主計将校や航空隊に行くことは妨害しなかった。 http://binder.gozaru.jp/226isobe.htm 皮肉な事に、一度左遷されていた東条は、2.2.6事件によって道が開けて、大臣、総理と出世してしまう。 皮肉な事に、2.26事件によって、天皇機関説を唱えた人間が多数左遷されて、天皇機関説は異端となる。 ●山口県出身の磯部 浅一は、天皇機関説を主張していたようだな。 ● 二・二六事件獄中日記 ( 磯部浅一 ) 八月二十五日 天皇陛下は何を考えてござられますか、 なぜ側近の悪人輩をおシカリあそばさぬのでござります、陛下の側近に対してする全国民の轟々たる声をおきき下 さい。 八月二十六日 軍部をたおせ、軍閥をたおせ、軍閥幕僚を皆殺しにせよ、しからずんば日本はとてもよくならん。 軍部の提灯もちをする国民と、愛国団体といっさいのものを軍閥とともにたおせ、軍閥をたおさずして維新は ない。 八月二十七日 処刑さるるまでに寺内、次官、局長、石本、藤井らの奴輩だけなりとも、いのり殺してやる。 ●八月三十日 一、余は極楽にゆかぬ、断然地ゴクにゆく、地ゴクに行って牧野、西園寺、寺内、南、鈴木貫太郎、 石本等々、後から来る悪人ばらを地ゴクでヤッツケるのだ、ユカイ、ユカイ、余はたしかに鬼になれる自信があ る、地ゴクの鬼にはなれる、今のうちにしっかりした性根をつくってザン忍猛烈な鬼になるのだ、涙も血も一滴 ない悪鬼になるぞ。
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168 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/22(木) 15:22:03.88 ID:G9PsG1EN0 - ●2.26事件の中心人物 田中中尉 (下関出身)
2・26事件 処刑された中尉の遺言など展示 山口・下関 毎日新聞 2月25日(金)13時17分配信 1936(昭和11)年2月26日、陸軍の青年将校らが首相官邸などを襲撃し、高橋是清蔵相らが殺害されたクーデター「2・26事件」から26日で75年。事件決起人の一人で、死刑になった山口県下関市出身の田中勝陸軍中尉の、長男への遺言(複写)、 写真など十数点を、下関市にある忌宮神社が初展示している。処刑を前に、田中中尉の家族を思う心情が伝わってくる。入場無料、3月6日まで。 田中中尉は下関市の旧制豊浦中(現県立豊浦高)から熊本陸軍幼年学校へ進み、陸軍士官学校を卒業。野戦重砲兵第7連隊第4中隊に所属した。軍用トラックなどを率いてクーデターに加わり、軍法会議にかけられ、25歳で処刑された。 http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20110226/1298682190
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169 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/22(木) 15:28:20.51 ID:G9PsG1EN0 - おい、長州信者、東条は昭和9年に1回左遷させられているぞ
●陸軍士官学校事件 陸軍士官学校事件 は、1934年(昭和9年)に日本陸軍内で起きた事件。 別名十一月事件。 概要 1934年(昭和9年)11月19日、士官学校の中隊長であった辻政信[1]から、憲兵隊の塚本大尉に対して、 士官学校を中心にして5・15事件と同じ方法、手段をもって、元老、重臣、警視庁を襲撃する計画があるという密告があった。 憲兵隊では取り扱いをめぐって異見があったが、一応内査続行という処置をとった。 これに不満であった塚本、辻と軍事課の片倉衷が、11月20日の午前2時に橋本陸軍次官を訪ねて検挙を要請した。 その結果、永田鉄山軍務局長から東京憲兵隊警務課長あてに連絡され、陸軍士官学校でクーデター計画が発覚したとして、 皇道派の青年将校の村中孝次大尉・磯部浅一一等主計ら3人と士官学校生徒5人が逮捕された[2]。 事件は証拠不十分として不起訴処分となるが、村中・磯部両名は停職、士官学校生徒5名が退学処分となった。 また、この事件の責任の名で、当時の陸軍士官学校幹事●東条英機少将は福岡旅団長に転出させられ、 辻大尉は水戸連隊付として転出させられた。
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170 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/22(木) 15:35:27.73 ID:G9PsG1EN0 - ●山口出身の昭和の陸軍少将
硫黄島方面陸軍部隊総覧 昭和20年3月25日玉砕。戦死者1万2850名。 ●硫黄島守備隊の、参謀長は、山口出身だった。 第109師団長であり、小笠原兵団の総司令官 中将 栗林忠道26期(長野出身) 昭和19年5月27日 戦死。 死後に、大将になった。 ●栗林司令官の参謀が、堀静一大佐 第109師団参謀長 大佐 堀静一 29期 昭和19年5月27日 戦死。 堀 静一 略歴 陸士29期卒業 ●●山口県出身 歩兵科将校 昭和16年8月25日 陸軍大佐昇進 昭和16年8月25日 歩兵第232連隊長 昭和17年2月28日 留守第55師団参謀長 昭和19年5月27日 第109師団参謀長 昭和19年12月30日 混成第2旅団司令部附 昭和20年3月17日 硫黄島で戦死(●陸軍少将昇進) http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rikukaigun54.html
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171 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/22(木) 15:46:06.14 ID:G9PsG1EN0 - ●堀静一大佐は、性格は温厚であったが、栗林司令官の近代戦術が理解できずに、疎んじられるようになった。
堀静一大佐は、近代戦にはむかない人物だった。 http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-106.html ●あれ、堀静一大佐って、長州出身なのに陸軍大学校を出ているよね。 東条にも、出来ない事はあるんだよな。 さて話を小笠原兵団に戻すと、兵団の初代参謀長は、山口出身の堀静一大佐であった。 大佐は陸大専科を出ており、歩兵科であり歩兵聯隊長も務めているが、 その前は鉄道関係に居たらしい。 長い髭をたくわえた温厚な人物で、よく人の話を聞いてメモを取るような真面目な人であった。栗林中将とも最初は親しかったらしい。 しかし何が原因かは分からないが、栗林中将は堀大佐を非常に嫌うようになった。 ある日の朝礼などでは、中将は大佐に向かって、ひげでは戦争はできないと凄い勢いで面罵したという。 その場に居た堀江少佐は居たたまれず、そっと場を離れた。 50も過ぎてひげがどうのとは、堀大佐も確かにうんざりしただろう。 逆に言うとそれほどまでに栗林中将の大佐に対する感情は悪化していたのだろう。 西川参謀、吉田参謀も陸大専科を出ていたが、やはり中将に軽んじられることに不満を抱いていたようだ。 しかし西川参謀などは、戦術論に関しても臆することなく意見を述べていたようだ
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172 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/22(木) 15:59:28.59 ID:G9PsG1EN0 - ●岩崎民雄 最終的には陸軍中将 ●出身地は山口県なんだよな。
日中戦争当時の岩崎大佐は 長州山口の出身で士候27期、陸大34期。 (陸大でてますね) 東京帝國大学法學部政治學科を卒業した生粹の參謀將校。 今回は 朝鮮軍參謀として 張鼓峰事件の後處理を終はってからの着任。 後 中將に昇進して 終戰時は 善通寺第111師團長。 戰後は 民間の石油關係の會社につとめて東京で安穏の生活を送る。 http://homepage2.nifty.com/ijn-2600/bukansanchin-2.htmlhttp://www.kajika.net/bunko/?%8F%AC%8F%BC%8D%E8_%8EO%98Y:%83V%83x%83%8A%83A%97%7D%97%AF%82%CC%8BL%98%5E:%8A%D6%93%8C%8CR%82%CC%94z%94%F5%8F%F3%8B%B5
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173 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/22(木) 16:01:30.24 ID:G9PsG1EN0 - http://homepage2.nifty.com/ijn-2600/bukansanchin-2.html
リンク貼り直し ●岩崎民雄 最終的には陸軍中将
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174 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/22(木) 16:08:50.85 ID:G9PsG1EN0 - ●山口出身の陸大入学者 藤井一美 中佐 [ふじい かずみ]
1943年の「キスカ島撤退」に北海守備隊参謀として登場。 キスカ島から潜水艦で第5艦隊司令部のある幌筵に渡り、 第5艦隊司令長官にキスカ島守備隊の撤収を進言、その後第1水雷戦隊に同行してキスカ島に向かう。 <略歴>山口県出身 日本陸軍軍人 陸軍中佐 陸士45期、陸大55期 1933年7月11日 陸軍士官学校卒業 1939年12月13日 陸軍大学校入学 1941年12月5日 陸軍大学校卒業 1942年1月 北部軍参謀 1942年10月 北海守備隊参謀 1943年7月 キスカ島撤収作戦に参加 1943年8月 北方軍参謀 1943年9月 航空本部補給部員 1945年4月 航空総軍参謀 1945年6月 陸軍中佐 1945年7月 第6航空軍参謀
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175 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/22(木) 16:13:43.12 ID:G9PsG1EN0 - おい、長州信者、東条は昭和9年に1回左遷させられているぞ。
結局は、東条による山口出身者に対する陸大入学妨害は、数年程度だったと言うことだろ。 ●長州信者は、太平洋戦争中に、山口出身の陸軍将軍や、陸軍佐官がいないと嘘をついた。 ●長州信者は、太平洋戦争中に、山口出身の陸軍将軍や、陸軍佐官がいないと嘘をついた。 ●長州信者は、太平洋戦争中に、山口出身の陸軍将軍や、陸軍佐官がいないと嘘をついた。
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176 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/22(木) 16:21:32.39 ID:G9PsG1EN0 - ■■山口高校出身の将校
秋枝三郎 海軍中佐 (山口出身) アフリカのマダガスカルで、戦死 ●英チャーチル首相「第二次大戦回顧録」●マダガスカルの戦い 1942年5月31日夜、ディゴスワレズに停泊中の戦艦ラミリーズと大型油槽船が 突如、横腹に魚雷を受け、戦艦は大破、油槽船は沈没の被害を受けた。 日本軍兵士は、その任務遂行後、わが方に圧迫せられ、 乗艦を自沈せしめた後、上陸し、抜刀斬り込みを敢行した。 わがパトロール隊はこれを包囲し、降伏を勧めたが、聞き入れなかった ので、已む無く射殺した。二人の日本人将校は国の為に挺身し、類無き功績をたてたのだ。 http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/toku-akieda.htm 日本の敗色濃くなった昭和19年10月 1日、 山口市内道場門前の本圀寺境内で「国士招魂之碑」除幕式が厳かに執行された。 この碑は、特殊潜航艇第二次攻撃隊の秋枝三郎海軍中佐、 ソロモン上空に散華した佐伯忠男陸軍大尉、 ブーゲンビルに自爆した伊豆田雄士陸軍少佐、 アッツ島玉砕の金子寛貞陸軍中尉、 南方方面において壮烈なる戦死を遂げた三原正夫陸軍大尉、 満鉄在職中に鉄路防衛に殉じた山本太郎、 南方某方面敵前上陸の際に散華した梅津浩康陸軍軍曹、以上の山口高校に学ん だ七烈士を祀ったものである。
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177 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/22(木) 16:29:49.88 ID:G9PsG1EN0 - ■村中四郎 (山口出身)最終階級 大佐
村中 四郎(むらなか しろう、生没年不詳)は大日本帝国陸軍の軍人。 最終階級は陸軍大佐。 山崎保代(陸軍大佐)の前任者としてアッツ島守備隊長を務める。 同隊長を下番後は広島県宇品に赴任し、陸軍船舶練習部船舶幹部候補生隊長となる。 1916年12月 士官候補生となる。 1919年5月 陸軍士官学校(31期)卒業。 1919年12月 陸軍工兵少尉 1940年4月 独立工兵第26連隊長 1943年 北海守備第2地区隊長 8月 陸軍大佐 1944年4月 陸軍船舶練習部船舶幹部候補生隊長 1945年3月 第14船舶団長 http://www24049u.sakura.ne.jp/db/%E6%9D%91%E4%B8%AD%E5%9B%9B%E9%83%8E http://www.warbirds.jp/ansq/2/B2000348.html
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179 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/22(木) 16:37:22.43 ID:G9PsG1EN0 - ●幻の「滑空飛行第一戦隊」
山口県航空史研究会 中国航空協会 岩佐氏の証言によれば、戦隊の育ての親ともいうべき古林少佐は陸軍士官学校43期航空科(陸軍航空仕官学校の前身)出身であり、 筆者と同郷の山口県生まれであることが分かった。 http://ksa.axisz.jp/G-12HikoDaiichisentai.htm 滑空飛行第1戦隊(鸞19052):古林忠一少佐 - 2個中隊で、定数は九七式重爆撃機(曳航用)計18機、ク8-II グライダー計36機ほか。
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180 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/22(木) 16:41:00.87 ID:G9PsG1EN0 - 長州支持者のアホが、嘘ついて、東条が、まるで、なんでも出来るように書いたから貼ったまでだよ。
アホは、山口出身の飯田中将が、ビルマを攻略している事も知らなかったしね
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