- 幕末の南部藩・米沢藩・仙台藩・会津藩
160 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/22(木) 00:50:20.85 ID:8ZvahEjL0 - ●陸軍軍人姻戚関係一覧5 (長州も出ている)
http://hi.baidu.com/71540476/blog/item/d6efd1464c06b60f6b63e521.html
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161 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/22(木) 01:28:03.86 ID:8ZvahEjL0 - 大橋少尉が死んだのは、馬鹿な長州出の寺内元帥のせいだな。
長州出身の飯田中将を更迭して、牟田口を昇進させて、 無謀なインパール作戦を、牟田口の口車に乗って開始した。 大橋少尉の哀れ http://www.geocities.jp/buzensakai/reki/simatuki.htm
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162 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/22(木) 01:32:43.59 ID:8ZvahEjL0 - ●馬鹿な元帥 敵より怖いとは、南方総軍の寺内元帥の事だよな。
大橋少尉のあわれ スインズエユワ盆地の包囲が破れ、3月18日にブーティーダウン道を英軍におさえられた。トンネル付近で静岡県三島の野戦重砲兵第3連隊の15サンチ榴弾砲1門が奮戦していた (ブーティーダウン方面は3門の重砲しかなかった) 敵のM3戦車が出てくると帰ることができなかった。重さ6tの重砲は牽引車が必要だが陣地を敵に襲撃されたとき奪われる先に破壊した。 桜井兵団に指示を求め、兵団から破壊して中隊に復帰に命令がでた。 トンネル内に重砲をいれ砲兵30名で守っていたが、歩兵が援護に集まり、英軍の集中砲火をあびた、援護の歩兵が十数名にまで減り、重砲を爆破しドンジョーン部落の中隊に復帰した。 四月7日、戦車十数量を伴う敵がドンジョーン部落北方高地を攻撃し占領した。 このとき、歩兵第102連隊松木平大隊長戦死した。 射撃応戦するべく、第1線の補助観測所に観測の名手大橋少尉以下5名派遣したが師団戦闘指揮所に出頭しろとの命令が来た。 師団長に歩兵団の福山少佐が処置の報告をしたとき、「馬鹿野郎誰が火砲を破壊しろと命じたのは」とどなられ、福山少佐は「小隊長の独断で破壊しました」と卑怯なごまかしをしたため、 師団長は怒り立って「責任取らせろ師団長命令だ」と大橋少尉の独断で破壊したことになった。 第2中隊の兵は怒りだし、中隊長が兵団の命令があっての行動であることを司令部に報告し、状況説明に大橋少尉が司令部に行き一応許されたが、たびたび師団の佐藤高級参謀から電話で 「生死栄辱をともにするべき火砲を捨てて、雲なき戦場を、孤影悄然と渡逃げ帰った貴様は自今、青空少尉と命名する。 おい青空少尉、復唱してみろ」侮辱されいじめられた。4月9日師団に呼び出され花谷川村斉藤にさんざん殴ったあと「貴様の様な不忠者は将校にしておけん。 上等兵だ恥ずかしかったら自決しろ」とまでいって階級章を外してしまった。その夜、部隊から1Km先で正座して手榴弾2発同時に爆破させ自決した。 天幕の中に遺書があり上官と部下に迷惑をかけたと謝っていた。最後に中隊長殿によろしくと書き、その後にご両親としか書いてなかった。 戦死公報には、昭和十九年四月十日・ビルマ、アラカン州ブツドン県ドンギャン北側高地において、上腹部穿透性砲弾破片創により戦死。同日付け中尉に進級
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