- なぜ第2次長州征伐で幕府軍は勝てなかったのか2
272 :名無しさん@お腹いっぱい。[saeg]:2011/09/21(水) 01:09:06.64 ID:co+Uh1VM0 - >255
>50年に一度の大飢饉、数十年に一度の飢饉です。大飢饉は数年から長いときは10年近く続きます。(種籾もなくなるから) >だから人口が減っているわけですよ。 私がお伺いしたのは、江戸時代ではなくそれ以前の戦国期・室町期・鎌倉期、それ以前の飢饉の頻度なのですが? それらの正確なデータが出てこないことには、江戸期との比較など出来ませんよ。 何度もいいますが、江戸期には全国的にくまなく行政が行き届いたがゆえに信用性の高い正確なデータが残っています。 それに比肩しうる正確なデータが残っていない限り、妥当な「戦国期と比べて」とか「鎌倉期と比べて」とかの それぞれの政権が採った政策の比較評価は出来ないと申し上げているのです。 >江戸初期にしても戦国時代の恩恵で増えていただけです。 なにをもって「戦国期の恩恵」と断言しうるのか、その根拠の方をお伺いしたいですね。 自説に都合の良いことは「戦国期のおかげ」、都合の悪いことは「幕府のせい」と 単純に盲信しているだけのように思えますが。 >自国の農民から収奪するのと、他国の農民から収奪するのとでは他国から収奪したほうがいいですよね? >自国の民を養う為に他国から奪うのは当然でしょう。自国の民を餓死させるのがよいと? 意味不明。 北朝鮮の指導者様じゃあるまいし、そんな乱暴が許される社会状況とそうでない社会状況とを ごっちゃにするのはそもそも認識不足です。 戦国時代に「飢えるから他所から奪う」という行為が存在したのは、「飢えた隣人から襲われる」 というリスクと隣り合わせのモノだったということをお忘れ無く。 「米がなければ泥棒すればいいじゃない」とお気楽にのたまうのはあなたの勝手ですが、 多くに人々は「いつ襲われるか分からないんじゃ安心して生活できない」という実感が 強かったからこそ幕府による安定した政治が受け入れられたのです。 「他所から奪えばいい」という論理を支持する人々が多かったのなら、戦国時代はもっと長く 延々と続いていたことでしょうよ。 >藩には毎年の借金の支払いがあるんですよ。参勤交代と江戸滞在もね。 >免除になった事なんて江戸時代通じて殆どない。 無知乙。 病気だのなんだのの理由を付けて、参勤の免除を申し立てた事例などいくらでもありますよ。 2年に一度を3年に一度にするとか、1年在府しなければいけないところを半年だけにしてくれとか。 単にあなたが勉強不足なだけでは? >どこの藩の話ですかそれは? 天明の大飢饉:上杉鷹山:松平定信、適当にググって下さい。 これら「名君」と呼ばれた大名の治績は幕府から称揚され、多くの大名が参考にしています。 >戦国時代のように農村が独自に自衛している時代じゃないんですから、お上には逆らえません。 まるで戦国時代は農村が自衛していたから守護大名からの無理難題を退けられたとでもいわんばかりですね。 手前勝手なことを主張する農民のクビなど、簡単に撥ねる事の出来たのが戦国時代なんですが。 >戦乱でありながら人口が五割も増え、江戸中期以降完全な停滞なのに、何を言っているんですか。 1200万が1500万に、50%増というのは少々過大評価では? 25%増がいいとこでしょう。 1500万が3000万は、完全な倍増。100%増です。 増加率でいえば4倍ですね。
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273 :名無しさん@お腹いっぱい。[saeg]:2011/09/21(水) 01:37:28.59 ID:co+Uh1VM0 - >256
>>そうでなければあっという間にのたれ死にでしょ? >実際そうですけど? そのわりに、幕末の志士と呼ばれる人々は割と気楽にあっちに行ったりこっちにいったりという 行動を取っておりますけれども。 のたれ死にと背中合わせというのであれば、あんなにも長く(人によっては5年とか10年とか)、 長距離の移動を行い続け得るとも思いにくいのですが。 金を送金して貰う当てがあったり、蓄えがあったからこそのことだと考える方が自然ですよ。 >特権階級が裕福に暮らして、庶民から収奪していた時代を富を再分配していた、すばらしい時代とか、 >とんちんかんな事いうから批判しているんですよ。 ですから、実際に富の再分配が相応に行われており、一部の大商人や豪農などが富裕な生活を 行っていても、その余録にあずかれる庶民が相応にいたという事実を申し上げているのです。 一部商人が富を独占し、それ以外の農民が餓死寸前で生活していたり、切り捨て御免の特権を 武士が行使していて町民があちこちでバッサリ斬られてばかりいた、などという世迷い言を あなたが言っているから批判しているんですよ。 >ありませんね、そんな話は。なら枚挙してください。 間宮林蔵、最上徳内、勝海舟の祖父、榎本武揚の父、川路聖謨など。 貧乏人でもこつこと働いて小金を貯めたり、仕事が出来ると認められた人間であれば、 御家人の家に養子に入る(こういう戸籍上の操作を行い事を「御徒の株を買う」と言います) ことを通じて御家人になれました。 後世に名前が残っているだけでもこれだけ居るんですから、数万と言われた江戸の御家人や 諸藩の陪臣まで含めれば相当数が居たと推測しても間違いではないでしょう。 >間違いですな。そのまま継ぐのが普通です。商家の跡取りは飲む打つ買うと遊び放題ですよ。 >そうやって人脈を作って、家を継ぐわけです。江戸時代はコネと賄賂の時代。 >どうせ独占企業がやっているので、経営もクソもありません。東電が潰れないのと一緒です。 単なるあなたの思い込みですね。 史料の提示をお願い致します。 >それはその日暮らしのぷータロー。 そういう人間が太平楽に暮らしていけたのならば、それで充分に幸福な社会でしょう。 現代の価値観で当時の人々の処世方を批判するのは僭越というモノですよ。
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274 :名無しさん@お腹いっぱい。[saeg]:2011/09/21(水) 02:56:29.68 ID:co+Uh1VM0 - >257
>江戸の男女比は7;3から、8;2さらの女の数割は女郎とかだったりするので、 >実際の既婚はさらに減ります。 それは前期から中期までの話。 徐々に定住層が拡大していくことで、幕末までには男女比はおおよそ10:9くらいの 割合になっていきます。 社会実情データ図録 「江戸・大阪の町人人口と性比(江戸時代)」 http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7850.html 「ところが、こうした状態は江戸時代を通じて変化した。 江戸時代末期の江戸では、ほぼ性比は100、大阪でも100に近づいている。 すなわち男女のバランスはとれていったと考えられる。 江戸については、奉公人人口比率が江戸時代末にかけて大きく低下し、 奉公人が雑業者層に代替されたからである。 大阪においては商家を中心に奉公人が多かったが、女子奉公人、 都市内婚姻の増加が想定される (斎藤修「江戸と大阪―近代日本の都市起源」、図録7855参照)。」 東京都の統計 http://www.toukei.metro.tokyo.jp/ 付録 *「江戸の人口について」* http://www.toukei.metro.tokyo.jp/jugoki/2002/02qdj210003.pdf 「この記録された町人人口の推移をみると、享保年間から幕末まで、総数は大きく変動し ていないが、女子の割合は次第に増え、幕末には男子とほぼ同数に達した。これは、江戸 へ移住した者が一家を成し、郷里から母や妻を呼びよせたり、妻帯したりする場合が多く なったこと等が一因と考えられている。」 歴史的に見た日本の人口と家族 http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2006pdf/20061006090.pdf 「上記人口を見て気づくのは江戸中期における男女比の異常である。享保6年の男女比は 男100 に対し女55 であり、当時の江戸が異常な「男性過多」社会であったことがわかる。 天保14 年は89 となっており、男女比は均衡しつつあるが、いずれにせよ男性の流入民に より人口が増大してきた江戸の性格がここに示されていると言えよう。」
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276 :名無しさん@お腹いっぱい。[saeg]:2011/09/21(水) 03:28:40.45 ID:co+Uh1VM0 - >258
>>この場合は軍事力というよりも、「長州征伐」という軍事行動 >既にライフルを装備し高い士気と優れた戦術要していた長州軍と >旧式装備で戦術も稚拙、士気も低いと軍事力に如実に差があります。 装備していた銃器の質に関しては、前々年の禁門の変、前年の第一次長州征伐時には 長州側も装備していなかったわけで、この短期間でこれだけの軍備を調え得た 長州側の方が異常だったと言うべきでしょう。 士気の低さに関しても、やはりその原因はもっぱら政治的拙劣さに由来すると言うべきです。 現に幕府歩兵は長州に匹敵するだけの装備を持っていました。 『長州戦争―幕府瓦解への岐路』 『幕府歩兵隊―幕末を駆けぬけた兵士集団』 総じて、第二次征長戦争における幕府の敗北に関しては、軍事的側面よりも 政治的拙劣さに多く拠っているように思います。 >欧州では戦争により行政や財政の効率化がおこり、植民地貿易により富を獲得し、それを >投資し産業革命が起こります。幕府の鎖国政策はどちらもの芽も摘んでしまい 欧州で起こった産業革命は、それこそ人類史におけるある種の奇跡と言っても過言ではないでしょう。 幕府がその政策を変えていたとしても自然発生的に自国内で産業革命が起こった訳はないし、 うかつに国を開いて技術を取り入れようとした場合には、西欧列強につけいる隙をあたえてしまい、 植民地化される恐れとても充分にあったと思います。 攘夷意識という対外的な強烈なアレルギー反応が起こったからこそ、そうした危機を回避する エネルギーが供給されたと考えることも可能でしょう。 不平等なモノとはいえ、穏便な形で条約を取り結ぶことが出来たのも、冷静な対外認識と 危機意識とが幕府を動かしたからだと思います。 少なくとも、長州や薩摩があの時点で政権を取っていたら、無謀な攘夷戦争を仕掛けて 清におけるアヘン戦争後の半植民地化を強いるような条約を結ばされていたと思います。
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277 :名無しさん@お腹いっぱい。[saeg]:2011/09/21(水) 03:29:14.09 ID:co+Uh1VM0 - >258
>大開墾時代であった17世紀と打って変わって18世紀から19世紀の停滞を生んでしまいます。 >特に人口を見ればあきらかです。故に後半の幕府は個人的に評価が低いのです。 このような意見をネット上で見つけました。 ご一読下さい。 東京都統計協会 トピックス 「江戸の人口停滞と近代への胎動」 http://www.metrosa.org/topix/jinko-ed.htm 2 大開発の時代と人口の激増 江戸時代の前期に人口が激増した要因について、「参勤交代や明暦の大火を重視する見方」と、 「耕地面積の拡大を重視する見方」があります。 前者の見方は、参勤交代により、全国の諸大名が強制的に江戸に居住させられたため、 また、明暦の大火後に、江戸の拡大が進むと同時に、大火後の復興景気を当て込んで、 大勢の商人が江戸に進出したため、商業が活発になり江戸に人口が集中したと考えます。 なお、この江戸の拡大の過程で、いわゆるドーナツ化現象が発生したことが当時の記録に 残っています(甲斐庄正親「御役人代々記」1673〜1704年)。 後者の見方は、江戸時代前期は、大開発の時代といわれるほど、全国的に新田開発が行われ、 農産物の生産量が飛躍的に増えた結果、出生率が上昇し、農村で過剰になった人口を都市が 吸収したと考えます。いわば高度経済成長と同様にみなすのです。 これら発想の異なる考え方は、多角的な視点から観察や分析することの必要性を思い起こさせてくれます。 3 人口の停滞と少子化・晩婚化 江戸時代の後期に人口が停滞した要因についても、「飢饉の頻発を重視する見方」と、 「出生率の低下と晩婚化を重視する見方」があります。 前者の見方は、小氷河と呼ばれる気候寒冷化により凶作が頻発したり、大地震や富士山・浅間山の 噴火など相次ぐ自然災害により飢饉が頻発したため、人口が停滞したと考えます。 後者の見方は、大開発の時代が終焉して、耕地の拡大が鈍化するとともに、文明が成熟して、 出生率の低下と晩婚化が起きたと考えます。 つまり、女子は、早く結婚してたくさんの子供を生む必要がなくなって、商家や武家へ奉公に 出るようになり、少子化が始まったのです。 人口停滞は、耕地開発の鈍化に対応した、豊かな生活を維持するための、意識的な出生抑制の効果で あるとみなすのです。 こうして総人口の増加がストップした結果、高齢者の比率が上昇して、高齢化も進みました。 そのうえ寿命(平均余命)も伸びたと考えられています。このあたりは、現代における経済成長の 鈍化と少子高齢化の関係と似通っています。
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278 :名無しさん@お腹いっぱい。[saeg]:2011/09/21(水) 03:49:27.59 ID:co+Uh1VM0 - >259
>日本も不平等条約を結ばされ国内に外国人居留地ができています。 清がアヘン戦争の敗北後にイギリスの武威によって強制的に結ばされた条約の内容と、 幕府がそのイギリスが要求するであろう過酷な要求を退ける目的でアメリカと結んだ 条約とでは、そもそもその「不平等」の度合いが根本的に違います。 >それらから植民地にならなかったのは新政府による近代化が成功して条約改正して >取り返したからです。つまり日本も一度負けているのを取り戻したわけですよ。 違います。 そもそも幕府が条約を結んだのは1859年。 新政府が誕生する10年も前です。 では、新政府が条約改正を勝ち取るまでの間は日本は植民地になっていたかと言えば、 そんなことはありません。 >賠償金は新政府が引き継いで財政、徴税制度の近代化を行い返済しています。 分割返済ということを認めてくれたからこその話で、強引に領土の割譲や 租借を押しつけらてしまっていた可能性だって皆無ではないのですよ。 >そもそも賠償金が膨らんだのは幕府による政治戦術により兵庫港の延期させた >ことも一因ですし。 幕府がそういう戦術を採らざるを得ないまでに追い詰められたのは、 もっぱら長州を中心とした破約攘夷を唱えていた急進的な排外主義者たちの ためなのですが。
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279 :名無しさん@お腹いっぱい。[saeg]:2011/09/21(水) 04:00:27.82 ID:co+Uh1VM0 - >260
>>変化への対応の遅れを「絶対悪」のようにして批判するのもどうかと思います。 >少なくても対応できなかった以上高い評価は与えられません。もちろん欧州と比べて >であって、非欧州国では優れた対応と認識しています。 欧州で起こった体制変革・義塾革命は、それこそ人類史の中で特筆大書するべき 特異な出来事であって、それに対応できなかったことを指して非難するのは、 あまりにも「後世の視点」から当時を断罪するという部分が強いように思います。 それまでの数千年の人類の歩みの中でも、まったく未知な出来事が起こったのですから。 >小さな政府はその記事にも書いてあるように「政府の市場への不要な介入を最小限にすることを目指す。」 >ですから鎖国を行っている幕府は小さな政府とはいえないと思います。 鎖国を行っていても、「国営事業の民営化・私企業化」「国有資産の売却」は可能なのではないでしょうか? 海外との貿易を禁止していることを指して「規制の撤廃」をしていない、とは言いうるでしょうが、 大筋においては幕府の施策の大部分は「小さな政府」を目指したものと言って良いと思います。 そして、その「小さな政府」を実現するためにも、鎖国という経済活動上の大枠を維持することは、 「必要な介入」だったと判断したのだと思います。
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280 :名無しさん@お腹いっぱい。[saeg]:2011/09/21(水) 04:22:47.64 ID:co+Uh1VM0 - >261
>>18世紀と21世紀とを同列に比べる? >鎌倉時代と江戸時代を比べている人に言われても困りますがw <221> >それ以前にも飢饉は存在しますが規模が違います。 >また江戸時代の飢饉はただの気候変動などよりも、行政のミスにより起こったものです。 >また飢饉の記録は存在します。養和や寛喜の飢饉などは有名です。 >それぞれ方丈記や吾妻鏡などに記録がのこっております。 先に鎌倉時代の話題を出してきたのはそちら様だったように記憶しておりますが。 >>どちらの方が「劇的」と形容されるべきでしょうか? >戦国時代ですな、江戸時代は中期以降から全く増えてませんから。 >増加率で見ると低いです。初期だけは戦国時代の恩恵で増えただけです。 >277 をご参照下さい。 人口の停滞を悪政のみに由来すると見なすのならば、1億2千万をピークに 人口が減少に転じた戦後の日本も相当酷い時代だとご認識なのでしょうね。 >>何度も言うけど、「記録に残っていないだけ」ってことは考えないの? >史料にも存在しない事を言われても困りますな。 ですので、江戸期以前の正確な人口動態を記録した史料を出してきていただきたいと 申しているのですが。 そうした史料抜きに一方的に「甚大な被害を出した飢饉は江戸時代ばかりで起こっていて それ以外の時代ではあまり起こっていない」という発言には説得力がないと申し上げているのです。
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281 :名無しさん@お腹いっぱい。[saeg]:2011/09/21(水) 04:23:31.76 ID:co+Uh1VM0 - >261
>>天明の飢饉などのように周辺の領地一帯でも膨大な犠牲者が出るような大規模な飢饉だったら >飢餓輸出をしてもお咎めなしという事ですね。13万もの人間を殺しておいてね。 >周辺の藩も同じ事、幕藩体制に殺されたわけですから。 江戸期に養い得ていた人口を3000万人程度。 戦国期に養い得ていた人口は1500万人程度。 差し引きで考えれば、戦国期は江戸期に比べて1500万人程度を殺していた、とも言えますね。 3000万人生存することが可能な国土において、1500万人しか生かせなかったのですから。 一方に3000万の貯蓄がある人があり、もう片方に1500万の貯蓄しか無い人がいるとして、 前者が100万の損失を計上し、もう片方は損失が無かったとしても、保有する可処分金額は 前者が2900万、後者はやはり1500万です。 どちらの方が「フトコロが豊かだ」と考えるべきなのでしょうかね。 >>ほぼ一様に、武士階級に属する人々の礼儀作法や立ち居振る舞いの美しさを賞賛し、 >非生産的な事しかやっていなかった事例ですね。 >礼儀とかいって無駄な作業ばっかり増やして、無駄な仕事を作る、まさにお役所仕事。 その武士層が、対外的な外交交渉を巧みに行ったおかげで植民地化の危機を免れ得たのであり、 西欧列強の持つ先端技術や知識の速やかな消化吸収が可能になったのですけれども。 知識と教養を身につけておくこと、そういった積み重ねが非常時にどれほど役に立つのかに ついて、ご理解いただけないというのはとても残念ですね。 そういった教養層を培養しておかなかった他の非西欧諸国がどうなったのかについても 少しは知識を身につけていただきたいものです。
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