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名無しさん@お腹いっぱい。
幕末の南部藩・米沢藩・仙台藩・会津藩

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幕末の南部藩・米沢藩・仙台藩・会津藩
144 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/21(水) 16:40:50.18 ID:4x8nXm/F0
長州って、汚い毛利家に反抗した英雄の山中鹿之助を酷い方法で殺しているね。

衰亡した主家に忠誠を尽くして戦い続け、その有り様が後人の琴線に触れ、講談などによる潤色の素地となった。
特に江戸時代には忠義の武将としての側面が描かれ、悲運の英雄としての「山中鹿之助」が創られていく。
これが世に広く知られ、武士道を精神的な支柱とした明治以降の国民教育の題材として、月に七難八苦を祈った話が教科書に採用された。
長男とされる山中幸元(鴻池新六)は父の死後、武士を廃して摂津国川辺郡鴻池村で酒造業を始めて財をなし、
のちに大坂に移住して江戸時代以降の豪商鴻池財閥の始祖となった。
その為か、鴻池家では毛利家への財政支援を行わなかったという。

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146 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/21(水) 20:24:02.25 ID:4x8nXm/F0
長州は、都合の悪い事は隠しているだろ
●長州を破った男
毛利って人でなしだよな。  鹿之助を殺しておきながら、その子孫の鴻池に大金を要求するんだから
http://ushidon.sakura.ne.jp/bookroom3/book-edo/bookedo9.html
1・長州を破った男
大阪一の豪商鴻池一族の一人、鴻池市兵衛は大名に金を貸してその年利で儲ける金貸しであった。
市兵衛とは商売上長年のつき合いである長州毛利家は、財政に苦しく市兵衛に対し数々の難題をぶつけてくる。
どれも金銭的な内容であったが、武士という権威を笠に着ての行為に、常に商売という生きる為の戦いをしている市兵衛は金がいかに大切なものか分からない武士に腹を立てると、毛利家へ金を貸すのを止めてしまう。
ちょうど参勤交代で江戸へ向かう途中の毛利家は、旅費が底をつき京で足止めをくらい、恥を忍び毛利家は市兵衛へ謝罪し、再び金の融通が受けられると、これをきっかけに毛利家の市兵衛に対する見方が変わるのであった。
市兵衛は長州へ招かれ、財政が逼迫する藩の立て直しを依頼される。
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147 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/21(水) 20:33:15.17 ID:4x8nXm/F0
http://www.asahi-net.or.jp/~fa9m-kwt/kangeki/kangeki99/chosyu.htm
天翔ける虹 −長州を破った男−  1999年11月 東京・明治座
  原作 南原幹雄  脚本 堀井康明  演出 増見利清
  キャスト 鴻池市兵衛・高橋英樹  おしずの方・杜けあき  日野・江原真二郎  およう・三浦布美子 
        浦部・大山克己  毛利吉元・青山良彦  お琴・岩崎良美  鴻池善右衛門・川辺久造
        清七・佐野圭亮  おさき・生稲晃子

 あらすじ  1幕
花に浮かれる大坂、長州藩士達が鴻池市兵衛の姿を求めて走り回っている。
藩主・毛利吉元は参勤交代途中の京で江戸に出発出来ず立ち往生していた。36万石の長州藩も豪商・鴻池を頼らねば旅費も払えぬ財政状況。
その鴻池に代え地元の淀屋を新しい蔵元にしようとする浦部の画策に市兵衛がへそを曲げたのだ。
これまで通り鴻池を蔵元にと奔走した日野と鴻池当主・善右衛門の説得により、市兵衛は参勤交代の資金を出す約束をする。

市兵衛は帰国する長州藩の毛利吉元と再会し、藩政建て直しの助言を求められる。困難の予測される鷺沼の新田開発を進言した市兵衛は多額の資金の調達も約束する。
吉元は完成の暁には鴻池に新田を下げ渡すと約束する。そこには苦い顔の浦部がいた。

 3幕
新田開発が完了する。その祝いの席上、市兵衛は吉元に褒美ののぞみを聞かれ「山中鹿之助の兜」を所望する。
鴻池の出自を元に市兵衛を陥れようとする浦部に真っ向から立ち向かったのだ。その上浦部は地元の大百姓の倅庄作を使って市兵衛の命をねらおうとする。
新田を鴻池から取り上げることが決定し、鴻池に討っ手がかけられる。責任を感じた日野は陰腹を切って市兵衛を訪れた。
しかも清七は手傷を負って絶命。長州藩の理不尽なやり方に、市兵衛の怒りが爆発する。完成させた新田を元の沼地に戻して長州に返却する、それが市兵衛の決断だった。

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149 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/21(水) 21:13:34.05 ID:4x8nXm/F0
●鴻池市兵衛は、鴻池の分家であり、本家ではない
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150 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/21(水) 21:20:19.95 ID:4x8nXm/F0
●鴻池(井上)市兵衛は、江戸時代の享保から、有名な分家だ。
享保年間から市兵衛と、子孫は名乗っている場合がある。
分家の方も、長州のあくどさに嫌気が差して、だんだん幕府よりになる

ここ - 大阪市立図書館
井上(鴻池)市兵衛は鴻池家の別家と考えられ、
大阪でも有方な両替商で、慶応3年(1867)の大阪開市にあたり、幕府から商社取立を


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151 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/21(水) 21:28:13.01 ID:4x8nXm/F0
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1300.html
明治2(1869)年に戊辰戦争が終わってしまうと、そんな奇兵隊の大部隊は、平和時には無用の長物です。
長州藩は、奇兵隊の編成替えを行い、5000人の部隊を2000人の部隊へと人員の大削減を実施します。

もともとは、奇兵隊は農民や町人、商人などからなる非武士軍団です。
それが途中から徴収藩の正規軍団となり、武士団との混成軍になる。
それがいざ解体となると、家柄の良い武士団だけが残され、農民や町民兵は、いきなりリストラの憂き目にあったのです。

首を切られた元奇兵隊員たちは、これを不服として山口県庁を取り囲んだ。
反乱軍となったのです。
知らせを受けた木戸孝允(桂小五郎)は、明治政府の鎮圧軍を率いてこれを撃退した。
そして反乱の首謀者133名を処刑し、遺体の埋葬も禁じてしまう。

さらに逃亡した元奇兵隊員たちは、全国指名手配となり、以後10年のうちにことごとく捕らえられ、投獄され、殺害されたと言われています。

奇兵隊結成時の資金をまるごと供出した白石正一郎は、奇兵隊が5000人の大所帯となっても、その面倒を見続け、さらに元奇兵隊員たちが逃亡生活となると、その生活の面倒まで、裏で見続けた。

ところが、こうした家業を傾けての彼の活動は、結果として商売を傾かせ、結局、彼は明治8(1875)年には、自己破産してしまいます。

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152 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/21(水) 21:39:12.30 ID:4x8nXm/F0
●山県有朋の愚作 山県の命令で、日本の税金で ソ連共産党を大きくして、スターリンに飯くいさせて、北方領土も取られた。
日露戦争での諜報活動
明石(当時の階級は大佐)は日露戦争中に、当時の国家予算は2億3,000万円程であった中、山縣有朋の英断により参謀本部から当時の金額で100万円(今の価値では400億円以上)を工作資金として支給されロシア革命支援工作を画策した。
主にヨーロッパ全土の反帝政組織にばら撒き日本陸軍最大の謀略戦を行った。後に、明石の手になる『落花流水』を通して巷間伝えられるようになった具体的な工作活動としては、情報の収集やストライキ、サボタージュ、武力蜂起などであり、
明石の工作が進むにつれてロシア国内が不穏となり、厭戦気分が増大したとされていた。

●ロシア帝国に反抗していた、フィンランドやポーランドの民族運動を助けるのは当然だが、
ソ連共産党を育成して大きくしすぎたのは馬鹿だった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog176.html
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153 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/21(水) 23:19:37.74 ID:4x8nXm/F0
昭和21年の終戦直後に山口県人が餓死しなかったのは会津出身の最高裁長官のお陰だろ。
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/hp-3-1.htm
http://gonta13.at.infoseek.sk/newpage351.htm
会津出身の三淵忠彦・最高裁判所長官は法廷外の談話で、山口判事が執行を迫られた現行の法律は実効性に乏しいとはいえ、
闇取引を抑制し、生活必需品の調達を改善するという意味で、究極的には有益な目的のものであると述べました。

●●その一方で、生き永らえることは、食糧規制に違反しないことよりも重要であることも認めました。
「ようするに、生きろ」と言うことだよな。
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154 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/21(水) 23:30:04.64 ID:4x8nXm/F0
●山縣一族  うじゃうじゃいるな。

山縣有光
山縣 有光(やまがた ありみつ、1903年6月2日 - 1982年8月16日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大佐。男爵。旧名・船越三郎。
東京出身。男爵・船越光之丞と母・松子(山縣有朋の娘)の三男として生まれ、有朋の養嗣子・山縣伊三郎の養子となり、祖父の功により、1922年2月、山縣公爵家から分家して男爵の爵位を授爵した。
学習院、東京陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科(36期)を経て、1925年7月、陸軍士官学校(37期)を卒業。同年10月、陸軍少尉に任官し歩兵第3連隊付となる。1932年11月、陸軍大学校(44期)を卒業した。
陸軍兵器本廠付(新聞班)、陸軍省軍務局課員、ドイツ駐在などを経て、1937年8月、航空兵科に転じ航空大尉となる。ドイツ大使館付武官補佐官、参謀本部員などを歴任し、1941年3月から1944年12月まで侍従武官を勤めた。
1944年3月、陸軍大佐に進級し、同年12月、浜松教導飛行師団司令部付となり、第6航空軍隷下の第21飛行団長として終戦を迎えた。1945年11月に復員。
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155 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/21(水) 23:33:16.66 ID:4x8nXm/F0
山縣伊三郎
山縣 伊三郎(やまがた いさぶろう、1858年2月6日(安政4年12月23日) - 1927年(昭和2年)9月24日)は、日本の官僚。元老山縣有朋の養子で公爵を継いだ。旧姓、勝津。
略歴 [編集]

明治維新の立役者の一人であった山縣有朋だったが、彼には娘はいても、山縣家を継ぐべき男子の子供がいなかったため、姉の次男である伊三郎を養子とした。
ドイツ留学後、内務官僚として徳島・三重県知事、地方局長、内務次官などを歴任した。1906年に第1次西園寺内閣で逓信大臣として入閣。1908年逓相辞任後貴族院議員に勅選。
1910年には韓国副統監となり、韓国併合後は朝鮮総督府政務総監となり、中枢院議長も務めた。原敬首相により三・一独立運動後の文官朝鮮総督に擬せられたこともある
(実際には予備役海軍大将の斎藤実が就任)。1922年枢密顧問官。1925年に答礼使として仏領インドシナに派遣された。
1996年からJR九州・肥薩線を走っている観光列車「いさぶろう」号は、山縣伊三郎に由来する。彼の逓相在任中に肥薩線が建設され、
矢岳第一トンネルの扁額に彼の揮毫が残っていることから命名された(当時鉄道は逓信省の管轄だった)。

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156 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/21(水) 23:43:27.00 ID:4x8nXm/F0
山縣 正郷(やまがた まさくに、有職読み:せいごう、新字体:山県、1891年(明治24年)2月15日 ‐ 1945年(昭和20年)3月17日、は大正から昭和にかけての海軍軍人。最終階級は海軍大将。山口県出身。

1911年(明治44年)7月、海軍兵学校39期を5位で卒業。同期には伊藤整一大将・遠藤喜一大将・高木武雄大将がいる。山縣本人も含めて、この期の4大将は全員中将で戦死し、死後に大将に特進している。
遠洋航海を終えて1912年(明治45年)3月より香取乗組に任じられ、砲術・水雷学校生徒を挟んで宗谷・扶桑・子日・平戸・浜風に相次いで乗組んだ。この間は主に水雷担当が多く、
のちに航空に転じても戦闘機・偵察機より爆撃機・雷撃機を重視したことの下地になっている。
1917年(大正6年)12月、大尉に進級すると海軍大学校乙種に入校。翌年4月に水雷学校高等科に転じ、軍政・軍令よりも現場で水雷術を極めることを決意する。優等で卒業後も欅乗組・吾妻分隊長・矢風水雷長・有明駆逐艦長と水雷一筋に励んでいる。
1922年(大正11年)12月に海軍大学校甲種に入校し、さらに水雷術に磨きをかけた。卒業後も山城水雷長・横須賀工廠造兵部検査官・佐世保工廠総務部員として魚雷開発・製造の現場で研究を積み、水雷屋として将来を嘱望される身となった。
昭和2年より1年半にわたってイギリスに出張し、造兵監督官として魚雷に加えて機雷・爆雷の研究や掃海術の見聞を深めた。
水雷屋一本槍だった山縣が航空に転じるのは、大佐昇進を目前にした1932年(昭和7年)の人事異動である。航空本部に出仕を命じられ、総務部員に迎え入れられた。
海軍の傍流である航空に違和感を覚えていた山縣だったが、同じく水雷出身の松山茂航空本部長が航空雷撃の実現を目指して研究を推進していたことから、率先して航空魚雷と雷撃機の計画に参入するようになった。
松山や山縣の努力の結晶が、のちに世界初の渡洋爆撃を達成する「中攻」こと96式陸上攻撃機である。
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157 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/21(水) 23:45:34.93 ID:4x8nXm/F0
1934年(昭和9年)11月の定期異動で、山縣は最初で最後の艦長職を空母鳳翔で勤める。鳳翔には上海事変・日華事変で戦果を出してはいたが、
山縣が着任していた期間は日中関係が膠着しており、実戦に投入されることなく、上海方面への示威航海を一度実施しただけで平穏な日々を過ごしている。
1935年(昭和10年)の定期異動で航空廠総務部長として指導的立場となる。さらに1936年(昭和11年)に海軍大学校に招聘され、航空教官となった。
当時の大学校では、前任の航空教官だった加来止男中佐が主張する航空主兵論に対する反発が強かった。
加来の後継者となった山縣は、研究者・現場指揮者の経験を踏まえ、
さらに航空主兵論を具体的に考察し、指導した。やがて大西瀧治郎や別府朋明ら航空現場上がりの後輩が出世し、山縣を支持する勢力となった。
教官時代から航空本部員時代にかけての昭和11-13年頃には、漸減邀撃作戦に航空兵力をフル活用する講演を重ね、戦艦不要論・基地航空隊拡充・飛行艇支援艦艇の採用など、斬新な航空兵力強化を提言した。
ただし、雷撃機・爆撃機優先の傾向が強く、陸上基地で運用する大型陸上機に使命を託す論調が強かったため、山縣から軽視された空母戦闘機の隊員からは不評であった。
また、ドイツ空軍創立に影響を受けた陸軍から空軍独立の提案が出された際には、航空屋としては歓迎だが、空軍が活躍すれば海軍が不要になる結果を生ずる以上、海軍組織を維持するためには空軍独立を認めない見解を示し、航空主兵論者を落胆させた。
また、空軍設立を提案する以上は、目視目標がない洋上での航空術を陸軍飛行隊にも施すべきとする難題を陸軍にぶつけ、空軍独立を断念させる原因を作った。
1938年(昭和13年)に少将へ昇進し、部隊司令官となる。華南駐留航空隊として艦載機で編制した第3連合航空隊司令官に任じられ、華南方面で爆撃・偵察を推進した。
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158 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/21(水) 23:47:30.38 ID:4x8nXm/F0
1940年(昭和14年)12月にまたも航空本部に戻り、総務部長として1940年(昭和17年)3月まで航空隊編制・新型機開発を指導した。
この時、海軍省から配当される兵器用資材が艦政本部に掌握され、航空本部に必要量が回されないことに業を煮やし、航空本部独自の資材調達ルートを確立させるため「児玉機関」をフル活用したといわれる。
昭和17年4月にラバウルの第26航空隊司令官に任じられたが、これが山縣にとって最後の航空隊指揮となった。着任から1ヵ月後、中将に昇進したものの、中将が指揮すべき航空艦隊司令長官はすべて満席で、
1943年(昭和18年)6月に山縣は高雄警備府司令長官に回された。戦場からはるか後方の台湾は平穏そのものであった。
しかしこの年、オーストラリアに脱出していたマッカーサーは反攻の準備を整え、フィリピン奪還に向けて活動を始めた。そこで海軍は、反攻ルートと想定される西ニューギニアに第9艦隊、東インドネシアに第4南遣艦隊を新設し、
マッカーサーを正面から迎え撃つことにした。11月、第9艦隊を遠藤喜一、第4南遣艦隊を山縣に指揮させることにし、
上海と台湾で平穏に過ごしていた39期コンビはいきなり最前線指揮官に引きずり出された。
1944年(昭和19年)5月、マッカーサーは遠藤率いる第9艦隊を全力で撃滅し、遠藤は玉砕した。次はわが身かと決意した山縣だったが、
マッカーサーは半年の準備期間を経て、第4南遣艦隊が待ち受ける東インドネシアを無視し、フィリピンに直接上陸した。
山縣以下、第4南遣艦隊は遊兵化し、1945年(昭和20年)3月をもって戦局に何ら貢献することなく解散することが決まった。
帰国命令を受け、失意のうちに山縣は内地向けの輸送機に乗り込んだが、事故のために中国大陸の福州付近に不時着した。
3月17日、虜囚の辱めを受けざる決意をした山縣は自決し、大本営はこれを戦死と見なして大将に特進して追悼した。
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159 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/09/21(水) 23:52:55.38 ID:4x8nXm/F0
長州信者の嘘を暴いてやるよ。長州出身の昭和の大将がいるじゃないか
太平洋戦争中に、山口県出身者が大将になっているよ。 それも、山口の山縣一族がね。
東条のせいで、長州出身者は妨害された言うのは、海軍では関係なかったみたいだね。
山縣 正郷(やまがた まさくに、有職読み:せいごう、
新字体:山県、1891年(明治24年)2月15日 ‐ 1945年(昭和20年)3月17日、は大正から昭和にかけての海軍軍人。最終階級は海軍大将。山口県出身。



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