- 司馬遼太郎の歴史観について
701 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/08/19(金) 00:52:42.44 ID:s0qDu+dM0 - >>700
かなり長いいきさつがあって・・・ 結局、「西郷隆盛」に関して、司馬と海音寺とでは まったく人物にたいする温度が違っていた、ということだ。
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702 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/08/19(金) 08:53:30.97 ID:s0qDu+dM0 - >>700
省略しすぎたので・ そもきっかけは 「花神」の有名な 彰義隊討伐まえの西郷と大村の対面の場面で 大村の示した薩摩兵の攻撃部署が寛永寺黒門(敵正面)だと知らされた西郷の顔色が変わった という逸話。 「花神」の西郷は「竜馬がゆく」の西郷よりも、大村の引き立て役としての役割を持たされて 江戸城では無用の存在。北越ゆきも無駄足。大村の「やがて足利尊氏のごときものが・・・」という 有名な予言の伏線を演じるためだけに(あと暗殺の遠因を構成するためも含めて)登場する。 もともと司馬はさほど西郷を偉大と思っていなかったんだろうけれども この「花神」の逸話に海音寺がかみついた。
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703 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/08/19(金) 09:11:33.14 ID:s0qDu+dM0 - 司馬はそのときは何も言わず 「坂の上の雲」終了後、
毎日新聞に1972年1月から「翔ぶが如く」の連載をはじめた。 一方、海音寺はその頃、1969年、毎日新聞紙上に有名な引退宣言発表後 史伝「西郷隆盛」執筆に専念中。 「全集」第11巻に旧作分の「西郷」収録後 書き下ろしでその続きを刊行、幕末の全体像を含む西郷の実像の描写に取り組んで 最終的に明治後の西南戦争で西郷が自決するまでをライフワークとして 丁寧にたんねんに、筆をおしみながら書いていた。
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704 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/08/19(金) 09:55:42.85 ID:s0qDu+dM0 - そこに司馬の「翔ぶが如く」連載開始。
司馬流の資料収集と歴史通ぶり全開の語り口で明治初期の薩摩人を裁断。 西郷を無能な虚像として 一般に印象づけることに専念した。 以降は、司馬没後、編集者の発言。 「翔ぶ」連載中、海音寺は終始不機嫌で 司馬の西郷像に苦言を呈していた。 司馬はそれを無視。 1976年9月「翔ぶ」終了。 1977年12月、海音寺逝去。 司馬は葬儀で弔辞を読んでその死をおしんだ。 しかし、80年代に海音寺の「詩経」が中公文庫で出ると、その解説中 海音寺が本文中で従来の解釈を否定した新しい説を展開していたのを 「詩経」は中国庶民の伝統が生んだものとして言下に新説を否定。 井上ひさしとの対談でも、井上の妻が「翔ぶ」をほめ、 西郷は体型からスケープゴートにふさわしい道化ですねというと 司馬はおおいに賛成して 幕末の薩摩藩について調べたことはありませんが 西郷はちょっと日本人ばなれした感じのひとですなwと・・・ 司馬は海音寺の「西郷」をナナメ読みもしていないのではないのかと思うような 海音寺の主張する西郷像の説明文そのままの記述でしか作品にふれておらず さらには「海音寺さんは小説が下手である」という有名な文章を書いて 生前の批判にこたえている。
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