- 戊辰戦争・旧幕府軍勝利の可能性について
327 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/07/31(日) 01:44:26.72 ID:KagjRR7A0 - >旗本のほとんどが使い物にならない、状態でいくら近代化してもね。
中には近代化した行政府でも使えそうなのが居る、榎本は幕臣ながら明治政府で閣僚に。 大鳥圭介は、日清戦争開戦時の清と朝鮮の大使で陸奥外相の命で日清戦争の開戦の準備をしている。 あとは徳川宗家の大久保利通とも言える小栗や外務大臣も出来そうな栗本鋤雲、他に山口直毅、向山一履 甲鉄艦をアメリカで見つけ出して交渉し調達した小野友三郎、京不在が王政復古クーデターをやり易くした とまで言われた若年寄の永井尚志などは旗本だが、徳川新政府の官僚でも使えるだろう。 譜代大名では、慶喜治世下での筆頭老中で征韓論の言いだしっぺの板倉勝静や自分の居城を西洋式の要塞と したり、大政奉還直後に全国の大名の禄高の半分を削って全国統一軍を創設しその総司令官に前将軍の慶喜 を構想した老中兼陸軍総裁の松平乗謨なども閣僚として使えよう。 >上知令の時も旗本や譜代の抵抗があったな そういう意味ではフランスからの600万ドル借款計画がアボンして良かった。 薩摩藩のプロパガンダで600万ドルの起債が失敗したらしいが、そのおかげで旗本領300万石 の内半分の150万石を事実上徳川宗家が収公出来た。 平時だったら旗本の大反対運動で上手く行かなかっただろう。 幕末の最後の幕政改革だったからこそ、旗本領地収入半分収公計画が上手く行った。
|
- 戊辰戦争・旧幕府軍勝利の可能性について
328 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/07/31(日) 02:32:38.23 ID:KagjRR7A0 - それとこの時期は、徳川家による征韓論がかなり検討されている。
南紀派で井伊大老の側近で老中の間部詮勝は、開国と条約の締結を求める勅許の奏請にあたり、 「(13、4年ののちは)海外諸蛮此方之掌中ニ納候事、三韓掌握之往古ニ復ス」る状況を実現する事が 出来ると朝廷を説得したとされる。 守旧派と言われる南紀派も征韓論的な事を言っている。案外南紀派は南紀派で征韓論を考えていたのかもしれない。 文久3年(1863年)5月、対馬藩士の大島 友之允は、老中・板倉勝静の顧問であった山田方谷と会見する。 この時、征韓論だけに留まらず、中国大陸進出を唱えていた山田方谷に 「貴藩困乏斯の如し、何ぞ朝鮮違約の罪を鳴らして、之を征服する策に出でざるか」 と説かれ、これに感化された大島は征韓論を唱えることとなった。 そして元治元年(1864年)には、朝鮮進出の建白書を提出している。 この大島の感化を受けたのが友人である桂小五郎(木戸孝允)であり、後に桂が新政府の高官となるに至って、 大島の論は政局に重大な影響を与えることとなる。
|
- 戊辰戦争・旧幕府軍勝利の可能性について
329 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/07/31(日) 02:40:14.74 ID:KagjRR7A0 - 日米修好通商条約の交渉に臨んだ幕閣の岩瀬忠震は、現代で言えば侵略主義的な考え方を持っていた。
岩瀬は、勝海舟と仲がよく、彼の思想は勝海舟にも受け継がれている。 勝は文久3年(1863)4月27日、桂小五郎と上記の対馬藩士大島友之允に対して次のように述べている。 「当今亜細亜洲中、欧羅巴(ヨーロッパ)人に抵抗する者なし、これ皆規模狭小、 彼が遠大の策に及ばざるが故なり。今我が邦より船艦を出だし、弘く亜細亜各国の主に説き、 横縦連合、共に海軍を盛大し、有無を通じ、学術を研究せずんば、彼が蹂躙を遁(の)がるべからず。 先最初、隣国朝鮮よりこれを説き、後支那に及ばんとす」(海舟日記) これは後の「征韓論」に繋がる考え方です。 そして幕閣として初めて公式に征韓論を唱えたのは老中板倉勝静(かつきよ)で、 文久3年5月に対馬藩の朝鮮進出の請願書を受理しました。意外な感じがしますが、 当時の武家政権である幕政の担当者としては特に過激な考えと言う訳ではない。 そして翌月に、勝に対して対馬差遣を命じています。 その辞令には「朝鮮国の事情探索」とあったそうですが、実際には征韓準備のために派遣されたのです。 ところがその後、板倉と勝は失脚してしまい、幕府による征韓は沙汰止みとなります。
|