- 龍馬暗殺の黒幕4
303 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/07/31(日) 00:09:47.90 ID:59kXRqGM0 - 旧幕府が坂本・中岡ら土佐藩重要人物を暗殺してしまえば、旧幕府は土佐藩と同盟が出来ない。
つまり当時、大政奉還を餌にした土佐藩との提携締結に期待していた徳川慶喜・板倉勝静・小笠原長行・永井尚志あたりは 暗殺命令者からは外したほうが良いだろう。動機があったとすれば、松平容保ら大政奉還に反対の立場の人々ということだ。 尤も、徳川慶喜や板倉勝静あたりは病的な門閥主義者だったから郷士出身の坂本など消したかった、とか書かれると、 そうかいそうかいと言うしかないが、この場合は門閥主義で当時必須の土佐藩との提携を逃した大馬鹿者ということになる。 大政奉還は、京都にやってきていた一部の諸侯、尾張や越前、土佐や安芸を、徳川慶喜が味方に引き入れる餌にはなったはずだった。 現に安芸は大政奉還発表後、薩摩と提携した武力討幕には急に消極的になってしまった。 しかし彼らは、全国の諸侯による会議の一人という位置では満足しなかった。 その結果が王政復古だった。これら一部有力諸侯の要求は、当時権力の中枢にいた会津桑名の排除だった。 この両藩を外し徳川慶喜の地位を弱めた後なら、公儀政権を自らの発言の場として使えるという判断があった。 薩摩はこれら諸侯を反会桑の立場から焚き付ける一方で、 更に、徳川慶喜も含めた一会桑全ての全面排除を目指し、長州を自軍の一部として京都に引き入れた。 ここに鳥羽・伏見の戦いが発生する状況が生まれた。
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305 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/07/31(日) 01:35:02.66 ID:59kXRqGM0 - 坂本自身の政論は、幕府勢力への武力討伐にあったと思われる。
ゆえに次政権構想で徳川慶喜が首班になるだなんて、一語も書面に記していない。 大政奉還による公儀政権成立の構想は、徳川慶喜や山内容堂、板倉勝静や永井尚志が勝手に見た夢だ。 大政奉還のもう一つの側面は、薩摩が希求したもの、幕府を政権の座から引き摺り下ろすことにあった。 坂本らは実はこちらを意図していたと私は思っている。 坂本や中岡らは大政奉還と同時期に、薩土盟約締結と土佐への武器供給、乾(板垣)退助ら尊王攘夷派への討幕思想の教化にあたっており、 土佐藩を更に討幕色に染めていった。 しかし、既に坂本も中岡も土佐藩中枢にいた。彼らを旧幕府が殺してしまえば、旧幕府と土佐藩との提携など無理だ。 しかも、坂本・中岡の暗殺と相前後して、旧幕府関係者が後藤や福岡ら土佐藩要人を付け回し暗殺の機会をうかがっていたのだから、 土佐藩が旧幕府の味方になどなれるわけがない。現に坂本・中岡暗殺後、後藤ら土佐藩公武合体派は容堂を除き薩長討幕派に急接近してしまう。
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316 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/07/31(日) 17:37:28.85 ID:59kXRqGM0 - 坂本龍馬の寺田屋遭難事件は、土佐藩による京都幕府当局への大政奉還提案の前なのだが。
時間軸を適当に捻じ曲げて、自説が正しいと言ってみても、つじつまは合わない。
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317 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/07/31(日) 17:53:48.90 ID:59kXRqGM0 - 寺田屋における幕吏による捕縛未遂、幕吏射殺と自身の重症逃亡、薩摩による保護移送の後、
坂本龍馬は大政奉還の実務提案者として、土佐藩代表の形で在京都幕府首脳部と折衝を重ねることになります。 その幕府側代表者の中には永井や松平容保の姿がありました。 この時点で、坂本龍馬の政治的な立場は表面上一変しているわけです。 徳川慶喜らが大政奉還に積極的になった理由は、諸侯を味方にする道具として 大政奉還のもたらす諸侯の国政参加を利用できるという読みがあったからでした。 旧幕府にとって、大政奉還を実効あるものにするためには、土佐藩を敵にするのは良くありませんね。 永井は大政奉還に乗り出した関係上、他の旧幕府要人よりは坂本龍馬暗殺には手を出しにくい状況なのですよ。 そんな人より、大政奉還に全面反対し撤回を運動した松平容保の方が、よっぽど暗殺命令者たる要件を備えているのですけどね。
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330 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/07/31(日) 21:05:51.07 ID:59kXRqGM0 - >>322
ますます論理外れもいいところだ。 君の見解では捜査対象となった人間が警察署に出向いても、誰も捕まえないのに 後で自宅を襲うことになる。 大政奉還時に永井や松平容保と坂本龍馬が会見したことが、君の意見では省略されてしまっている。 都合の良いときだけ引用し、別の場面では正反対のことを語りこの時は引用を避ける。 小林の意見があてにならない理由も、このご都合主義にある。
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331 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/07/31(日) 21:15:34.60 ID:59kXRqGM0 - >>322
君自身に対しては、すっかり君の意見が錯誤である事を指摘されていながら、これは無視し、 他人に対しては、意見は正しいとしながら論理も出さず不十分だと主張するとは。 君の意見でまともなものは、このスレが立ってから一度も書かれたことがないのを不憫に思う。 異説を出したいのなら、何故その異説が否定されたのかの論理も踏まえて、新たに納得させる考察を組む必要がある。 君の意見には、一度もそのようなものがない。 松平容保の犯行以外の既存説を話しては、袋叩きにあって他人へ不平を言い立てるのみなのか。
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339 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/07/31(日) 21:57:02.25 ID:59kXRqGM0 - >>334
ますます論理が外れている。 旧幕府と土佐藩が共同で坂本竜馬を殺した場合、旧幕府は実行犯になることが出来ない。 史実では、坂本・中岡の暗殺後、土佐藩内から両名の暗殺を防げなかった京都の藩邸(後藤・福岡ら)への糾弾が相次ぎ、 その上、旧幕府関係者の刺客による脅迫や周辺徘徊が相次ぎ、京都の土佐藩邸からは要人が逃亡、 あげくの果てに公武合体という政治指針を失って、薩長討幕派の意見を土佐藩がコピーするまでに右往左往することとなった。 旧幕府と土佐藩公武合体派が提携するために坂本・中岡を殺したのなら、 土佐藩内で始末しないと、両者の関係が破綻してしまうし、史実でもそうなった。 事実上、山内容堂の上意による粛清しか、こちらの方向での手段がない。 そして、旧幕府内の反大政奉還勢力の跋扈と、大政奉還を進めて人間への脅迫という、当時大きく記載されている事象を 殊更に無視する行動でもある。中村彰彦あたりは大政再委任運動自体を無視するが、これは歴史を直視できない故なのだろう。 坂本と中岡の暗殺時までは、後藤や福岡ら土佐藩内公武合体派は我が世の春を楽しんでいた。 薩摩では既に、旧幕府内の大政奉還に反発する不穏な空気を察知し、要人の京都退去が始まっていたのに。 土佐藩公武合体派は、大政奉還によって公儀政権の先鞭となり、 徳川慶喜ら旧幕府首脳との良好な関係を維持できると見込んでいた。 坂本と中岡は公武合体派に大政奉還提案を行い、この功績で土佐藩の最重要人物の一人に変貌していた。 一方、討幕主義が土佐藩の下級兵士を中心に浸透し、その頂点には土佐藩兵を統括していた乾退助がいた。 そして、旧幕府勢力内の誰かが、彼ら土佐藩の全てを襲った。 公武合体、つまり大政奉還を推進した人々の犯行の可能性は薄い。何故なら彼らは土佐藩との提携を求めていたのだから。 すると容疑者として残るのは、大政奉還に反対した松平容保らになる。
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342 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/07/31(日) 22:41:04.44 ID:59kXRqGM0 - >>341
「慶喜公伝」の会津藩の話は、会津藩関係者(山川?)からの聞き取りです。 「京都守護職始末記」の中の、松平容保が大政奉還に賛同した、という記述もありますが、 これも著者は山川で、しかもこれらは同時代の複数の史料と正反対の記述です。 「丁卯日記」(松平春嶽側近) 手代木の話として、手代木も藩主松平容保と同じく大政奉還に絶対反対するとの記述 「魚水実録」(板倉勝静側近)、川路聖謨書簡にも、京都からの便りとして松平容保が大政奉還を聞いて怒り狂った旨の記述があります。 復古記や岩倉具視の書簡はご存知でしょうね。
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345 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/07/31(日) 22:58:36.69 ID:59kXRqGM0 - >>343
しかし、大政再委任運動は、坂本龍馬が暗殺された時点における旧幕府の主流なんですよ。 徳川慶喜と、大政奉還に賛同意見を出した数人の旧幕臣を除き、旧幕府は大政奉還を拒否していた。 その、大政奉還に反対した旧幕臣の代表格が、松平容保です。 松平容保以外に坂本龍馬暗殺命令者を探しても、いくら考えても袋小路なんですよ。
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346 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/07/31(日) 23:00:45.43 ID:59kXRqGM0 - >>344
>岩倉の書簡は信用できないらしい 根拠不明。岩倉が怪しいなら、虚言と文中の明白な虚飾嘘が判明している勝海舟の日記など、何も引用できません。
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347 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/07/31(日) 23:17:37.94 ID:59kXRqGM0 - >>343
坂本・中岡暗殺実行犯が見廻組隊士であることは、 現在では各種史料及び当事者らの証言によって、ほぼ間違いないとされています。 見廻組を事実上指導していた組頭の佐々木が行った暗殺事件ですので、 旧幕府内以外に暗殺命令者が見当たりません。 先に述べたように、大政奉還は徳川慶喜の実行したことであり、板倉や永井は大政奉還を支持していました。 坂本・中岡の暗殺及び、その前後の旧幕府内の反大政奉還勢力による、土佐藩への脅迫・暗殺をほのめかす徘徊によって、 徳川慶喜らが狙っていた土佐藩取り込みは、無残な失敗に終わります。 つまり、坂本・中岡暗殺犯は、旧幕府勢力内で、徳川慶喜ではない、板倉でもない、小笠原でもないし、永井でもない。 すると大政奉還に強硬に反対していた、松平容保らに絞られてきます。
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