トップページ > 日本近代史 > 2011年07月24日 > tDDO21mz0

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名無しさん@お腹いっぱい。
龍馬暗殺の黒幕4

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龍馬暗殺の黒幕4
79 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/07/24(日) 10:02:50.92 ID:tDDO21mz0
>>66>>67
わたしは君に注目している。君はいつもあらゆる可能性について検討しようという姿勢が感じられるからだ。
ところで66と67で君が言いたいことは、要するに見廻り組の背後に土佐藩がいる、ということもありうるし、
土佐藩の重役だけの意向で見廻り組に竜馬暗殺を依頼することもできる、という考え方だね。
>>68
1 見張り役だと証言したのは明治3年の証言だから信用できない。後年の証言は信用できる。
2 たしかに容保は反対だったかもしれないが、諦めていたフシもある。ただしまだ一応、容保も黒幕の一人に想定しておく必要があるとは思っている。
>>74
>中岡証言からは、逆に論理的に、実行犯は見廻組ではあり得ない
どういう論理でそう言えるのかが分からない。もしよければ説明してほしい。
龍馬暗殺の黒幕4
81 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/07/24(日) 10:55:52.08 ID:tDDO21mz0
尾張藩の記録に永楽屋と出てくるのが気になっていたのだが、とあるブログで次の記述を見つけた。

「吉井幸輔」

事件当夜、京都薩邸にいた吉井は田中顕助の急報により、彼と共に近江屋に駆けつけ、重傷の中岡を励ましたことになっている。
だが、先に書いたように西尾氏は百万遍の知恩寺墓地にて住職から当夜、吉井は薩邸におらず、祇園町の茶屋「永楽屋」から近江屋へ駆けつけたという話を聞きつけた。

しかも吉井は田中にこのことは絶対口外しないでくれ、と口止めしていたらしい。祇園の茶屋で遊興していたと知られたくないから、というのだが…
龍馬暗殺の黒幕4
82 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/07/24(日) 11:11:27.89 ID:tDDO21mz0
『尾張藩雑記 慶応三年ノ四』

近江屋新助方ニ止宿土藩浪士頭齋谷梅太郎右方エ九人斗帯刀人這入リ梅太郎切害ニ及ビ其節残居候品、
刀身壱本ト下駄弐足、右下駄焼印有之、一足ハ二軒茶屋中村屋印、一足ハ下河原......堂印有之段々承様候処、
祇園町永楽屋へ遊興ニ罷越候者三人ノ内、一人ハ土佐藩、二人は佐土原藩ノ良申立居候へ共、全ハ当時白川ニ旅宿罷在候坂本龍馬ノ徒党ノ者ノ良相聞候へ共、
聢ト佐様ハ未相分、猶探索ノ上巨細申上ベク候。以上。十一月廿日。

なぜここに永楽屋のことが出てくるのか、分かる人はいませんか? 知っていたら教えてください。
こういう細かなことを詮索することで、事件の真相にたどり着けることもあるのですから。
龍馬暗殺の黒幕4
83 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/07/24(日) 11:25:57.53 ID:tDDO21mz0
通説では事件の報を近江屋から受けた京都土佐藩邸(近江屋の目と鼻の先)から、谷干城らがおっとり刀で駆け付けたことになっているが、
実際は、谷はすぐに救援に向かわず、当時、京都藩邸の責任者であった福岡孝悌(そのとき祇園の茶屋にいた、後藤象二郎は土佐に帰っていて不在であった)に連絡し、
福岡が藩邸に戻った後、その指示でおもむろに近江屋に出向いている

上は、あるブログから拾ってきた記事であるが、谷の講演録では谷は河原町三条上ルの大森から駆け付けたと言っている。
上のような記録がどこかにあるのだろうか。知っていたら教えてください。
龍馬暗殺の黒幕4
84 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/07/24(日) 11:32:22.23 ID:tDDO21mz0
上の記事では

福岡孝悌(そのとき祇園の茶屋にいた、

となっているが、祇園の何という名の茶屋にいたのだろうか。知っている人は教えてください。
もし永楽屋にいたのなら、陰謀の匂いがプンプンするのだが。
尾張藩の記録に永楽屋とでてくることとも関係しているかもと思われるのだが。
龍馬暗殺の黒幕4
85 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/07/24(日) 12:25:49.25 ID:tDDO21mz0
福岡が祇園の茶屋にいた、というのは「福岡回想談」というのに書かれているらしい。
誰か読んだ人はいませんか?
龍馬暗殺の黒幕4
86 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/07/24(日) 12:38:13.71 ID:tDDO21mz0
「神山左多衛雑記」『坂本龍馬全集』

同年十一月十五日
永楽屋に留連して朝五時半頃、富田、田中、藤次、自分四人中村屋へ転席飯酒を呼、妓も来る(中略)黄昏、尾鶴へ転席、熊沢氏の巣窟也。此時藤次、熊沢、宇和林に今一人并下村省助、田中幸助と自分七人也。
町奉行より今日宮川祐五郎を受取、河原町御邸牢家へ入れ候事、今夜五過比尾鶴より藤次、幸助自分一時に帰る。自分一人松力へ行、三人共籠也。松力へ行否、我宿より家来申来には、才谷楳太郎等切害せられ候よし、
仍而直に藤次下宿へ行、諸事手賦等取扱致候事。但楳太郎即死。石川精之助数ヶ所疵受、楳太郎家来深手也。

自分で別の史料を見つけてきた。これによると福岡藤次は朝五時半頃、永楽屋から中村屋に移り、黄昏、尾鶴という料亭?に移り、五時過ぎ頃、尾鶴を出たことが分かる。
ところでここに出てくる熊沢氏というのは誰だろう。
龍馬暗殺の黒幕4
87 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/07/24(日) 12:49:47.68 ID:tDDO21mz0
上の史料を見ても宮川を藩邸の牢屋に入れた日なのに、藩の重役が揃いも揃って、
芝居見物や料亭で遊興しているのはなぜだろう。おかしい。


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