- 会津戦争で蛮行の限りを尽くした鬼畜薩長人を斬る!3
423 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/07/09(土) 20:24:27.83 ID:XxWGPMXB0 - 会津松平家救済事件顛末
明治34、5年頃、会津松平家の財政難を救おうと、山川健次郎が以前から良く知っていた谷干城や日銀の富田鉄之助に相談を持ちかけました。 この時、既に容保公は亡くなっており、容大公が家督を相続し、明治17年の華族令によって3万石に相当する子爵を授けられていました。 その当時、会津松平家は財政的にも社会的にも行き詰まり、全くゆとりの無い状態になっていました。その為、旧藩士達は月々幾ばくかのお金を出し合って援助していました。 そして、この余りにも酷い状態を何とか救えないものかと山川が相談を持ち込んだのでした。 相談を持ちかけられた日銀の富田は、政界に力を持っていた三浦梧楼に相談します。三浦梧楼は、元長州藩出身ですが義侠心のある人だったので山県有朋や伊藤博文に会津松平家救済を頼みますが、「順逆が乱れる」といって首を縦に振りませんでした。 三浦は以前から、“会津と長州は戊辰戦争時に順逆の両極端に立ち、終始一貫した態度を貫き通した。会津藩はあれだけの事があったのに、内部には何も反対は起きず、不平も起きず、一糸乱れない態度でいられたのは不思議だ”と思っていました。 そこで三浦は、 この話が持ち込まれた時に山川を案内役として会津松平家の屋敷を訪れたそうです。 そこで見た色々な文書の中には孝明天皇からの御宸翰などが有り、その御宸翰には“万が一という時には会津だけを頼りにしている”と書かれていました。 三浦は、孝明天皇の会津藩に対する御信任の厚さを知り、今まで長州側が言っていた順逆論の危うさを思い知り、大きな衝撃を受けました。 三浦は、孝明天皇の厚い信任があったからこそ、会津藩は終始一貫した態度をとっていた事を知りました。更に、会津藩のとった行動こそが“道理にあったもの”では無かったか? それでは、長州藩のとった行動は・・・?と思い悩み始 めます。そんな気持ちを抱えて三浦は山県に会い、会津松平家の救済を強く訴えました。山県も遂に折れ、宮内大臣の田中光顕に相談する様に言いました。 しかし、田中は頑固に「それは出来ない」と言い張ります。そこで三浦は会津松平邸で見た御宸翰の話をし、「会津を今のままの状態にしておくと、順逆の理が立たない事になってしまう。 それに、今、御宸翰を表に出されて仕舞っては大変な事になってしまうのではないか?」と切々と話しました。 それを聞いた田中は、「御宸翰は、絶対に出させない様にしなければならない」と大慌てし始めます。 そして漸く、“御宸翰を出させない事”という条件で会津松平家救済の為にお金が下賜されました。(この時下賜されたお金は、三浦の残した本には5万円とあり、 『男爵山川先生伝』には3万円となっているそうです)
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