トップページ > 日本近代史 > 2011年06月04日 > mrTw4rOR0

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名無しさん@お腹いっぱい。
忍法帖【Lv=12,xxxPT】
【A級戦犯】近衛文麿・広田弘毅【大政翼賛会】
京都守護職会津藩9代目藩主・松平容保
坂本龍馬ってただの武器商人だろ?
【五大藩】加賀藩・薩摩藩・仙台藩・紀州藩・長州藩
大塩平八郎の乱 其の二
【国学者】本居宣長・平田篤胤・塙保己一
【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3
【山伏】山岳信仰について語ろう2【修験】
【三十一谷人】福沢諭吉について(その7)

書き込みレス一覧

【A級戦犯】近衛文麿・広田弘毅【大政翼賛会】
29 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/06/04(土) 10:00:13.19 ID:mrTw4rOR0
近衛新体制運動は完全な売国行為。
共産主義運動としか言いようがない。
京都守護職会津藩9代目藩主・松平容保
206 : 忍法帖【Lv=12,xxxPT】 []:2011/06/04(土) 10:07:53.64 ID:mrTw4rOR0
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坂本龍馬ってただの武器商人だろ?
186 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/06/04(土) 10:10:22.19 ID:mrTw4rOR0
しかし、そもそも亀山社中に武器購入の仲介が可能だったのは、龍馬が薩摩藩の家老小松帯刀を通じて武器商人グラバーと知り合っていたことによる。
グラバーと龍馬の出会いなくして薩長同盟は成立しえなかったのだ。

[図解]坂本龍馬の真実 著者: 日本博学倶楽部
【五大藩】加賀藩・薩摩藩・仙台藩・紀州藩・長州藩
10 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/06/04(土) 11:31:26.81 ID:mrTw4rOR0
津藩も石高は一丁前だが幕末の政界で威力を発揮できなかったね
一応藤堂家は伯爵だけど
大塩平八郎の乱 其の二
30 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/06/04(土) 11:33:29.56 ID:mrTw4rOR0
列強の植民地にならなかったのは
大塩さんのおかげ

吉田松陰なんてただのチンカスです。大塩さんは日本の神様です。
【国学者】本居宣長・平田篤胤・塙保己一
1 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/06/04(土) 11:39:40.46 ID:mrTw4rOR0
19世紀の国学者達を集めて其々の思想を研究しましょう。

関連スレ
江戸の国学
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/kobun/1010049442/
本居宣長の古学
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/kobun/1306226236/

廃止スレ↓
【国学者】本居宣長
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history2/1305979095/
【国学者】本居宣長・平田篤胤・塙保己一
2 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/06/04(土) 11:42:31.16 ID:mrTw4rOR0
塙保己一史料館・温故学会ホームページ
http://www.onkogakkai.com/
本居宣長記念館
http://www.norinagakinenkan.com/
平田篤胤翁
http://miyoshijinja.ftw.jp/hirata.html
【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3
38 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/06/04(土) 14:01:27.35 ID:mrTw4rOR0
幕府の大将は田沼。慶喜は加賀藩に預けていて、幕府の田沼が慶喜に身柄を引き渡すよう要求し
慶喜が同意し加賀藩から幕府に引き渡されたことで虐待が始まったのであって、
虐待の判断・権限は田沼に帰す。慶喜は田沼に引き渡したことで非難はされたが、
虐待や大量処刑の権限は田沼・幕府によって執り行われた。
【山伏】山岳信仰について語ろう2【修験】
4 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/06/04(土) 14:15:57.78 ID:mrTw4rOR0
92 日本@名無史さん 2005/08/09(火) 21:09:13
笠置山も吉野も葛城・金剛山も修験のお山。
後醍醐天皇の足跡と修験はかなりだぶりますね。
【国学者】本居宣長・平田篤胤・塙保己一
4 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/06/04(土) 15:17:45.92 ID:mrTw4rOR0
19世紀は完全に近代史の範囲。
【三十一谷人】福沢諭吉について(その7)
215 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/06/04(土) 18:34:22.62 ID:mrTw4rOR0
福沢諭吉も、熱海温泉に行ったことがある。 ふと、その旅館は、のちに阿 部泰蔵が怪我をした鈴木旅館・別館と同じだろうか、と思ったので、調べ始め た。
 『福澤諭吉事典』は、VI表象の「旅行地図」に、世界と日本の福沢の足 跡をまとめてくれているので、とても便利である。
 「中部・東海」のページ で、「熱海」には(1)明治3年9月と(2)明治17年6月の二度、行っている ことがわかる。

 そこで『福澤諭吉事典』IX年譜を見る。 明治3(1870)年の5月中旬、福 沢は発疹チフスを発病し、一時は人事不省、危篤に陥ったが、
伊東玄伯、石井 謙道、島村鼎甫、隈川宗悦、早矢仕有的、近藤良薫、アメリカ人シモンズ、イ ギリス人ウィルスらが診療看護に当たり、快復した。
 (1)9月14日「病後 保養のため、家族ならびに近藤良薫と熱海温泉に出立、二週間滞在。」 
(2) 明治17(1884)年6月16日「妻錦を同伴して熱海へ出掛ける。三〇日帰京。」
http://kbaba.asablo.jp/blog/2011/06/03/5895159

それから『福澤諭吉書簡集』の、その当時の書簡を見てみた。 何と、明治 3年10月22日付の、阿部泰蔵宛書簡があるではないか。 
しかも書簡の大意 に【熱海温泉滞在中の世話を謝し、島原藩屋敷地取得交渉の進展、普仏戦争に ついて感想など伝える】とある。 
手紙には「入湯中ハ長々御約介罷成難有奉 存候。三島ニテ御別れ申、私共ハ其日湯本ヘ参り両日滞留」とある。 
注記を 読むと、阿部はこの時帰省の途中であったが、熱海温泉で福沢と二週間同宿し、 『阿部泰蔵一代記』に記事があるという。 
『阿部泰蔵一代記』、インターネッ トでKOSMOSを検索したら、三田の図書館旧館の地下1階にあることがわか ったが、まだ見ていない。 
その後、『福澤諭吉全集』第21巻の「書簡集補遺」 にある上の10月22日付書簡の注記に、その記事の引用があるのを見つけた。

 参考文献に富田正文著『考証 福澤諭吉』上があったので、参照する。 337 頁「家族六人と主治医の一人近藤良薫を伴い」、
「東京を二日おくれて出発した 門下生阿部泰蔵と甲賀信夫も同宿し、帰途三島で阿部と別れ、
箱根を下駄ばき 徒歩で越し、塔ノ沢、湯本に湯治し、更に江ノ島、鎌倉をまわり、金沢に一泊、 横浜に三泊し、十月十日に帰京した。」
「この熱海・箱根の湯治が、諭吉の温泉 保養の初体験で、その後はしばしば箱根を訪れ、福住喜平治とも懇意となり、 温泉地開発の相談にも乗り、
旅館経営の経済的援助にも力を貸すほど親密にな ったが、この時より前には、温泉に逗留したことはなかったもののようである。」
ということがわかったが、残念ながら、熱海の旅館の名前は判らなかった。
http://kbaba.asablo.jp/blog/2011/06/04/5896140


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