- 徳川慶喜を語ろう
208 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/04/28(木) 08:35:01.10 ID:ltGzRIHd0 - >>203
>小笠原の率兵上京 京都の公卿たちが尊攘激派の脅しにビビって慶喜の工作が上手くいかない時期だったけ?。 生麦事件の賠償問題で、攘夷派が譲位決行を叫び、公家衆ばビビって同意。慶喜が手詰まりになっていた。 しかも将軍家茂が上洛中で、朝廷の上位要求が直接家茂に言い渡されれば拒否できないので、 慶喜は家茂を江戸へ帰らせようと調停工作するも、そうはさせまいと尊攘派も公家工作で対抗という情勢。 江戸では、イギリスとの戦争を避けるため賠償金の支払いに応じた。 朝廷の要求を無視したことで、公家衆の非難が幕府に集中した。 慶喜は、幕府と朝廷の仲介役だったはず。それでその仲介役を「やめた!」と放り出し、江戸に帰り、 賠償金を支払った老中小笠原に「張本人である君が朝廷に報告するように」と言った。 小笠原は激怒して軍を率いて京都へw。ビビった朝廷は家茂に江戸へ帰る事を認めた。 尊攘派が反対したが、幕府軍が京都へ進撃中の報告の方が脅しとしての効果が絶大だった。 結果、慶喜が目指していた「攘夷命令を受ける前に家茂を江戸に戻す」が成功した。 完璧ジャン
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