- 徳川慶喜を語ろう
193 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/04/12(火) 05:30:16.97 ID:/D4R2I/y0 - >>190
渋沢栄一を重用したあたりは、井上と慶喜は近いけど、あとはあんまり近い感じしない。 井上は輔弼の能力はかなりあったと思われる。あと、世間の動きを見る能力。 本来ならば保守派に属する家柄の生まれにも関らず、志道家に養継嗣に出て、 安政年間に早くも高杉たち過激グループと交わり、その一方で長井・周布とも 仲良くしていて、長井失脚後は品川御殿場英国公使館焼き討ちにも参加。 海外留学にも率先して割り込んで、上海で早くも攘夷はやめたと公言。 帰国後は攘夷戦争やめさせるために藩主親子のまえで大激論して切腹までやろうとする。 テロにあっても考えは曲げず、絵堂太田戦争後は鴻城軍指揮官、藩政府の外交官、 幕府の勝との講和交渉役。明治後の政府の財政建て直しを具体的に計画したのは彼だし。 生まれも育ちもそこそこいいのに経済の仕組みが理解できていた不思議な人物。 まあ山岡鉄太郎から罵倒されても、江藤からコケにされても、西郷から揶揄されても、 テコでも動かないところがあったのは自分自身の考えに自信があったからだと思う。 鹿鳴館の舞踏会の主催。朝鮮国母暗殺後の騒乱鎮定のための渡鮮。 伊藤にも山縣にも言いたいことが言えた貴重な人物だし、汚職ばかり取り沙汰されて、 田中角栄なみにその能力を過小評価されてしまってる。 慶喜とは関係ないけど、後世、的確にその業績が認められてない人物の一人ではある。
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