- 戊辰戦争・旧幕府軍勝利の可能性について
128 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/04/03(日) 20:49:51.97 ID:phkPsDsP0 - 1867年の12月9日の王政復古のクーデターは、有名だが、
実は、同年11月には、大政奉還への不満や、薩摩藩兵と長州藩兵の大挙上洛に対する警戒などから 佐幕派諸藩や幕臣だちが佐幕派クーデターともいえる計画を建てている。 ちょうど坂本龍馬が暗殺される直前に立案され、大垣藩藩士の井田五蔵が佐幕派諸藩を代表して 在京老中に進言しているが、大垣藩の後ろには、紀州藩や津藩(この時点での)などの佐幕派諸藩 が控えていた、当然会津藩や桑名藩もこの考えを後押ししている。 この佐幕派クーデターの内容は、兵力を京に集中させ始めている薩摩藩打倒クーデターであり対薩摩藩邸先制攻撃案だった。 長州藩の各地の藩邸は、禁門の変の後に全て接収破棄されており、江戸はもちろん京や大阪には 長州藩の大規模な公式施設(藩邸など)は無い、あるのは薩摩藩の藩邸であり、その為に幕府陸軍と 佐幕派諸藩による薩摩藩とその支藩である佐土原藩の京と大阪の藩邸への先制攻撃プランとして作成された。 また、この幕府陸軍と佐幕派諸藩の薩摩藩邸先制攻撃により京がパニック状態になったスキに、 京都御所に幕府陸軍の特殊部隊が突入し、明治天皇を拉致して大阪城まで搬送、 その後幕府陸軍と佐幕派諸藩は、明治天皇を頭に立てて大阪城に立て篭もり幕府海軍と 一緒に西南討幕諸藩と迎え撃つ計画だった。 また、江戸にいる幕府陸軍の上洛西進を同時に開始する事も計画されている。 特に京と大阪の薩摩藩邸は、この作戦の最重要攻撃目標であり、京都御所の裏の「相国寺二本松藩邸」や 「伏見藩邸」、「小松原薩摩藩調練場」等が京での攻撃目標になった。 また、大阪の薩摩藩邸は、土佐堀2丁目に「上屋敷」、江戸堀5丁目に「中屋敷」、立売堀西之町に 「下屋敷(蔵屋敷)」があり、この三箇所が攻撃目標となった。 これらの作戦を聞かされた徳川慶喜は、大慌てで反対し、実施しないように宥めている。 慶喜は、これから開かれる朝廷での諸侯会議での首班指名に掛けており、自らの武力行使で 政権維持を図るつもりは無かった。 しかし、慶喜側近の幕閣にも少なからずこの案に賛成する者もいた、若年寄の永井尚志などがそうで、 彼は、大政奉還後に続々と薩摩藩兵が上洛している事を察知、事前にこれを阻止する処置を慶喜に 進言したが、慶喜からは神戸開港の準備を命ぜられてしまい、永井は薩摩藩兵の上洛阻止が出来なかった。 年末の永井尚志の不在が、薩長の王政復古のクーデターをやり易くした、とする声さえある。
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