トップページ > 日本近代史 > 2011年03月04日 > jIp6ZLo50

書き込み順位&時間帯一覧

11 位/94 ID中時間01234567891011121314151617181920212223Total
書き込み数1200000000000000000000003



使用した名前一覧書き込んだスレッド一覧
名無しさん@お腹いっぱい。
35
大鳥圭介って過小評価されてるよね?

書き込みレス一覧

大鳥圭介って過小評価されてるよね?
34 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/03/04(金) 00:44:10.41 ID:jIp6ZLo50
>>30
大鳥にはよく、他人に対しては自分をピエロにして強がる言動がある。
同じ大鳥圭介伝で、大鳥が人生で死を覚悟した三度のことの第一に、
降伏の時を挙げている(後の二つは日清戦争と小田原津波)。
「獄に下って以降も確かに極刑を期していた」と大鳥自身の言葉がある。
降伏時「砲は裂け艦は摧け吾が事終る、幡然衆に代わってこの躬を殺す」
と、死を覚悟する漢詩を詠んだ。
「今よりは 世を捨つる身」と獄中でも身の終焉を和歌で詠んだ。
「我々を誅戮して自余の脱走人を寛典に処したまえ」と獄吏に告げた。
「死生の境」では大鳥らは赦免の直前まで死罪か釈放か知らされておらず、
今日首を取られるか明日斬罪になるか「血も枯れる思い」だったとある。

大鳥圭介って過小評価されてるよね?
35 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/03/04(金) 01:20:51.99 ID:jIp6ZLo50
>>33
「薩長寛猛之違」が明治五年一月十二日の西郷→桂四郎書簡のことなら、
「長州人も近来は思ひ當り寛論相立候得共、木戸一人之處置六ヶ敷御座候」
黒田が赦免すべしという寛論を主張し、長州でも寛論が出たが
木戸が一人死刑に処すべしという猛論を主張した、という事。

なお、五稜郭史 (片上楽天、1921年、懐旧館) に、この議論が、
「四年十二月の時、顕官長州出身の木戸孝允は突如最も乱暴極めて
非常識然たる暴論を主張して云ふ、国賊榎本らはまだ壮年、
彼ら身を終る迄飼ひ殺しは頗る厄介。宜しく引摺出して斬首せん
…望みとあらば先ず卿(黒田)を血祭る又可らん」
と、煙草盆が飛び椅子が舞わんばかりの光景だった、とある。

大鳥圭介って過小評価されてるよね?
36 :35[sage]:2011/03/04(金) 01:41:43.47 ID:jIp6ZLo50
(続き)
しかし実は木戸は、本当は榎本らを救いたかったのだが、
維新の旧幕対薩長という立場上、それはできなかった。
なので、木戸は殊更、極めて突飛な暴論を吐いて、反対論を喚起させようと
試みた。その奇計が見事に的中し、黒田によって特赦説が出されたのである、
と著者は述べている。



※このページは、『2ちゃんねる』の書き込みを基に自動生成したものです。オリジナルはリンク先の2ちゃんねるの書き込みです。
※このサイトでオリジナルの書き込みについては対応できません。
※何か問題のある場合はメールをしてください。対応します。