- 徳川慶喜を語ろう
138 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/02/15(火) 11:51:51 ID:mZWLiR7k0 - >>134
いやいや、確かに薩摩は色々画策するだろうが、とりあえずあの時点では他に手はなかった訳で。 あのまま話が進んでいれば、薩摩が変な動きしないよう土佐が面子にかけて目を光らせるだろうから、 京で慶喜を加えた政治的な第2ラウンドが始まったであろうことはまず間違いない。 軍事的な圧力は既に大坂城に大軍が入ってる時点で十二分なわけで、んだから薩摩も率兵上洛だけでも 何とか阻止しようと躍起になってる。 そもそもの慶喜の不幸は、幕内の不満を押さえ込むために最もリスキーな手を取らざるを得なくなってしまったこと。 徹底恭順とは言っても、辞官納地なんかは容堂や春嶽が頑張って有耶無耶になってた訳で。 それがあの進軍で全て台無しになった上に、その後の敗北で公議政体派も薩摩に抗う事が出来なくなってしまった。 その進軍にしても、この大軍で寡兵に負ける筈がない=薩長が抗う筈が無いという甘い目算が随所に見える杜撰なもので、 結局は>>110にあるように、幕府全体では兎も角、幕府中枢においては薩長の中枢に比肩できるような有事を担える人材がいなかった事と 最後まで意志の統一を図れなかったことが、政治的にも軍事的にも敗れた原因だろうと思う。 内乱自体は、特に恐れてなかった様にみえるな、薩摩の行動は。 おそらく、近代化に成功してない藩の軍がどの程度のレベルか、第2次長州征伐の時に見切ったのではないかと。 日本海側-下関-大坂-江戸の物流が止まったら、1866年のように一揆祭りになる危険もある。 野島崎廻りの航路はまだ危険な時代だから。
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