トップページ > 日本近代史 > 2011年01月11日 > ifBxD8UzP

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名無しさん@お腹いっぱい。
大東亜戦争とは「今」何を残したと思う。 弐号
【関東軍】石原莞爾と板垣征四郎【満州国】

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大東亜戦争とは「今」何を残したと思う。 弐号
81 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/11(火) 11:03:08 ID:ifBxD8UzP
中卒携帯オヤジ(ID:WOIaGhOl0)の言うことは真に受けないように
貴台の嘘つき右翼、名越二荒之助の信奉者だし
こいつ自身都合の悪いレスはスルーするか
反論にならない難癖をつけて逃げる卑怯者だからな
【関東軍】石原莞爾と板垣征四郎【満州国】
708 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/11(火) 14:22:38 ID:ifBxD8UzP
「リットン調査団」(リットン−ちょうさだん)

 1931(昭和六)年勃発した満州事変に際して、その原因究明と日中間の摩擦解消をはかるべく、
国際連盟が派遣した国際調査委員会。イギリスの貴族政治家ヴィクトール・リットンを長としたために
この名が付いた。
 満州事変の勃発は中国を憤激させ、連盟規約十一条に基づいて連盟の中国代表施肇基による提訴がなされた。
連盟はこの問題に関し、国際調査団の派遣を提議したが、日本の幣原喜重郎外相はこれに対して
日中の直接会談によってのみ事態を打開しようとした。英米首脳はロンドン海軍軍縮会議成功とその条約批准に関し、
大きな役割を担った幣原と、その会議に全権として出席し、当時日本の首相であった若槻礼次郎に大きな信頼を置いていたので、
この日本の態度を諒としたが、その後事変はいっこうにやむことなく、錦州の爆撃へと日本軍が進むに至って、
この信頼は失望へと、さらに疑惑へと変わった。
 日本政府は軍部を押さえきれないか、それとも時間稼ぎのために連盟に対して二枚舌を使っているのではないか
という疑惑である。どちらにしても強い危惧をもって迎えねばならぬ事態であった。幣原外相はかつてない苦境に立った。
日本の在外使臣も幣原外交の迷走に違和感を表明しており、かくして幣原はついに連盟に対し、国際調査団の派遣を
要望することを逆提案した。

 しかしこの逆提案にはいくつかの付帯条項がついた。すなわち、調査を満州地域のみではなく、
中国全体とすべきこと、また、調査団のメンバーを大国からのみ選定することである。
中国代表の施肇基はこれに強い難色を示したが、事務総長ドラモンドがこれを説得し、十二月十日、
理事会は全会一致でこれを採択した。
こうして選任されたメンバーは、ヴィクトール・リットン卿(英)を委員長とし、マッコイ(米)、
クローデル(仏)、シュネー(独)、アルドロバンディ(伊)の五名であった。
さらに日中からそれぞれ参与員が加わり、専門委員らも加わった。
こうしてリットン調査団が構成された。
 リットン一行は翌年二月初頭にヨーロッパを発し、同月末に東京へ赴いた。
すでに若槻内閣は協力内閣運動による閣内不一致を理由に総辞職しており、
犬養毅=政友会内閣が成立していた。犬養内閣の芳沢謙吉外相などと会見した後、リットン一行はさらに大陸へわたり、
上海、南京(ここで汪兆銘行政院長、蒋介石軍事委員長らと会見)、北京、満州に向かった。
 満州における現地踏査は日本側の大きな制限を受けて難航したが、その間に東京で五・一五事件が勃発して犬養内閣が退陣、
斎藤実内閣が登場して外相は内田康哉に刷新されたので一行は七月、満州から東京へ向かったが、
前満鉄総裁でのちに「焦土演説」をなして外交関係者を一驚させた内田外相がリットンらに与えたのは苦い失望であった。
 内田との会見にやや先立って、「リットン報告書(通称。正式名称は「国際連盟日華紛争調査委員会報告」)」の起草が北京で開始された。
かくして十月一日、報告書は日中両国と連盟に対して提出された。報告書は緒言と全十章で構成されており、その主要な内容は、
(1)柳条湖事件とそれに伴う日本軍の行動は「合法なる自衛措置と認むることを得ず」、
(2)満州国は「純真且自発的なる独立運動に依り出現したるものと思考することを得ず」
 として、一連の満州事変における日本の主張が通らない点を上げた。その一方で中国本土において排外主義が宣伝されたこと、
また中国の混乱が紛争を惹起した点もあることを述べ、そこで、単なる現状復帰が好手段とも思えないため、
(3)東三省に広範な自治を与えて自治政府を設け、特別憲兵隊をして治安維持にあたらせ、中日ソ三国との相互不可侵条約によって
安定的な地位をあたえる、事実上の満州の国際管理を提案する一方、日本の在満権益を十分考慮し、自治政府の外国人顧問に
「日本人が充分なる割合を占めること」、
 と提案された。この提案は日本の在満権益を十分に認めたものと言うべく、長期的には日本にとって不利益とならないもので
あったが、日本はすでに事変によって成立していた満州国を承認していたため、到底受け入れられるものではなく、
ついに国際連盟脱退の挙に出るのである。



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