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名無しさん@お腹いっぱい。
【鬼謀】牟田口廉也中将を語ろう【聖将】
東条英機は日本をアメリカの植民地にした英雄
【全共闘】学生運動とはなんだったのか【内ゲバ】
【関東軍】石原莞爾と板垣征四郎【満州国】

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【鬼謀】牟田口廉也中将を語ろう【聖将】
149 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/10(月) 19:50:34 ID:TNe7NJuU0
>>148
出た!
答えに詰まったネトウヨが必ずやること
サヨク認定w

東条英機は日本をアメリカの植民地にした英雄
549 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/10(月) 19:51:20 ID:TNe7NJuU0
マレーシア各地でも日本軍による虐殺記念碑がいくつも残ってるらしい。

<ネグリセンビラン州では40か所以上で虐殺がおこなわれた>
パリッティンギ村では約600 人の村民が子どもまで抹殺された。
当時8 歳だった孫建成氏は両親や兄弟など一家9 人を殺され、
祖母と2 人だけがかろうじて生き残った。
それからまもなくの1942年7 月日本軍はタイとビルマをつなぐ
泰緬鉄道の建設に着工、マレーシアからもロームシャを狩り集めた。
8 月ネグリセンビラン州のセレンバンにいた宋日開氏は町中で日本兵
に呼びとめられた。「軍補」を募集していて、期間は1 か月から長くても
4 か月という話で、今の仕事よりいいと思ったのでそれに応じた。
しかし実際にはビルマ国境に近いテーモンタで過酷な労働につかされ、
一緒に行ったロームシャたちは次々に死んでいった。
セレンバンを出る時には780 人(ほとんどが中国人とインド人で、
マレー人は若干名だけ)だったのに46年7 月に帰ってきた時はわずか
49人になっていた。

<パリッティンギ( カンウェイ) 村の虐殺>                      
マレー半島南西部のネグリセンビラン州の粛清は第 5師団第11連隊( 広島)
が担 当し、42年3 月に6 次にわたって粛清がおこなわれた。
その中で3 月16日におきたのが、この事件である。山中にあるこの村に
「敵性分子」が「相当潜在」しているとして粛清を計画、
日本軍は老幼男女を問わず村民を村の広場に集め、
20〜30人ずつのグループにわけて周辺の山や畑の中に連れていき、
膝まずかせて順番に背後から銃剣で刺し殺していった。
その後、村を焼き払った。ここでの犠牲者は675 人と言われている


東条英機は日本をアメリカの植民地にした英雄
550 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/10(月) 19:52:31 ID:TNe7NJuU0
枢密院の深井英五顧問官は「枢密院重要議事覚書」の中で東條英機の答弁と
それに対する自らの感想を、次のように記している。

「既成観念の外交は対立せる国家を対象とするものにして、左様の事実
(外交の二元化)は大東亜地域内には成立せず、我国を指導者とするところの外交あるのみ」
(深井評、これ竹越顧問官の所謂大東亜圏諸国をデペンデンシー(従属国)として
取扱はんとする意図を頗る露骨に表示したるものなり。)
「外交の相手は必ず対等者として処遇せざるべからずとするが如きは古き観念なり」とし、
「此の如き観念は排斥す」とて、卓を叩きて叱咤す。
御前会議としては珍しき光景ならん。東條総理大臣は大東亜地域の諸国を従属的に取扱ふの
底意を此に暴露したり。東條総理大臣の興奮は益々激化し
「大東亜圏内には外交なし」と極言す。

アジア・太平洋戦争は
クーデターとテロにより日本の実権を握った軍部が
おのが力におごり高ぶり
東アジアを我がものにしようとして始めた戦争である
東條英機は首相になる前、ことある事に好戦論を口にしていた軍部の首魁である

ボ・ミンガウン(三十人志士メンバー・アウンサン将軍副官・独立後、内相、運輸相等歴任)
 「ビルマの情勢を検討していた東條首相は、そのスローガンである「大東亜共栄圏」建設をめざし、
 同時にビルマ国民の感情をなだめるために、飯田司令官の下に傀儡政府を組織して、名目的な独立
 を供与する準備を進めた。まもなく飯田司令官は、バモオ博士を長とするバホー(中央)行政委員
 会を設置し、一九四二年六月四日に全国に向けて発表した。(中略)この委員会は一九四二年八月
 一日に、「ビルマ行政府」とその名前を変更した。しかし、「ビルマ行政府」とはいっても、飯田
 中将の命ずる範囲の行政事務を担当したにすぎなかった。
                     (中略)
  一九四三年八月一日には「独立」が宣言され、アディパティ(総統)バモオ博士の率いる政府が
 出現した。この政府は、独立した政府とはいうものの、実際には総統にせよ、大臣たちにせよ、日
 本軍指導部の認めた範囲内の権能しか持たなかった。アウンサン将軍は、日本の与えた「独立」が
 本物ではなく、「メッキ」にすぎないことを見抜いていた。将軍はまた日本軍のやり口を熟知して
 いた。さらに、連日のようにビルマ各地で起こっているファシスト日本軍の残虐行為についても将
 軍は目配りを絶やさなかった。そして、もともと胸の内に秘めていた、日本軍に対して反乱を起こ
 すという決意を、さらに固くするのであった。
  日本の与えたビルマ人による行政が、名ばかりでお粗末なものにすぎず、また残虐行為の数々を
 目の当たりにしていたビルマ国軍、人民革命党それに共産党の指導者たちは、一九四四年八月に秘
 密の話し合いを持ち、討議の末に「反ファシスト人民自由連盟」を結成し、対日反乱についてこま
 かい検討を行った」
  (ボ・ミンガウン『アウンサン将軍と三十人の志士』(中公新書 1990)より)

東条英機は日本をアメリカの植民地にした英雄
551 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/10(月) 19:53:43 ID:TNe7NJuU0
アフマッド・スバルジョ(独立インドネシア初代外相)
 「毎年八月十七日には、共和国記念日を祝して式典が催されてきた。しかし、新聞は、いつもグレ
 ゴリー暦の年月日を用い、紀元二六〇五年の略称である〇五年という、独立宣言の手書きの原文
 に使われていた年号を再現してはいない。原文の写真が新聞に転載される場合ですら、日本の年号
 についてふれてはいず、〇五年は四五年を意味するのだと、当然のことのように考えられている。
 革命的な性格をもつ新たな独立政府にとって、日本の年号をうけいれられないということは、議論
 の余地のないところである。また、従来の植民地政権が使っていた年号に対して、異議を唱えるも
 のもいないのである。
  八月十七日の共和国記念日の式典では、例年、建国以来の式典年数があげられる。たとえば、一
 九七二年の八月十七日には、インドネシア人民は、共和国の二七回めの記念日、あるいは建国二八
 年めを祝ったことになる。その日は、まさに、偉大な“ナショナル・デー”である。一九七二年十
 二月二七日は、オランダ王国がインドネシア共和国を法的に承認してから二三年になるのだが、イ
 ンドネシア人民は、この一九四九年十二月二七日に行われたオランダのインドネシアに対する主権
 委譲の日を、祝ったりはしない。彼らは、八月十七日を、独力で宣言した自分たち自身の独立つま
 り、日本帝国のおかげをこうむらない、まさに、自分たち自身の闘争が成功したが故の、さらには
 一貫した努力のたまものとして勝ちとった独立の日として、その日を祝うのである。日本人がその
 際果たした役割は、単に偶然にすぎなかったわけである」
  (スバルジョ『インドネシアの独立と革命』(龍渓書房 1973)より)
東条英機は日本をアメリカの植民地にした英雄
552 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/10(月) 19:54:28 ID:TNe7NJuU0
名越二荒之助の捏造
「地中海での作戦中、ドイツ潜水艦から魚雷が発射された。その魚雷の発見が
一瞬遅れたときに、日本駆逐艦は連合国船舶の前に全速で突入して盾になり、
撃沈されて責務を果たした。犠牲になった日本海軍将校の霊は、今もマルタ島
の墓地に眠っている」

この部分にも多くのウソがねつ造されています。まず、「作戦中」ではなかったのです。
1917年駆逐艦「榊」「松」はマルタ島に帰還途中ドイツ潜水艦と遭遇し、
艦首に被雷して、大破し59名死亡したというのが事実です。
連合国船舶の護衛任務などではありませんでした。したがって連合国船舶の護衛
のために「盾」となったという、今はやりの国際貢献の美談として書いているが、
全く根拠のないフィクションです。
また地中海で日本駆逐艦が撃沈されたことになっていますが、司令官の報告を
見ても、「撃沈」ではなく艦首の「大破」であり、沈没した事実はどこにもありません。
高嶋伸欣さんが「こっそり訂正していた歴史教科書」というタイトルで、
「ねつ造だった日本海軍手がら話」について書かれています。
扶桑社は採択後の供給本で、この部分も含めて約50カ所もの訂正を内密裏に行っていたのでした。
供給本では次のように書き換えられています。「日本の駆逐艦が、ドイツ潜水艦
によって撃沈された連合国船舶の救助活動で、大きな功績を挙げたが別の任務
の帰路、潜水艦の魚雷攻撃を受け、60名近い戦死者がでた。」
では魚雷攻撃を受けた日本の駆逐艦「榊」はだれが助けたのだろう?
近くにいた「松」は二次攻撃を恐れて手をこまねいていたのだが、急を聞いて
駆けつけた英国艦が迷うことなく接舷して港まで曳航したのだそうです。
称賛されるべきは英国艦であり、日本艦は怯えていたというのが事実。

重要登場人物の名前さえまともに書けない名越の著作に
歴史的学問的価値など微塵もありません
そこにあるのは捏造与太話でしかないのです
東条英機は日本をアメリカの植民地にした英雄
553 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/10(月) 19:55:33 ID:TNe7NJuU0
>ニミッツの詩とやらも、自衛隊幹部が渡米して、ニミッツの詩で間違い無い、という確証を
>得たから、ベリリュー神社の碑文にしたのだ。
ああ、それも間違いないってのがそもそも嘘ですから。
その自衛隊幹部からの又聞きであり、誰がこれがニミッツの詩ですといったのかすらはっきりしていない。
ほんとに知らなかったんですか?
簡単に経緯を説明すると日本のスーパーソルジャー船坂弘の著作に見られるのが初出で
産経新聞記者の住田良能記者が1978年に同紙の茨城県版で企画連載した「ペリリュー島78」を収録した部分に
公刊戦史に載っていると記載されている。
その後名越が主張するところではこの詩がペリュリュー神社で見つかったので
元ネタを知りたいと思い資料を探していたところ、公刊戦史などには全く見つからず
自衛官浦氏がアナポリスでニミッツの詩だと教官から教えられたと又聞きであることを明言している。
なぜか名越はこの教官の名前も聞こうとせず、これはニミッツの詩だって大喜び、
元ネタがそもそも掲載されているという公刊戦史に載っていないのに
軽率にも「世界に生きる日本の心」にニミッツの詩だと掲載する始末。
アメリカ側資料にはそのようなものが見られないことはガン無視です。
これが名越における”確証を得た”というなら、
彼の著作は全て眉につばして見なければならないでしょうね。

上述のように名越の調査とは学問的審査に耐えうるものではありません。
又聞きが多すぎる上に、浦氏の例をみても誰が伝えたのかすらはっきりしないものを
確証とかきちんと調査とか呼びませんからw
そもそもニミッツの詩がいつどこでどのように作られたのかが不明な以上、
確証だの調査だのの入る余地がないんですがね。

しかもナシールにいたってはいつどこでだれががまったく明らかにされてません。
まあ、やたらと元○○という無責任な立場の人間だけが
日本人に対してリップサービスできるってあたりが
現地の人間がどう思っているかをはっきり示しているような気がしますがねえw


【全共闘】学生運動とはなんだったのか【内ゲバ】
130 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/10(月) 19:59:38 ID:TNe7NJuU0
ID:vjTY0q/p0

負け犬引きこもりネトウヨ乙www

自分が負け犬なのは、腐りきった日教組の反日教育のたまものですか
いいかげん人のせいにするのはやめて、自分を見つめ直して
ハロワに行きましょうねwww
東条英機は日本をアメリカの植民地にした英雄
554 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/10(月) 20:01:17 ID:TNe7NJuU0
日中戦争〜太平洋戦争下におけるアジア各国の被害は甚大なものだった。
死者の正確な数ははっきりしないところが多いが、主に各国政府の公式の発表を基に紹介すると、
中国1000万人以上(調査の進展により最近では2000万人以上と言われ始めている)、
フィリピン111万人、インドネシア400万人、ベトナム200万人、マレーシアとシンガポールで10万人以上、ビルマ15万人、インド150万人、
韓国・朝鮮20万人、台湾3万人などである。このほとんどは民間人である。
ほかに連合軍捕虜4万2千人あまり、民間抑留者1万数千人、オーストラリア1万7744人(捕虜約8000人を含む)などである。
アジアの死者は全体として2000万人という場合が多いが、中国の死者の数によっては大きく増える可能性もある
(『世界』1994年2月、特集白書・日本の戦争責任)。

なお日本の死者が約310万人、うち軍人軍属230万人、民間人80万人である。
日本の場合、沖縄を除くと、軍人の外地での死者が多数を占めているが、アジア諸国の場合には圧倒的に民間人が犠牲になっている。
日本の侵略戦争であったことがここにも現れている。

戦争被害は死者のみに限られない。家を焼かれたり破壊された件数などの物的な被害、難民になった人数は想像がつかない。

人的物的被害とは異なるさまざまな傷痕も残している。
マレー半島では、日本軍は華僑を抑えるためにマレー人を利用した。
華僑粛清という名の虐殺のためにマレー人を道案内に使ったり、マレー人警官を同行させて日本軍の手伝いをさせた。
そのため華僑から見ればマレー人が日本軍の手先となって同胞を殺していることになり、華僑が主体の抗日ゲリラは日本軍に協力しているマレー人を襲撃し、
あるいは豚肉を無理強いするなどイスラム教徒であるマレー人を侮辱する行動にでた。
このためマレー人が華僑の村を襲って村人を惨殺し、それに対して華僑が報復するという事態が戦争末期から戦後にかけて頻発した。
このマレー人と中国系との対立はその後も尾を引き、現在でも大きな問題となっている。
日本軍の残虐行為がその後何十年にもわたって深刻な影響を与えているのである。

ビルマでは、多数派のビルマ族のほかにカレン族やカチン族などの少数民族がいる。
カレン族にはイギリスの影響でキリスト教徒が多く、そのためイギリスが植民地支配のためにカレン族を登用しビルマ族を抑えるために利用した。
日本軍は逆にビルマ族を使い、カレン族に対しては親英的とみなして抑圧した。そのためカレン族が日本軍の残虐行為の対象になったケースが多い。
このためビルマ族とカレン族の対立は一段と増幅された。
戦後、ビルマ族主体のビルマ政府に対してカレン族は武装闘争をおこない、ビルマの不安定要因となっている。

植民地支配は通常、民族を分断し統治するという方法を取るが、日本軍の支配はそれが虐殺などの残虐行為と結びついていたために
民族間の対立を一層増幅させることになった。

日本軍は戦争後期になると日本軍を補うために現地の住民を使って義勇軍などを作った。
ビルマ国軍やインドネシアの郷土防衛義勇軍(ペタ)などはその代表的なものである。
これらの軍隊は戦後の独立にあたって大きな役割を果たした。特に植民地の再建をねらうオランダと独立戦争を戦ったインドネシアの場合は特にそうである。
もちろんこのことは日本軍が日本の覇権のために作った軍隊を、民族運動の組織者が独立のために活用したのであって、
ヨーロッパと日本の二つの帝国主義国の間で両者を利用して独立を勝ち取ったことはいうまでもない。
しかし独立後の軍隊の土台が日本軍によって作られたことは否定できない。問題はそこにある。
インドネシアで1966年にクーデターを契機に政権を握りその後1997年に至っても依然として独裁政権を続けているスハルト大統領はペタの軍人であった。
ビルマで1962年に軍事クーデターで政権を握り、議会を解散し憲法を停止、後に表舞台からは姿を消すが今日に至るまで軍事政権の黒幕と見られている
ネ・ウィンは日本軍の訓練を受けたビルマ独立義勇軍の幹部の一人だった。独立後、長期軍事独裁政権が生まれたインドネシアとビルマではともに
日本軍に育てられた軍隊がそこでも大きな役割を果たし、また日本軍に訓練された将校がその独裁者になっている。
独立後の問題の原因の一つが日本占領時代に起因しているのである。

東条英機は日本をアメリカの植民地にした英雄
555 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/10(月) 20:02:48 ID:TNe7NJuU0
日本軍による過酷な占領に対して、各地で抗日闘争が繰り広げられた。そのあり方は地域ごとに多様であった。

フィリピンではさまざまなゲリラ組織が作られたが、その中心になったのはユサッフェゲリラとフクバラハップだった。
ユサッフェとはアメリカ極東軍のことで、同軍は1942年5月に日本軍に降伏したが、各地に残されていたフィリピン人兵士たちは
ユサッフェゲリラを組織し知識人・政治家・宗教者らと協力し抗日ゲリラ活動をおこなった。
彼らはアメリカに忠誠心を持ったゲリラだった。一方、社会党・共産党系の農民運動を基盤に42年3月中部ルソンで結成されたのがフクバラハップ(抗日人民軍)だった。
彼らは日本軍追放と地主打倒を目標にしていた。両者は対立しながらも抗日活動をおこなった。

マラヤでも多様なゲリラ組織が生まれた。最も強力だったのはマラヤ共産党によって組織されたマラヤ人民抗日軍だった。
華僑が主体のマラヤ共産党はイギリスの植民地支配のもとで非合法化されていたが、
日本軍のマレー侵攻が始まると共産党は英軍に協力を申し出、共産党の選抜した青年たちに英軍がゲリラ用の訓練を与え、
日本軍の後方に送り込むことで合意がなされた。他方、多くの共産党員や国民党員らがシンガポール華僑義勇軍に参加して
シンガポール防衛戦で勇敢に戦い、多くが戦死した。

英軍からゲリラ用の訓練を受けた計165人は4つのグループに分けられて、
マレー半島の南部に送られた。彼らが中心になってマラヤ人民抗日軍が作られた。
北部でも共産党員らが独自にゲリラ活動を組織し、後に人民抗日軍に統合された。

中国国民党系の華僑は華僑抗日軍を組織、主に中北部で活動した。
またマレー人主体の地下抗日組織ワタニアも作られた。

インドからのマレー半島反攻を計画していたイギリス軍は136部隊を編成して潜水艦やパラシュートによってマレー半島に潜入し、
これら各地の抗日ゲリラと連絡を取り、彼らに武器弾薬を提供した。

インドシナでは日本とフランスに反対するベトナム独立同盟会(ベトミン)が結成され、
北部山岳地帯に解放区を設けた。1944年から45年の大飢饉のなかで「敵のモミの倉庫を破壊して人民を救おう」と呼びかけて全土で抗日闘争を活発化させ、
45年9月2日ベトナム民主共和国の独立を宣言した。

タイは当時、東南アジアでは唯一の独立国であったが、実質的に日本軍の占領状態におかれていた。
タイ政府は表面上は日本に協力する振りをしたが、政府や軍・警察関係者らは密かに「自由タイ」という抗日組織を結成した。
抗日的として日本軍に逮捕されタイ警察に引き渡されたタイ人は警察内の自由タイによって密かに釈放された。
また海外にいた外交官や留学生たちは自由タイの国外組織を作って国内とも連絡を取り、連合国からの支援をうけてゲリラを組織しようとした。
日本軍はこの自由タイの動きを察知していたが、手を出すことができなかった。

ビルマではすでに見たように、ビルマでは日本軍によって育てられたビルマ国軍がイギリス軍とともに日本軍をビルマから追い出し、
その後はイギリスの植民地支配の復活を許さず、独立を勝ち取った。

インドネシアでは、オランダによって投獄されていたスカルノやハッタなどの民族運動の指導者たちは、
日本軍に協力することによって独立を得ようと考えた。しかし日本軍の過酷な占領に対し、
1944年2月に西部ジャワで農民の反乱がおき、さらに45年2月東部ジャワでペタのブリタル大団が即時独立を求めて反乱を起こした。
このことは日本軍に対して、インドネシアへの独立付与を促したがその動きは遅く、
日本降伏後の8月17日青年らの突き上げをうけてスカルノらは独立を宣言した

東条英機は日本をアメリカの植民地にした英雄
556 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/10(月) 20:03:34 ID:TNe7NJuU0
日本軍がアジア各地でおこなったことを考えると日本軍の特質が問題にならざるをえない。
太平洋戦争においてアジアの民衆に対して、日本軍ほど虐殺・暴行など各地で大規模な残虐行為をくりひろげた軍隊はほかにはなかった。
捕虜に対する扱いも日本軍とアメリカ軍とでは、経済力だけでは説明できないほど違いがあった。
沖縄戦で日本軍が沖縄の人々を虐殺、あるいは虐待したことも日本軍の特徴だろう。
いくつかの点から日本軍が残虐行為をおこなった特徴を考えてみよう。

第一に日清戦争・日露戦争以来培われてきた、アジア民衆に対する蔑視観がある。
中国人や朝鮮人に対する蔑視だけでなく、東南アジアの諸民族に対してはより一層見下していた。
たとえば、大本営参謀本部が作成し、マレー戦に参加した将兵に配られたリーフレット『これだけ読めば戦は勝てる』(辻政信が書いたといわれている)には、
東南アジアの民衆を「土人」と呼び、「土人は懶けものが多く、(中略)全く去勢された状態にあるから之をすぐ物にしようとしても余り大きな期待はかけられぬ」
と蔑視観が露骨に示されている。

第二に日本軍が占領地の一般住民を敵視したことである。
占領軍である日本軍に対する住民の抵抗はゲリラだけでなくさまざまな形でおこなわれた。
日本軍は住民全体を疑い、村を丸ごと抹殺することさえおこなった。
国際法はまったく無視された。相手が住民であろうと、「抗日ゲリラ」あるいは「抗日分子」という名目がつきさえすれば
「治安粛清」と称して堂々と住民虐殺がおこなわれた。

第三に日本軍の「現地調達」主義である。
日本軍は各地で作戦をおこなう部隊の食糧や馬の糧秣について「現地調達」するという政策をとった。
日本軍は補給そのものを軽視したが、とりわけ食糧については軽視どころか部隊に任せた。
そのため各部隊は戦闘をしながら食糧を確保しなければならなかった。本来は代価(軍票など)を払って購入しなければならないが、
実際には食糧略奪があたりまえのようにおこなわれた。戦地・占領地での略奪は戦時国際法に違反するだけでなく、
日本軍の陸軍刑法や海軍刑法でも「略奪ノ罪」にあたるが、それが取り締まられることはほとんどなかった。

略奪にあたって、住民の抵抗があれば、住民に対する残虐行為がおこなわれた。
女性に対する暴行もその一部だった。それが抗日勢力が強いと見なした村であれば、略奪、女性への暴行、
住民虐殺、放火がおこなわれた。中国ではこうしたなかで若い女性を拉致し慰安婦にさせるケースが報告されている。

中国など人が住んでいるところではこうした方法で食糧が調達できても(略奪された住民の苦しみがあることはいうまでもない)
人のあまりいないジャングルのなかでは、略奪しようにも略奪するものがなかった。
ガダルカナルやニューギニアで多数の日本兵が餓死したのはその結果である。
日本軍兵士の死者の半数以上が広い意味での餓死(飢えに起因する病気による死を含めて)によるものと推定されるが
(藤原彰「日本軍の餓死について」)、みずからの兵士の生命を軽視した「現地調達」主義は、
日本軍を残虐行為に駆り立てたとと同時に日本兵自体の生命をも奪ったのである。

第四に国際法を無視したことである。
第一次世界大戦までは、日本は参戦にあたって国際法を遵守する旨が開戦の詔書には含まれていた。
しかし太平洋戦争の開戦にあたっては、詔書の案の段階ではあった「国際法規の範囲内に於て」という文言が最終的には削られた。
日中戦争にあたっては、戦争ではなく「事変」であるとして戦時国際法を適用する考えはなかった。
日中戦争〜太平洋戦争において日本は、捕虜や占領地の住民の保護など戦争下におけるさまざまな人道的な措置を定めた戦時国際法を守る意思がなかったのである。

第五に日本軍内部の非人間性である。
日本軍でも「私的制裁」は禁止されていたが、実際にはビンタをはじめさまざまな暴力が日常的におこなわれていた。
「死は鴻毛(鳥の羽毛)よりも軽し」という軍人勅諭の言葉通りに兵士の生命は軽んじられ、特に下級兵ほどその抑圧はひどかった。
軍のなかで蓄積された抑圧とストレスは外部に対して、とりわけ弱者に対して向けられた。
占領地の住民はまさにその犠牲者であった。住民に対する兵士たちの残虐行為は軍隊内の秩序を維持するための安全弁として軍上層部は黙認したのである。

軍隊という組織そのものが持つ暴力性はこうした日本軍の特徴によって極度に増幅され、
アジア太平洋地域では他の国とは比較できないほどの残虐行為を引き起こしたのである。


【関東軍】石原莞爾と板垣征四郎【満州国】
706 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/10(月) 20:05:13 ID:TNe7NJuU0
>>703
低能中卒ゴキブリは反論不能になって逃げました

いま、ゴキブリは、自分がやってきたことが「権威論証」という詭弁なのか
それとも素人門外漢の、何の権威もない頓珍漢な発言を元にした
デタラメな論証だったのか、どちらかを認めねばならない
窮地に追い込まれています

その証拠に(名越によるデタラメな)証言集を貼ろうとしません

中卒ゴキブリは、いまや完全に追い詰められております

>太平洋戦争によって西欧植民地主義は終焉した。
だから形を変えて「先進国による発展途上国への搾取」と
巧妙に形を変えただけだとw
そして、アフリカ独立が、太平洋戦争とは無関係に1960年代に起こったことを
指摘されるやいなや、因果関係を無視して書き加えるというセコさ、姑息さ

>東南アジア植民地の解放は30年遅れたといわれる
その証拠は当然あるんだろうな、出して見なよw
ベトナムの独立は日本の戦争とは無関係だし(仏印進駐)
フィリピンは1946年には独立できるという約定ができていた
インドネシア独立戦争は失敗し、アメリカの介入によってようやく独立できたんだよ。中卒

>アメリカでは公民権運動が加速した。
また因果関係の立証もなしにそういうことを言う
キング牧師やローザ・パークスが大日本帝国について何か言ったのか?

>大日本帝国に憧れたネルソン・マンデラ
「側近が」「言ったという」言葉だけな
しかも出典はあやしげなウヨサイト。信憑性は欠片もない
本人の台詞でももってこいよ。中卒

>ブロック経済が終わり自由貿易世界が築かれた
未だに築かれていないんだけどね
アメリカの「スーパー301条」も、英連邦ブロックも未だに健在なんだけどね
TPPで関税障壁をなくそうと言い出したら、日本でも「保護貿易を続けろ」と大騒ぎだ

中卒携帯無職コピペゴキブリの白日夢に過ぎないことは、これで立証された
言葉遊びだけでなんとかなるもんじゃないんだよ。中卒


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