- 大東亜戦争とは「今」何を残したと思う。 弐号
75 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/10(月) 15:23:49 ID:Gg2yQnrC0 - >>72
低能中卒ゴキブリは反論不能になって逃げました いま、ゴキブリは、自分がやってきたことが「権威論証」という詭弁なのか それとも素人門外漢の、何の権威もない頓珍漢な発言を元にした デタラメな論証だったのか、どちらかを認めねばならない 窮地に追い込まれています その証拠に(名越によるデタラメな)証言集を貼ろうとしません 中卒ゴキブリは、いまや完全に追い詰められております >太平洋戦争によって西欧植民地主義は終焉した。 だから形を変えて「先進国による発展途上国への搾取」と 巧妙に形を変えただけだとw そして、アフリカ独立が、太平洋戦争とは無関係に1960年代に起こったことを 指摘されるやいなや、因果関係を無視して書き加えるというセコさ、姑息さ >東南アジア植民地の解放は30年遅れたといわれる その証拠は当然あるんだろうな、出して見なよw ベトナムの独立は日本の戦争とは無関係だし(仏印進駐) フィリピンは1946年には独立できるという約定ができていた インドネシア独立戦争は失敗し、アメリカの介入によってようやく独立できたんだよ。中卒 >アメリカでは公民権運動が加速した。 また因果関係の立証もなしにそういうことを言う キング牧師やローザ・パークスが大日本帝国について何か言ったのか? >大日本帝国に憧れたネルソン・マンデラ 「側近が」「言ったという」言葉だけな しかも出典はあやしげなウヨサイト。信憑性は欠片もない 本人の台詞でももってこいよ。中卒 >ブロック経済が終わり自由貿易世界が築かれた 未だに築かれていないんだけどね アメリカの「スーパー301条」も、英連邦ブロックも未だに健在なんだけどね TPPで関税障壁をなくそうと言い出したら、日本でも「保護貿易を続けろ」と大騒ぎだ 中卒携帯無職コピペゴキブリの白日夢に過ぎないことは、これで立証された 言葉遊びだけでなんとかなるもんじゃないんだよ。中卒
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- 東条英機は日本をアメリカの植民地にした英雄
539 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/10(月) 15:27:25 ID:Gg2yQnrC0 - 真実を突きつけられてのたうち回る、中卒携帯無職コピペゴキブリ
このような小物は悠然と見下ろしつつ、さらに真実の検証を続けようと思う 兵補 「ヘイホ(兵補)」とはインドネシア人青年から採用した日本軍の補助兵である。ジャワ占領後 も戦線拡大により日本のジャワ占領軍はニューギニア戦線(→237)などに転戦し、兵力は占領 当初の5万人から1/3に減少し兵員の不足が生じた。 彼らは3〜4月の日本語教育と2月の軍事訓練を受け、試験に合格した優秀な人材であり、郷 土防衛義勇軍ペタ(→309)が発足するまでの間に募集された。後に独立戦争を戦ったインドネ シア共和国軍の主流はペタであるが、ヘイホも武器を扱えるという実務経験から重宝された。 ジャワ駐屯の日本軍においてヘイホは運転手のような補助的職務従事が原則であったが、 大砲の操作をもヘイホに任せざるをえない部隊もあった。ヘイホは日本の各部隊にほぼ均等 に配属され約1割にもなっていた。⇒heiho ⇒heiho兵補 部隊の配転によりニューギニア戦線やビルマ戦線にも従軍させられたヘイホもいる。戦闘に 捲きこまれたヘイホは多くの犠牲者を出した。モロタイ島では戦後訪れた日本の遺骨収集団 が日本兵の遺骨に紛れヘイホの遺骨も持って帰った。 1989年に元ヘイホは連絡協議会を結成して日本への補償を求めた。ヘイホの提起した補償 問題とは死者への補償とか年金などではなく貯金の払い戻しである。彼等は従軍中に給料の 支払を受けたが、給料の2/3を強制的に貯金させられ、日本の敗戦によってそのまま没収さ れた。日本政府に貯金の払戻しを要求し、1991年の平成天皇のインドネシア訪問を機会にデ モを行い、内外の新聞記者団に実情を訴えた。その後もジャカルタの日本大使館へデモをか けている。⇒ペタの対空砲の訓練 彼等は日本の軍歌を口ずさむなど日本へのノスタルジアを持つ親日家であるが、かくも長く ほったらかしにされたことへの怨念の入り混じった複雑な心境である。 日本政府は1958年のインドネシアとの賠償協定(→362)でヘイホなどの個人の請求権も放棄 されおり、補償問題は存在しないとしている。また、日本はODAによりインドネシアの民生に協 力している、とヘイホの要求を突っぱねている。 日本側には払い戻さない理屈はあろうが、日本の軍人恩給の法外な高さと比べ余りにも均 衡を失しているのでなかろうか。ちなみにオランダは植民地時代のインドネシア人ニカ兵(→ 318)にいまだに年金を払っているとのことである。
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540 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/10(月) 15:29:02 ID:Gg2yQnrC0 - インドネシアにも慰安婦問題がある。呼びかけに応じて含羞(がんしゅう)の民族からもおずお
ずと名乗り出た。NGOの招きで日本へ来た慰安婦が戦時中の体験を証言している。 日本政府は慰安婦問題についても政府間で解決済みとの立場を固持している。といいつつ も被害者への現実的対応として高齢者福祉施設を作るという名目で10年間に3億8千万円の 支出を決めた。インドネシアの慰安婦問題にはオランダ人女性を慰安婦にしたという別の問題 もかかえている ブリタルの反乱 ペタ(郷土防衛義勇軍)は日本軍の不足を補うものとして組織化されたジャワ人の軍組織で あるが、5万人の規模に達し駐留する日本兵の数を上回るようになった。訓練を受け武器を持 ったジャワ人の軍隊が日本に叛旗をひるがえさないという保証はなく日本にとってペタは"獅子 身中の虫"になりかねない存在であった。 日本の講じた予防処置はペタを州毎に設立して連携させないように分断し中央の統一組織 は設けていない。このため募集した兵士はその地域のペタに所属し地域をこえる人事交流を 避けた。スカルノなどの民族主義者はペタの指揮命令系統には関与できなかった。 しかしジャワ人自らの軍としての自覚が高まるにつれ、日本軍への従属に問題意識を持つよ うになるのは時間の問題であった。終戦時のレンガスデンクロック事件(→316)は日本が制御 しえないペタが存在していたことの証明であった。また日本軍が敗戦とともに慌(あわ)ててペタ の解散を命じたのはペタに対する潜在恐怖である。 時は少し遡り終戦半年前の1945年2月14日未明、クディリ州(現在の東部ジャワ州)のブリタ ル大団のスプリアディ(Supriyadi 1923-45)小団長の率いる小隊(100余名)が兵営を出て日本 人を襲い数名を殺害した。日本軍は慌てて人望のあるインドネシア人の大団長を担ぎ出し処 罰はしないと説得した結果、反乱した兵士は兵舎に戻った。反乱軍は一両日で瓦解(がかい)し 首謀者のスプリアディは逃亡し行方不明になった。⇒ブリタル大団 ⇒スプリアディ ブリタルのペタの蜂起は日本軍にとって衝撃であった。"飼い犬に手を噛まれた"というのが 日本軍の実感であった。ブリタルの反乱の直接の原因はペタの幹部に対する日本人指導官 の傲慢(ごうまん)がいわれている。日本兵が階級が上のペタの幹部に敬礼しないことはジャワ 人の誇りを著しく傷つけた。 相次ぐ食料の供出、ロームシャの徴用にジャワ島では次第に反日感情が醸(かも)し出されて いた。もし反乱者がこれらの大義名分を明らかにし、他のペタと連携していたならば、反乱は 飛び火しジャワ全島に拡大したかもしれない。たまたまブリタルの反乱は発覚を恐れた首謀者 が準備不足のまま突入した暴発であったため容易に鎮圧された。 独立後のインドネシアでは日本の圧政に対する蜂起としてブリタルの反乱を高く評価してい る。反乱の首謀者のスプリアディは生死不明のままインドネシア共和国初代のインドネシア軍 司令官に指名される名誉を得た。⇒スプリアディ記念館? ブリタルはスカルノ大統領の故郷である。大統領は後に自叙伝で「ブリタルの反乱は自分の 黙認の下に行われたが、当時の状況では大の虫(ジャワ全島のペタ組織)を活かすためには そ知らぬ振りをしなければならなかった」とその苦悩を述べている。 反乱者がスカルノと示し合わせていた思われる形跡(注)はある。スカルノ大統領の例の自 己顕示だけではなさそうだ。
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541 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/10(月) 15:30:31 ID:Gg2yQnrC0 - 遅すぎた独立承認
【1943(昭和18)年2月】東条首相はジャワ島を訪問し歓迎を受け、戦争遂行への現地住民の 協力を求めた。独立については何もふれずにインドネシア人を失望させた。資源の豊富なイン ドネシアはできるだけ長く日本の領土にとどめておきたいというのが日本の本心であった。 【43年8月】東条内閣はフィリッピンの独立を認めた。 【43年9月】インドネシア人の政治参与のため諮問機関としてジャワに中央参議院を設け、ス カルノが議長に就任した。議員の半数に民族主義者が登用された。 【43年10月】東条内閣はビルマの独立を認めた。 【43年11月】東京で大東亜会議が開催され、日本傘下の大東亜共栄圏の諸国が出席し た。独立国でないインドネシアは外された。併せてフィリッピンとビルマの独立承認のセレモニ ーが東京で開催された。 大東亜会議後、インドネシア懐柔のため日本政府はスカルノ議長、ハディスクモ・イスラム教徒 代表、ハッタ中央参議院議員を日本に招いた。しかし独立の話は故意に回避された。 【44年9月】戦局不利の中でインドネシア人の民心をつなぎ止めるため小磯内閣は「将来、 東インド(インドネシア)に独立を与える」という小磯声明を発表した。この際にもインドネシアと いう用語の使用を用心深く避け、時期も明確にしなかった。その心はあわよくばジャワ島の独 立だけを認め、資源の豊富なスマトラ島など外島は切り離して日本の直轄領土にとどめること が本心であった。 【45年3月】日本は独立準備調査会の設置を発表する。すでに南方と日本の補給線は断た れていた。独立の要望を無視して戦争への協力の継続は限界があった。⇒独立調査会? 【同年4月29日】独立準備調査会が正式に設立され、委員70名が発表された。国旗・メラ・プ ティ、国歌・インドネシア・ラヤの使用が許可された。 【6月1日】5月28日から始まった独立準備調査会においてスカルノが国体としてパンチャシラ を提唱し、インドネシア国家の骨格が示された。 【6月22日】ジャカルタ憲章によりインドネシア現行憲法の骨格が固まった。 【7月10日】独立準備調査会第2回会議が開催された。 【7月17日】日本は最高戦争指導会議においてできるだけ早い時期にインドネシアの独立を 認めることを決定した。⇒ペタ・ジャワ義勇軍 【7月21日】日本の南方軍は独立地域にマレー半島を除くことを確認する。 【8月7日】インドネシア独立準備委員会が設立された。独立はカウント・ダウンに入った。独 立は小磯声明の1周年にあたる9月7日を予定していた。 【8月9日】インドネシアからスカルノ、ハッタ、ラジマンの3名が南方軍総司令部のあったサイ ゴンに発った。
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542 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/10(月) 15:31:14 ID:Gg2yQnrC0 - 独立準備委員会
インドネシア独立宣言の経緯で日本の影響を過大視することは問題である。しかし日本の同 意の下で進められていたインドネシアの独立準備がすべて無駄になったわけではない。1945 年4月末に独立調査会(後に独立準備調査会に改名)のメンバー70名が発表された。ジャワ島 のみならずインドネシア全地域からの代表が網羅されていた。 第1回独立準備調査会は5月末に5日間開催され、6月1日に委員長スカルノによってパンチャ シラ(→365)が発表された。 第2回独立準備調査会は7月10日から開催され国家の領域、形態、政治機構、市民権、イス ラムとの関係を討議し、16日に憲法草案が作成された。 日本軍政の下でインドネシアの独立は人民の強い意志によってそれなりに進められていたと ころへ、1945年8月15日、日本の敗戦の報が伝えられた。その第二次世界大戦直後の大混乱 の中でインドネシアの独立宣言が発せられた。15、16、17日の3日間はまさに疾風(しっぷう)怒 涛(どとう)の日としてインドネシア歴史に銘記されている。 無条件降伏の受入によってそれ以降、日本は連合軍に現状維持を命じられた。従って直前 の8月11日に日本の南方軍総司令部がスカルノを招いてインドネシアに与えた独立承認は日 本の敗戦によって反古(ほご)になった。 しかしインドネシアでは9月の独立を目指して独立準備調査会は独立準備委員会へと進み、 8月18日の予定で召集されていた。8月15日には交通事情の悪い当時は遠方の者はすでにジ ャカルタに到着していた。 16日深夜の独立宣言の起草の場には独立準備委員会のメンバーも関与していた。また17日 10時からの独立宣言は独立準備委員会のメンバーを前にしていた。何もかにもが用意されて いたからこそ臨機応変に対応できた。 翌18日、独立宣言発布により独立準備委員会は新しく独立委員会として(注)でスカルノ大統 領とハッタ副大統領が選出し、引き続き憲法を制定した。《イスラム国家》or《世俗国家》という 国体を巡る論議はすでに尽くされており、5原則のパンチャシラとして憲法の前文に折り込まれ た。⇒マカッサルの日本菓子店 独立宣言後に相次いでこれらの処置が容易に実施されたのは独立準備委員会ですでにイン ドネシアの国体は論議され、ジャカルタ憲章(→418)としてアウトラインは出来上がっていたから である。8月19日、独立委員会は中央政府12省、地方行政8州の設置を決定し、8月29日に閣 僚、知事が任命された。 慌ただしい中で一気呵成に独立宣言は発せられた。その後のすばやい対応がインドネシア 独立を既成事実にした。インドネシアの独立は太平洋戦争直後のどさくさまぎれではない。予 め準備されていたことの必然の履行であった。 その数日間は戦勝国である連合国側からの指示もないという権力の空白期であったことも幸 いした。
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543 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/10(月) 15:32:18 ID:Gg2yQnrC0 - 日本の敗戦
【1945年8月11日】インドネシアを代表するスカルノとハッタはサイゴンの郊外のダラトにあっ た日本軍の南方軍総司令部から招かれた。 独立承認は伏せられたまま旅立ったが、そこで思いかけず南方軍総司令官寺内寿一元帥か ら独立を認めるセレモニーが行われた。制空権、制海権も奪われ東京への交通が確保できな い状況で日本は南方軍総司令部が代わってインドネシア独立承認を告げた。1カ月後の9月7 日が独立日に予定された。 日本の好意により独立を与えるという恩着せがましい形態であったが、ようやく念願のインドネ シア独立を手にしてスカルノ一行は充たされた思いであった。シンガポール経由で帰路につ き、シンガポールでマレーの民族主義者などと接した情報から戦争は日本の敗色が濃いという 感触は得た。しかしそれが目前であるとは思わなかった。 【8月14日】スカルノ一行は意気揚々とジャカルタに到着した。空港で出迎える人を前にイン ドネシア独立は「今やとうもろこしの花の咲く前である(→299)」と独立承認を慶ぶ報告が行なわ れた。しかし一行を迎えるインドネシア人に白けたものがあった。原爆の投下、ソ連の参戦に よって日本の敗戦がせまっていることは知る人には知られていた。 【8月15日午後】日本敗戦の噂がインドネシア人の間に流れた。不安になったスカルノは事 実を確かめるため陸軍の軍政監部を訪れたが、幹部は面会を避け「独立への援助ができなく なった」と伝えられた。⇒スカルノ 異様な雰囲気を感じたスカルノは海軍武官府の前田少将(→355)を訪ねた。前田は正式な通 知を受けていないので受取次第知らせると約束した。しかしその苦悩に満ちた表情は日本の 敗戦を窺わせるに十分であった。 【8月15日夜】帰宅したスカルノを待ち構えていたのはハエルル・サレー、スカルニ、アダム・ マリクという青年グループであった。かねてから青年グループはスカルノとハッタが進めていた 日本との話し合いによる独立は与えられた独立であるとして批判していた。彼らは日本の敗戦 という事態の転換においては即刻の独立を迫り、日本との武力衝突も辞すべきでなく、ジャカ ルタのペタに対する武装蜂起の指示を求めた。 しかしスカルノは独立直前までこぎつけた既成事実を無視する青年グループに対して断固と して拒否した。負けたとはいえジャワの日本軍は無傷である以上、兵力のないインドネシアは 対抗しえない。日本から正規の通知のない段階での行動にスカルノは慎重であった。青年グ ループに対する感情的反発もあった。最後は「やれるものならやってみろ」とさえ言いはなっ た。ハッタも同様であった。 【8月16日未明】青年グループは就寝中のスカルノ一家を起こし、日本軍が行動をおこしス カルノの身体に及ぶ危険が迫っており、対策会議に参加してほしいとして家族もろとも車で連 れ去った。
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544 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/10(月) 15:33:05 ID:Gg2yQnrC0 - 青年グループの台頭
経済的自立もなく政治的自立だけを求める独立についてはインドネシア人の中にも時期尚 早という意見もあった。これに対してスカルノは「鍋釜がなくても結婚できる。結婚してから鍋釜 を揃えればよい」と振り切った。 スカルノなどの民族主義者は日本の戦争遂行に協力する見返りとして独立を迫り、願望どお りオランダ領東インド(蘭印)を一丸としたインドネシアの独立が現実のものとなってきた。スカ ルノは指導者としてイスラム教との国体をめぐる関係、ジャワ島と外島(→019)のギャップの調 整など大きな問題を独立準備調査会で一気呵成に解決した。 しかしプムダ(Pemuda=青年)といわれる若い世代は、より性急に独立を求め反日的な言動 を行うようになった。スカルニ(Sukarni)、アダム・マリク(→447)、ハエルル・サレ(Chaerul Saleh)、ウィカナ等の青年がグループ(注)を形成していた。バンドゥンでは別のグループもあっ た。 独立準備調査会は青年代表をも取り込もうとしたが、出席していた青年のメンバーは日本が 政体について意見を述べたことに日本の干渉であると怒り退場した。青年グループにとっては 40歳台のスカルノ、ハッタも年老いた保守主義者であった。これら長老の支配する独立準備調 査会も日本によるお仕着せにしか見えなかった。⇒スカルノ・ハッタ像 青年グループにとって独立とはアメリカの独立がそうであったように、独立とは与えられるもの ではなく奪い取るものである。彼らは"革命"を求めた。 スカルノやハッタは日本の敗戦という思いがけない事態に直面したが、予定どおり独立準備 委員会の手続きを経て独立する以外のことを考えられなかった。しかしそれまで出番を封じら れていた青年グループは日本の敗戦を知るや直ちに立ち上がろうとした。 青年グループは今こそ天祐(てんゆう)の時と考え、ジャカルタ地区のペタ(→309)のカスマン 大団長に武装蜂起を迫ったが、カスマンはスカルノの命令を要求した。青年達はスカルノの自 宅に押し掛けて直ちに武力蜂起の指示を迫った。 スカルノは青年グループの主張を拒否した。「敗れたとはいえ日本軍は武力を保持したまま 現に存在している、インドネシア側に武力はなく素手同様であり、歯向かえば壊滅されるだけで ある、寺内南方軍総司令官は既に独立を認めているのに今あえて武力蜂起する意味はない。 何故、数日が待てないのか」というのがスカルノの言い分である。ハッタも同意見であった。
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545 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/10(月) 15:33:47 ID:Gg2yQnrC0 - レンガスデンクロック事件
「レンガスデンクロック(Rengasdengklok)」はジャカルタから東80qにある。外見はどこにでも あるインドネシアの普通の町である。今日ではレンガスデンクロックの名はインドネシア独立に 深く係わった土地として銘記されている。 8月16日未明、青年グループは独立を強行するためスカルノとハッタを家族(注1)ごと車で拉 致して連れてきたのがレンガスデンクロックのペタ(→309)の兵舎である。 民族主義者の影響を受けたスチプト中団長がペタを指揮していたレンガスデンクロックは、 急進派青年グループの巣窟となっており、共和国の最初の解放区となる準備が密かに進めら れていた。 ⇒レンガスデンクロックの記念館 青年グループは日本軍の影響の及ばない所でスカルノとハッタに即時独立を強要する意図 であった。事件のもう一人の主役はスバルジョである。海軍の前田武官(→355)からスカルノ、 ハッタの両者が行方不明であることを告げられたスバルジョは二人の居所を探し出し、青年グ ループの監禁から救出するためレンガスデンクロックに向った。 スバルジョが到着した頃、青年グループとスカルノ・ハッタとの激論の対立が続いている最中 であった。スバルジョは始めは青年グループを説得しようとしたが、放置すれば青年グループ による武装蜂起がもはや止められず、即時に独立宣言を行うという動きは防止できないと判 断した。 両者の調停をスバルジョが行った。16日に予定されていた独立準備委員会に出席のためジ ャカルタに集合している各地域代表の支持と日本軍部の承認を得て、17日に独立宣言を行う ことになった。後にスカルノはこの判断を是認しているが、ハッタは強要されたこの事件を不愉 快としていた。 一行がジャカルタに戻ったのは16日の深夜であった。連合軍より現状維持を厳命されてい た日本陸軍の幹部はインドネシア独立宣言の動きとの係わりあいを避けた。当時の幹部は知 らぬふりが陸軍の誠意であったと述べている(注2)。スバルジョの口利きで海軍武官府の前 田少将は独立宣言起草の場所として自らの官邸を提供した。 ⇒独立宣言起草記念館 レンガスデンクロックで行われた長老派(スカルノとハッタ)と青年派の間の激論にはいろい ろな評価がある。もし長老派の主張が容れられておれば、後にオランダがそうでなくても執拗 に繰り返した「インドネシアの独立は日本のお手盛りだ」という主張に対抗することは困難であ ったろう。 またもし青年グループの主張どおり即時独立を宣言し権力奪取のため武力行使を行えば治 安に責任を負わされた日本軍との間の流血は避けられなかったであろう。 結果的には17日の独立宣言は日本の関与しないインドネシア人の意志によるものであっ た。日本の武力干渉もなく整然とした秩序のもとに独立宣言は発せられた。置かれた困難な 状況の中で最善の選択であったろう。
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546 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/10(月) 15:34:37 ID:Gg2yQnrC0 - 独立宣言の起草
独立宣言。 私達インドネシア人民はここにインドネシアの独立を宣言する。 権力委譲その他に関することは十分な配慮をもって迅速に行う。 ジャカルタにおいて。 05年8月17日。 インドネシア民族の名において。 スカルノ・ハッタ 独立宣言はわずか数行の文書である。皺だらけの一枚の紙は国宝の中の国宝として首都ジ ャカルタのモナス(→158)の独立記念博物館に鎮座している。独立宣言を読み上げるテープの 故スカルノ大統領の声を聞くインドネシア人はいつもとは異なる真剣な表情である。 レンガスデンクロックから戻った16日夜、スカルノとハッタは軍政監部総務部長の西村少将 を訪れ独立宣言の承認を迫ったが、連合軍の指示を盾に拒否した。かくなる上は日本の承認 なしに独立宣言を行う以外に道はなかった。 起草には海軍武官府の前田武官邸が提供された。ありうるかもしれない日本陸軍の妨害を 排除できる場所である。スカルノ、ハッタ、スバルジョという長老派に青年派も加わった。その 中で問題は権力の"委譲"という言葉である。スカルノの筆跡と推測されている原稿には権力 の「奪取」と「委譲」という言葉が添削されている。奪取はクーデターを主張する青年グループで ある。最終的にはスカルノが委譲で押し切ったという。 スカルノとハッタが署名しているが、その署名者の資格はこれまでの独立準備委員会の名を 使用することは日本の与えた独立に繋がる。青年グループにはこれまでの日本軍政下の既成 事実をご破算にして当日の会議の出席者全員の署名という主張もあった。そのへんの議論の 収斂が『インドネシア民族の名において』である。 日付の"05年"は日本の【皇紀2605年】である。この事実がインドネシアの独立における日 本の影響力の証拠として云々する見方があるが、真相は疲労困憊のどさくさの中で年号まで の熟慮する余裕はなく時間ぎれとなったらしい。西暦はオランダの遺物として拒否されていた。 インドネシア暦元年とすべきであったというのが起草に参加した有識者の反省である。 日本では忌まわしい記憶とともに忘れ去られた皇紀の年号(注)が、インドネシアではレリー フになり公開(→161)されている。インドネシアの国のある限り保存されるであろう。歴史とは皮 肉な結果を残すものである。⇒独立宣言のオリジナル ⇒独立宣言文草稿 モナス(→158)に展示してある独立宣言の文書はコピーであって本物は金庫の奥深くにしま われているらしい。9月30日事件(→384)で権力構造から遠ざけられたスカルノ大統領はこの独 立宣言書を自宅に持ち帰り隠した。 自分が署名した文書であってもインドネシアにとって“国宝”である。この文書を"質"にして時 のスハルト政権をゆすったというエピソードが伝えられている。政府は取り戻すのに苦労し、そ の機会にレプリカが作られた。
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547 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/10(月) 15:35:47 ID:Gg2yQnrC0 - 東條内閣は、開戦直後に国家総動員法にもtづく新聞事業令を公布し
一府県一紙制を原則に新聞の統合を推し進めた。 1942年2月には、各新聞社の自主的統制機関であった日本新聞連盟が 官製の統制機関である日本新聞会に改組された。 さらに各新聞社には新しく検閲課が置かれ、内務省や内閣情報局などによる 検閲は、一段と厳しいものになっていった。 出版についても、政府は1943年2月に出版事業令を公布し、日本出版文化協会を 官製の統制機関である日本出版会に改組させた。 日本出版会は、すべての出版書籍に対して審査制をとり、 従来約6%であった不承認件数を30%に引き上げ、ひたすら政府に迎合する態度を取った。 雑誌の統廃合が強行され、1941年末に18,022あった新聞と雑誌が44年末には2,548に減少した。 企業整理も実施され、整理がほぼ終わった44年5月には 書籍のみ発効するものが2,241社から203社に、雑誌2,017社が996社にそれぞれ減ってしまった。 なかには中央公論社と改造社のように、内閣情報局から「営業方針において戦時下国民の 思想指導上許し難い事実がある」として「自主的廃業」を申し渡されたものもあったが、 その背後の黒幕は陸軍省報道部であった。 戦争目的に合致しないと当局が判断した出版物は、どのような立場のものであれ 削除・改訂・発売禁止の処分を受けた。 そのうえ新聞と出版の関係者は、割当制になっている用紙を確保するため、 関係当局の軍人や官僚にとりいることに狂奔せざるを得なかった。 このように言論と出版の統制は完璧であった。
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- 東条英機は日本をアメリカの植民地にした英雄
548 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/10(月) 15:36:40 ID:Gg2yQnrC0 - フィリピン、ビルマ、インドネシアなどでは戦争の末期に大規模な虐殺が相次いでおこなわれた。
フィリピンでは1943年2月に第14軍司令官田中静壱中将がパナイ島を視察中にゲリラに襲撃された事件がきっかけで 7月から徹底的な粛清作戦が実施された。ゲリラ討伐の名目で実際には子どもから老人まで多数が殺された。 米軍が44年10月にレイテ島、翌年1月にルソン島に上陸してきてから、特にマニラと南部ルソンで大規模な虐殺が次々と起きた。 バタンガス州とラグナ州では歩兵第17連隊(通称藤兵団)が「対米戦に先立ちゲリラを粛清する」 「住民にしてゲリラに協力するものはゲリラとみなし粛清せよ」と命令を下した。 バタンガス州リパの虐殺に加わった兵士の証言によると、16から60歳の男子を通行証明書を渡すという名目で学校に集め、 証明書を渡したうえで10人ずつ雑木林の奥の崖のそばに連れて行き、銃剣で刺して谷底に突き落としていった。 そうして一日がかりで約800人の住民を虐殺した(友清高志『狂気―ルソン住民虐殺の真相』徳間書店)。 フィリピンにおける日本軍による虐殺の犠牲者は数十万人にのぼると見られ、中国に次いで多い。 ビルマでは、これまでわかっているかぎりで最大規模の虐殺は1945年7月のカラゴン事件である。 パラシュート降下したイギリス軍の工作員とゲリラを支援していたカラゴン村を日本軍が襲い、 女性子どもも含めて、10人くらいずつ井戸の側に連行し刺殺してから井戸に投げ込み、 合わせて600人以上を虐殺した。現場で指揮した大隊長は、戦後、英軍による戦争裁判にかけられ死刑になるが、 裁判のなかで子どもまで殺したことを追及されると、もし子どもを助けても孤児になり生きていけないので殺したと弁明している (英国国立公文書館所蔵英軍戦争裁判記録)。 ビルマではインドからイギリス軍の反攻が行われ、それに呼応してビルマ国軍も日本軍を攻撃した。 また各地の抗日ゲリラも協力して日本軍をビルマから追い出そうとした。 そうしたなかで日本軍は住民全体を敵視し、虐殺したのである。 侵略軍であった日本軍は住民から信頼されていなかったし、 また日本軍も住民をいつ連合軍に寝返るかもしれない存在として、あるいは密かに抗日ゲリラに通じている者と疑っていた。 そうした時には住民全体が「抗日分子」に見えてくる。これは中国での日本軍もそうだった。 日本軍の一連の住民虐殺は、戦争だからという一般論によって説明できるものではなく、侵略戦争のなかでおこなわれた残虐行為であった。
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- 大東亜戦争とは「今」何を残したと思う。 弐号
77 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/10(月) 15:37:25 ID:Gg2yQnrC0 - フィリピン、ビルマ、インドネシアなどでは戦争の末期に大規模な虐殺が相次いでおこなわれた。
フィリピンでは1943年2月に第14軍司令官田中静壱中将がパナイ島を視察中にゲリラに襲撃された事件がきっかけで 7月から徹底的な粛清作戦が実施された。ゲリラ討伐の名目で実際には子どもから老人まで多数が殺された。 米軍が44年10月にレイテ島、翌年1月にルソン島に上陸してきてから、特にマニラと南部ルソンで大規模な虐殺が次々と起きた。 バタンガス州とラグナ州では歩兵第17連隊(通称藤兵団)が「対米戦に先立ちゲリラを粛清する」 「住民にしてゲリラに協力するものはゲリラとみなし粛清せよ」と命令を下した。 バタンガス州リパの虐殺に加わった兵士の証言によると、16から60歳の男子を通行証明書を渡すという名目で学校に集め、 証明書を渡したうえで10人ずつ雑木林の奥の崖のそばに連れて行き、銃剣で刺して谷底に突き落としていった。 そうして一日がかりで約800人の住民を虐殺した(友清高志『狂気―ルソン住民虐殺の真相』徳間書店)。 フィリピンにおける日本軍による虐殺の犠牲者は数十万人にのぼると見られ、中国に次いで多い。 ビルマでは、これまでわかっているかぎりで最大規模の虐殺は1945年7月のカラゴン事件である。 パラシュート降下したイギリス軍の工作員とゲリラを支援していたカラゴン村を日本軍が襲い、 女性子どもも含めて、10人くらいずつ井戸の側に連行し刺殺してから井戸に投げ込み、 合わせて600人以上を虐殺した。現場で指揮した大隊長は、戦後、英軍による戦争裁判にかけられ死刑になるが、 裁判のなかで子どもまで殺したことを追及されると、もし子どもを助けても孤児になり生きていけないので殺したと弁明している (英国国立公文書館所蔵英軍戦争裁判記録)。 ビルマではインドからイギリス軍の反攻が行われ、それに呼応してビルマ国軍も日本軍を攻撃した。 また各地の抗日ゲリラも協力して日本軍をビルマから追い出そうとした。 そうしたなかで日本軍は住民全体を敵視し、虐殺したのである。 侵略軍であった日本軍は住民から信頼されていなかったし、 また日本軍も住民をいつ連合軍に寝返るかもしれない存在として、あるいは密かに抗日ゲリラに通じている者と疑っていた。 そうした時には住民全体が「抗日分子」に見えてくる。これは中国での日本軍もそうだった。 日本軍の一連の住民虐殺は、戦争だからという一般論によって説明できるものではなく、侵略戦争のなかでおこなわれた残虐行為であった。
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