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投球者:名無しさん
直輝
日本プロボウリング協会(JPBA)スレ

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日本プロボウリング協会(JPBA)スレ
722 :投球者:名無しさん[QWQ02010@nifty.ne]:2012/06/01(金) 20:36:59.68 ID:GWTAHmqj
その時、文殊が維摩に問うた。
「慈(なさけ)と喜(よろこび)とは何か。」

維摩「功徳をすべての人々と共有することが『慈(なさけ)』であり、人々に幸せを恵むことが『喜(よろこび)』である。

文殊「生死に畏れを懐く菩薩は何に頼るべきであろうか。」

維摩「仏の功徳の力に頼ればよい。」

文殊「仏の力に頼るにはどうすればよいのか。」

維摩「すべての人々を解脱させるように働くとよい。」

文殊「人々を救うには、何を除けばよいか。」

維摩「その煩悩を除くとよい。」

文殊「その煩悩を除くには何を行わせればよいのか。」

維摩「正しい念(おもい)を懐かせるがよい。」

文殊「どのようにして正しい念(おもい)を懐かせればよいのか。」

維摩「すべてのものが生まれず滅ばないという不生不滅の理法を会得させるのがよい。」
日本プロボウリング協会(JPBA)スレ
723 :直輝[QWQ02010@nifty.ne]:2012/06/01(金) 20:39:54.55 ID:GWTAHmqj
世尊は言われた。
「この父母より生まれて食物によってたもたれる肉体は、無常であって壊れるもの、苦しみのもの、無我のもの、空なるものである。
この道理をみて、身体に対する欲と執着とを離れねばならぬ。また、我々の感覚には苦と楽、不苦不楽の三種があるが、
この三つは皆、縁によって生じたもので、無常にして滅びるもの、執着をすべきものではない。
この教えによる私の弟子達は、苦と共に楽をも、また不苦不楽をも厭い、貪欲を離れて解脱し、何者とも争わずに生活するのである。」
舎利弗が言われた
「友よ、貪欲は悪である、瞋恚(いかり)も恨みも隠すことも悪である。また悩み、嫉(ねた)み、惜しみ、諂(へつら)い、誑(たぶら)かし、剛情、お喋り、我慢、慢心、怠惰も
すべて悪である。友よ、これらの悪法を捨てるために中道がある。中道とは八正道のことである。これによって正しい智慧を生み、さとりを得るのである。」
「弟子達よ、永久に変わらず続くものを見たことがあるか。」
「世尊、それはありません。」
「弟子達よ、私も見たことがない。世に常住永存のものはない。我に執着すれば、憂い、悩み、苦しみの起こらないことはない。
弟子達よ、我があれば我がものもあり、我がものがあれば我もあるはずである。しかし我も我がものも何処にも発見されるものではない。
従って、この世界と自我とは永久に存在し、永遠に変わらないという見解は愚かなことである。」
「弟子達よ、身(からだ)は常住であるか無常であるか。」
「世尊、無常であります、」
「無常なものは苦しみであるか、幸福であるか。」
「世尊、苦しみであります。」
「無常にして苦しみ、移り変わる法(もの)に対して、『これは私のものである、私である。私自身である。』というのは適当なことであろうか。」
「世尊、それは適当ではありません。」
「弟子達よ、それは身(からだ)についてばかりではない。こころについても同様である。それゆえにいかなる身(からだ)でも、
すべての身(からだ)は皆、『「私」のものではない、「私」ではない、「私」自身ではない。』と、正しく知らなければならない。
こころについても同様である。弟子達よ、この教えの弟子はこのように見、このように聞いて、身(からだ)とこころを厭(いと)い、欲を離れて解脱する。
そして、『解脱した』という智慧が生まれる。『生は尽きた、浄(きよ)らかな行(ぎょう)は成し遂げた、成すべきことは成し終わった、
この生の終わった後に他の生はない』と知るのである。このようなものが障りを離れ、重荷を下ろし、束縛を離れた聖者といわれる。」
「弟子達よ、ある出家者は 根拠もなく私を非難する。『ゴータマは人々の破壊と断滅を教えるものである。』と、弟子達よ、私はそうはいわない。
私は以前も今も、現世の苦しみとその苦しみの断滅とを教えているのである。
たとえ他人は仏を非難し、罵(ののし)り、悪口しても、仏は焦らず、怒りを抱かない。
またたとえ、他人が仏を尊び敬い供養しても、仏は喜ばず、楽しまず、心高ぶらない。
また他人が仏を尊び、敬い、供養する時に、仏はこのように考える。『彼等が私にこの様なことをすることは、真理の法にかなった自然なことである』と。
それゆえ、もし他人が汝等を非難し、罵り、悪口しても、汝等は、心を苛立たせ、怒りを抱いてはならない。また、他人の敬いを喜び、高ぶってはならない。
それは真理の法にかなった自然なことであると思わねばならない。」
「弟子達よ、それゆえ汝等のものではないものは、それを捨てよ。それを捨てれば、汝等の永劫の幸福となるであろう。」
「弟子達よ、汝等のものでないものとは何であるか。身は汝等のものではない、その身を捨てよ。心も汝等のものではない、心を捨てよ。
それを捨てれば汝等の永劫の利益となり幸福となるであろう。」

日本プロボウリング協会(JPBA)スレ
725 :投球者:名無しさん[QWQ02010@nifty.ne]:2012/06/01(金) 20:40:54.59 ID:GWTAHmqj
「弟子達よ、例えば我が弟子であって私の衣の裾をとって後ろに従い、私の足跡を踏んでいても、欲深く心乱れているならば、
彼は私から遠く、私も彼から遠い。何故なら、彼は法を見ておらず、法を見ない者は私を見ない者だからである。
しかし私から百里離れていても、彼が欲を離れ、正しい心でいるならば、彼は私の側にいる者である。何故かといえば、彼は法を見、
法を見ることによって私をみるものであるからである。」

ある日、また世尊は、祇園精舎の庭で弟子たちに言われた。
「弟子達よ。人々が業を作るのには三つの原因がある。それは貪欲(むさぼり)と瞋恚(いかり)と愚痴(おろか)である。
人々はこの三つの原因から業を作り、業の熟した処に生まれ、業の報いをこの世や後の世に受ける。ちょうど種を地に蒔き、
雨がよい時期に降り注げば、芽を吹いて生長するように、人々はこの三つの原因から業を作り、その業が熟して報いを受ける。
弟子達よ、涅槃に入る修行に三つの原因がある。それは貪欲(むさぼり)のないこと、瞋恚(いかり)のないこと、愚痴(おろか)でないことである。
この三つによって修行すれば、未来に迷いの生を起こさないで、涅槃に入りちょうど根こそぎにされた草や芽をつまれた多羅樹のように、再び迷いの生を引き起こさない。

弟子達よ、世には三つの感覚がある。苦の感覚と、楽の感覚と、不苦不楽の感覚とである。楽の感覚は苦しみと見なければならない。
苦の感覚は毒矢と見なければならない。不苦不楽の感覚は無常と見なければならない。このように見て、正しく見、愛の渇きを断ち、縛(いまし)めを解き、
正しい意(こころ)の理解によって、苦しみの終わりをなす聖者となるのである。
弟子達よ、愛の渇きには三種あり、欲愛と有愛(存在を好むこと)と非有愛(存在を嫌うこと)とである。

愛のくさびに縛られて、有と非有とを喜ぶ人は、魔に囚われて安らかではない、老いと死と輪廻の道は哀れである。
欲愛を離れ、心の汚れを尽くして、この世で彼岸に至る。

弟子達よ、三つの法(みち)を具える時に、悪魔の国をいでて太陽のように輝くのである。三つの法(みち)とは聖者の戒と定と慧とである。

弟子達よ、三つの聖者の法(みち)がある。身(からだ)と意(こころ)と語(ことば)が静かに修まっていることである。
弟子達よ、誰でも、貪欲(むさぼり)と瞋恚(いかり)と愚痴(おろかさ)とを捨てなければ、悪魔の罠にかかり、悪魔の命令のままに動かなければならない。
ただ、この貪、瞋、痴を棄てる時に、悪魔の国を離れる。」



日本プロボウリング協会(JPBA)スレ
726 :投球者:名無しさん[QWQ02010@nifty.ne]:2012/06/01(金) 20:42:31.28 ID:GWTAHmqj
仏の眉間の百豪相(びゃくごうそう)の中から『仏の法を明らかにする光』があらわれ、無量の光で遍く一切の世の中を照らし、
無量の人々の心の眼を覚まし、諸々の悪道の苦しみを滅ぼし、その光は弟子達をめぐり、ある菩薩の頭頂に入った。
その菩薩は、歓びに心おどる弟子達に代わり、普賢菩薩に申された。
「普賢菩薩よ、どうぞ広大で無限の『如来性起の法(真理による救済の働き)』を顕してください。」

普賢菩薩は答えた。
「仏子達よ、仏の性起の法(真理による救済の働き)は、はかり知ることはできない。
それは限りない多くの因縁をもってさとりを得、この世に出てこられたからである。
限りない智慧を起こして一切の人々を見捨てず、限りない長い時の間に深く正しい心をもって善根を修め、限りない慈悲をもって人々を救い、
限りない行を修めて大願を捨てず、更に限りない方便の智慧を出して法の真実の意味をのべられたことは、
喩えば、大きな雲が雨を降らすのにその雨粒の数が、どれほどあるか誰にもわからないようなものである。
仏子達よ、降る雨は一味であっても、そのところによって差別があるように、仏の大悲の一味の水は、諸々の人々の機根(きこん)に応じて一様でない。
この仏の性起の法は、あらゆる御仏の平等の智慧の起こすところである。そしてその一味の智慧は限りない功徳を生むのである。

仏子達よ、仏の御心はどのようにして知られるのであろうか。それは限りない智慧であるとしか知ることができない。
この仏の智慧はすべての智慧の拠り所であって、他の何かに頼るものではない。
喩えば、大空はすべてのものの拠り所になりながらも、それ自体は何ものをも拠り所としていないようなものである。
また、喩えば、四つの大海の海水は、世界の大陸と島々を潤すから、もし人が水を求めるならば、どこでも得られるが、
大海は、決して「我はすべてのものに水を与える。」という思いを起こすことがないのと同じく、仏の智慧もあらゆる人々の心を潤し、
もし人がそれぞれ教えの実践において善根を修めるならば、皆、智慧の光を得る。けれども仏は決して「我は人々に智慧を与える」という思いを起こすことはない。

仏子達よ、仏の智慧の至らない所はない。何故かといえば、人々に仏の智慧のそなわらないことはないからである。
ただ人々はものの見方が逆さまなので、仏の智慧を知らない。逆さまなものの見方を離れれば、一切智、無相を知る智、完全な智慧を起こすであろう。
ただ、愚かな者は、もの事を逆さまに見る思いに支配されているので、仏の智慧を見ず、知らず、信心を起こさないままである。
仏は自由自在にあらゆるものを見渡す眼で一切の人々を優しく見つめておっしゃられるには、
『どうしたことであろう。何故、仏の智慧をすべて身の中にそなえながら、人々はこれを知らないのであろう。
私は彼等に教えて、聖者の道を覚らせ、永遠に妄想を離れさせて、仏の智慧が身の中にあって、仏と異なることのないことを知らせよう。』
仏子達よ、仏はただ、人々を喜ばせるために世に現れ、憂え悲しみ慕わせるために涅槃を示される。
しかし実際は、仏はこの世に出られることもなければ、涅槃に入られることもない。何故なら、仏は法界のように常住であるからである。

仏子達よ、喩えば、太陽は世界を照らしすべての器の水に映っても、「自分はすべての清い水に映っている」という思いはない。
そのとき一つの器が壊れると、太陽は映らなくなるが、それは太陽の過失ではない。水の器が壊れたからである。
仏の円満な智慧の太陽は自在に、すべての世界、すべての人々を照らして垢を除き、常に清い心の器の中に現れる。
ただ壊れた器、濁った心の人々は、常に仏の法の身体を見ないので、仏の涅槃に、おかくれになったと驚いて初めて救われるのである。そのために仏は涅槃を示されるのである。
しかし、実際には、仏は生まれず、滅びず、永遠に実在する。
また、喩えば、世界に大火事が起こり、草や木を焼き尽くしていくが、草や木や町や村がない所までいくと、その火は自ら消えていく。
しかし、それは世の中の火が無くなったわけではない。仏もすべての世界に救いの火を燃やし、救いの草がない所に涅槃を示されるが、世の中から仏が居なくなられたわけではない。
日本プロボウリング協会(JPBA)スレ
727 :投球者:名無しさん[QWQ02010@nifty.ne]:2012/06/01(金) 20:43:35.63 ID:GWTAHmqj
世尊は中インドから南に行かれ、海を渡って楞伽島(りょうがとう)に入られた。そこで城主の羅婆那王(らばなおう)は王の宮殿に世尊を招いた。

「世尊の御心は法の蔵で、無我でいらっしゃるのでまったく穢れがございません。すべての真理をさとられて安らけくいらっしゃいます。どうか楞伽の城にてさとりの智慧をお説きください。」

「王よ、一切は幻のようなものである。あらゆる境界(きょうがい)は皆自分の心の分別から生まれたものに過ぎない。分別の心では真の仏を見ることはできない。」

王は世尊に問うた。
「世尊は常に法さえも捨てねばならぬ、まして非法はなおさらである。と説かれていますが、その意味はいかなるものでしょうか。」

世尊は言われた。
「法とはこの世に存在すると考えられているものである。喩えば、瓶(かめ)は壊れるものである。しかし人はその瓶(かめ)には実体があると考える。

そのような見方を捨てなければならないという意味である。そこで自らの内の本性を見れば、外に執着することはいらない。

このように正しい見方で法(もの)を見ることを法(もの)を捨てる、というのである。」

「王よ、また非法というのはこの世に存在しないと考えられているもの。例えば、兎の角のような実のないものを言う。

これも瓶(かめ)のように執着すべきものでないので捨てねばならぬというのである。」

「王よ、仏の法も一切の分別(はからい)と無用の議論を離れている。ただ真の智慧だけがこれをさとるのである。

人々を安らかにしたいために法を説き、差別を離れた智慧を仏という。つまり仏は真の智慧と一つであるから、分別の智慧で考えることはできない。」

「王よ、壁に画かれた生き物に感覚がないように、世のあらゆる人々も幻のようなものであると見なければいけない。

このように見るのが正しい考えであり、これと異なるのを分別の考えというのである。」

「王よ、人は分別によって法と非法に執着するのである。喩えば、人が水面に映った自分の姿を見たり、灯や月によってできた自分の影を見て分別を起こし、
執着し、喜んだり怖れたりするようなものである。法も非法もただ分別に過ぎない。分別を捨てることができず、あらゆる虚妄を増して、煩悩の寂滅を得られないのである。

寂滅とは、虚妄を離れた一心のことであり、それが仏を生む蔵であり、それを如来蔵と称する。」


日本プロボウリング協会(JPBA)スレ
728 :投球者:名無しさん[QWQ02010@nifty.ne]:2012/06/01(金) 20:44:38.74 ID:GWTAHmqj
阿難は合掌して改めて世尊にお尋ね申し上げた。
「心は身の内にあるのでもなく外にあるのでもないとしますと、いったい心の本体はどこにあるのでしょうか。願わくば世尊、大慈悲の御心で、この理を明かしてください。」

世尊は言われた。
「阿難よ、すべての人々は始まりもない遠い昔より、業の絆に縛られているのであるが、それは二つの根本を知らないからである。
一つは生死の根本が迷いの心であることを知らないで、これを自分の本性と思っていること。二つは覚りの本体であるところの清浄な本心が、自分の上に備わっていることを知らないことである。」

「世尊、それでは私の本当の心は何でしょうか。」

世尊は言われた。
「阿難よ、分別の心は実のない虚妄のものである。因縁によって起こり、因縁によって移り変わる実体のない空なるものである。
それを実のある心と信じたところに、汝の永劫の迷いが起こったのである。」

また世尊は弟子達に言われた。
「弟子達よ、すべての人々はみな客塵煩悩のために、常にその清浄な本心を汚されて、誤った考えに堕ちこんでいる。
外の因縁にひかされて起こる煩悩は、常に動き動いて止むときがない。それは客のようにしばしの間宿る心であり、塵のように外からくっついて内の本心を汚すものである。
けれども覚りの本体である浄い心は、そのために動かされることもなければ汚されることもない。煩悩の塵に埋まってもその性は失われないのである。
汝等心して、動く客人の煩悩を自分の本性と思ってはならない。動かない覚りの本心に目覚めて、真の自分を知らなければならない。
もし動く煩悩に心捉えられれば、いつまでも転倒(さかさま)の見方に追われて、迷いの巷にさまよわなければならないであろう。」

その時、波斯匿王(はしのくおう)が申し上げた。
「世尊、この体が死んで滅ぶことは淋しいことですが、いま世尊は、滅ぶことのない覚りの本心というものをお説きになったので、私はまことに明るい気持ちになりました。」

王はこの世尊の御教を聞いて、たとえ朽ち行く身は捨てても、そこに滅びないものがあって、永遠の生を得ることができると知って皆と共に類いない喜びに浸った。

この時、阿難が立ち上がって、世尊にお尋ね申し上げた。
「世尊、もし私達の見方に生ずることも滅びることもないとしますと、私達は本心の性を失って、転倒(さかさま)の見方によって動いているとはいえないのではありませんか。」

世尊が言われた。
「物も心も、すべてのものは皆因縁によって起こるものである。そしてその因縁は、もとは心から現れたものである。これは今までもしばしば説いたことである。
そうすると汝等の身も心も、本来微妙(みみょう)な明らかな心があって、その中から表れたものであるということはわかるであろう。
しかし汝等は、その微妙(みみょう)な本心を忘れていて、本来悟りの性を持った心の中で迷い、その迷いの妄想(もうぞう)を本性であると思い込み、それがこの肉身の中にあるように信じている。
それゆえ、山河、大地、虚空の果てに至るまでも、みな微妙(みみょう)な本心の中から現れたものであるということに気がついていない。まことに小さな泡を捉えて大海を究めたように思っている愚かさではないか。」
日本プロボウリング協会(JPBA)スレ
729 :投球者:名無しさん[QWQ02010@nifty.ne]:2012/06/01(金) 20:49:40.84 ID:GWTAHmqj

世尊が言われた。
「阿難、あきらかに聞くがよい。いまこの講堂は、日が出ているので明るいが、もし日が没すれば暗くなる。
明るさは日中の終わりとともに過ぎ去り、暗さは夜が過ぎ去るとともに終わる。けれども、ものを明らかに見究める力はどこにも過ぎ去ることはない。
明るさが来ても暗さを知る力がなくなったのでない。暗さが去っても、それは明るさを見る力が起こったためでない。
明暗の去来に関係はなく、明暗を見る力は常に住(とどま)っている。明るしと見るも一時の心、暗しと見るも一時の心、それは心の真性ではない。
明と暗とに捉われない常住の心、それが汝の真心(本心)である。そうすると心の心性は明に侵されず、暗に汚されず、外の因縁にひかれて、
去来する善悪や好憎などの煩悩の中に包まれながら、しかも染まることなく汚れることなく、本来微妙(みみょう)清浄にして消えることのないものであると知らなければならない。
阿難よ、円い器に水を盛れば円くなり、四角い器に盛れば四角になる。しかし本来水に円さ四角さの形があるのでない。
ちょうどそのように、すべての人々は始めなき昔から、盛られた水に人生を見て、あるいは大小を考えあるいは四角や円を考え、あるいは善悪を考え、あるいは好憎を考えて、
その考えのために使われて外物のみを追って苦しんでいる。しかしそれは、器という外の縁に縛られて、その縛られた自己を己れの心性のように思うために起こった妄想である。
ゆえに縛られた見方を縛る外縁に還(かえ)して、縛られない自分の真心に立ち帰るならば、その人は仏と同じものになって身も心も完全に明らかとなり、
何ものにも障(さ)えられることなく、この身このままにして、十方の法界をも受け入れることができるのである。
阿難よ、いま仏を生む如来蔵の真心は、本来清浄にして法界に遍く満ちている。」
また風吹けば動となり、風が止むと静となる。すなわち定まった相(すがた)がないから、縁に因っていかなる相(すがた)でも顕すのである。
そのように、覚りの本心もまた、一定の相(すがた)を持っていないから、機に応じてどのようにでも顕れるのである。如来蔵といわれる覚りの本心は空でもなければ、地水火風でもなく、色声香味触法でもない。
また無明の顕れた世界でもなければ、その滅した境地でもない。その何れでもないので、人がもし地水火風の形あるものに執着して道を求めれば、
そこに地水火風によって成る形として顕れることができるし、またその形あるものが因縁から成って自性のない空のものであると見る人があるならば、如来蔵はその空の中に顕れることができるであろう。
けれども仏は、法界も円かに満ちて何物にもさえぎられることのないこの妙覚に一致しているから、一を無量に、無量を一に、小を大に大を小に、
よく現しよく一致して少しもさえぎられることがなく、道場に坐しながらそのままにして身を十方に遍くし、また十方の量りない世界をもこの一身の中に含め、あるいは、一すじの毛端にも宝玉のように尊い法の世界を示し、
微塵の小さき中にも転迷開悟の大法輪を示すことができるのである。それであるから、凡夫の眼には、仏は実に差別の世界において差別の境界(きょうがい)を生むかのようにも見えるのである。」
自らさとらないでいてさとったように言い、人々の善智識の如く振舞って愛着(あいじゃく)の奈落に導くなどはみなこれである。
ゆえに禅定を修めるに就いても、まず貪りの心を断つようにと教えることが要である。諸々の仏の教えというも、実にこのことを第一とする。
阿難よ、貪りを断たないで禅定を修めるものは、ちょうど砂や石を蒸してご飯にしようとするようなものである。百千劫に蒸してもただ熱砂しかえられないように、百千劫かけて三悪道をめぐるより外はない。
また、阿難よ、殺す心を離れ盗む心を除かなければ、ついに煩悩の塵を出ることはできない。たとえいかように禅定を修め智慧を研いても、殺す心を離れねば鬼神の道に堕ち、盗む心を除かなければ悪霊の道に堕ちるであろう。
阿難よ、さらにこれらの殺し、盗み、貪りの心を離れても、妄語をいうならば仏の種を失うに至るであろう。
すなわち未だ得ない境地を得たと言い、さとらないでいてさとったと言い、自ら世に最も優れた者であるかのように言いふらして、世の供養を貪る者などは、
永く善根を潰して正しい知見に戻ることのできない者である。ちょうど糞を刻んで栴檀(せんだん・・香木)に似せ、栴檀の香気を求めようとするようなものである。
だから仏の弟子たる者は、つねにその心を直ぐな糸のようにしているならば、まことの禅定に入ることができ、永く魔の業から脱れて菩薩の智慧を遂げるようになるだろう。」
日本プロボウリング協会(JPBA)スレ
731 :投球者:名無しさん[sage]:2012/06/01(金) 22:52:10.64 ID:GWTAHmqj


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