- 【下関北九州道路】北九州市3【東九州道】
966 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2019/10/18(金) 09:54:58.85 ID:mjaMEvaM - だが、ここで誤解してはならないのは、「地域のつながりらしきもの」が辛うじて残っていることが
前提条件になることだ。つまり、普段から没交渉で住民同士が居住地をただ同じくしているだけ では「災害ユートピア」は立ち上がりにくいのである。 東京都台東区が避難所を訪れたホームレスの男性2人に対し、その受け入れを拒否したことが その後のネット上での賛否≠含めて波紋を呼んでいるが、このような議論が湧き起こること 自体が「社会の分断」が加速度的に進んでいることを如実に示している。もはや支援の手を 差し伸べ、助けるべき「同じ人」としては映ってはいないのだ。 ソルニットのいう「社会の民営化」を背景にした「社会の分断」が行き着くところまで行けば、身近な 人間関係のネットワークが脆弱なゆえに助け合いが困難になることから、電力システムや 上下水道などのライフラインの寸断が「万人に対する万人の闘争」状態に直結しやすくなる。 台風前日の買い溜めなどの物資の奪い合いはその始まりに過ぎない。この場合、ソルニットのいう 「暴徒」は、正確には被災地における油断のならない「競争相手」であり、隣人の損得に敏感な 「クレーマー」である。 ■「災害ディストピア」が浮かび上がった これは、被災によってもはびこる「災害ディストピア」である。 武蔵小杉の惨状について一部の人々が、「あそこはハイソっぽくてムカついてたからざまあだわ」 とあざ笑うことは、構図としてはあまりにもわかりやすくて飛び付きたくなるかもしれない(某タワマン の管理組合の通常総会のレポートで「勝ち組」を自称していたことが、ネットの掲示板で嘲笑の対象 になっていたことが象徴的だろう)。 だが、事態の本質は、貧富の差以前に当然のように「同じ人」ではなく「鼻持ちならないニューリッチ」 という「別人種」、他者を「不愉快な種族」と決め付けていることにある。これが「ムサコのタワマン族」 「ホームレス」というレッテル貼りに共通する心理なのである。 しかしながら、このような言動は「社会の分断」にブレーキをかけない限り、自然災害が起こるごと に「分断のレベル」に応じて噴出することは避けられない。ましてや同じ地域でも被災の程度に 「雲泥の差」があるケースが増えている昨今、ますます「災害ディストピア」と呼べるコミュニケーシ ョンに拍車がかかることになるだろう。 そして、「災害ディストピア」に関連してもう1つ付け加えておきたいのは、少なくない人々が自然災害 に「世直し」的な機能を見出しているところだ。 武蔵小杉について「セレブの町気どりで調子に乗ってるから天罰が下った」と評している書き込み が典型だ。これはある種の「終末観」と「長者没落譚」(富裕者の転落話)を都合よくブレンドしたもの だと思われ、「二極化する日本社会」を正常な秩序≠ノ回復する「天の采配」を期待しているとも 取れるのである。 民俗学者の宮田登は、「三代続く長者なし」という諺の背後にある「原初的要因として火難・水難が 指摘されている」という(『終末観の民俗学』ちくま学芸文庫)。「社会の分断」がこれらの思考に絡め 取られるのはまずいだろう。 ここで絶対に忘れてはならないのは、ソルニットが述べているように、どのような災害が振りかかろ うとも、結局は日常生活が取り戻されるということである。そして、日常生活こそが本来わたしたち が共同性を紡がなければならない機会であり、それがなければ災害時の危機管理もおぼつかない。 ■「誰もが被災者になりうる」のに 地球温暖化の影響により、集中豪雨や超大型台風などのこれまで経験のなかったような異常気象 が、今後ますます起こりうる可能性は各方面で指摘されている。要は、従来のように過去の降雨量 のデータを参考に堤防などを整備したところで、豪雨による氾濫や堤防決壊などのリスクに対処 できない可能性が高まるということだ。 「誰もが被災者になりうる」――そんな未曾有の時代に突入しているにもかかわらず、自然の猛威 にさらされる被災地を他人事として眺め、いざそれが自分事になると「寄る辺ない」世界にいること に気付く。これがわたしたちの偽らざる現在地≠ゥもしれない。 . 真鍋 厚 :評論家、著述家
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